人の幸福を願う練習 〜たとえば、人混みが苦手な人のためのトレーニング〜
人混みって、威圧感を感じないだろうか。
普段からマインドフルネスのトレーニングを積んでいても、なかなか、完全に苦手意識を克服するのは難しいと感じるかもしれない。
たとえば、呼吸に穏やかな意識を向けたり、次々に浮かび上がる思考を受け流したり、様々なマインドフルネスのテクニックを使っても、弱くないストレスを感じないだろうか。
むしろテクニックで対抗しようとした分、消耗して、どっと疲れを感じることだってあるだろう。
だけど、とっておき、秘密のトレーニングがある。
それが「人の幸福を願う」というテクニックだ。
目に映る人の幸福を祈る
やり方は簡単だ。
「目に映る人が、幸福でありますように」と祈りながら、歩くだけ。
これがうまくいけば、強力な効果を発揮する。
行き交う人たちの雰囲気や、表情なんかを見ながら、この言葉を心の中で繰り返して、穏やかな気分や、優しさを感じられるかどうか、試してみる。(あくまでも、試してみるだけ)
心の準備さえ整っていれば、きっと特別な気分を感じることが出来るだろう。
何より、このテクニックを使う事自体が楽しいし、ストレスのレベルもグンと低くなる。
むしろ色々な人の様子を見るのが楽しくなって、癒やしさえ感じられるぐらいだ。
「人の幸福を願う」というテクニックは強力だ。
なぜなら「自分のためにテクニックを駆使する」というのとは、根底から別のベクトルを向いているからだ。
うまくいかない場合
ただ「人の幸福を願う」というのは、案外、難易度が高い。
他の色々な要素が安定していないと、なかなかうまくいかないかもしれない。
たとえば「呼吸が整っている」とか「心の状態が安定している」とか「基本的な気分が良い」とか、様々な条件が整っている必要がある。
もし人の幸福を願おうとして、心が反発を感じるようなら、それはきっと、今はまだ準備が整っていないということだ。
うまくいかないようなら、いったん中断して、基本的なトレーニングに戻った方が良いだろう。
(「落ち着いた呼吸をする」とか)
(ちなみに「難しすぎたら、シンプルなやり方に戻る」というのは、マインドフルネスのトレーニング全てに適用できるやり方だ)
人の幸福を祈るのも練習
重要なのは、人の幸福を祈るということを、モラルの問題じゃなく、1個のテクニックだと理解してみること。
こういう言い方をすると、人によってはエゴイスティックだと思うかもしれない。
だけど、心の中で人の幸福を願っても、人を呪っても、今日の夕飯のことを考えても良いのだから、どうせなら人の幸福を願ってみるのも悪くないだろう。
これを「モラルの問題だ」と理解してしまうと、
「自分には、人の幸福を祈る資格があるんだろうか」とか、
「自分でさえ幸福じゃないのに、人の幸福を願ってどうなるんだろうか」とか、また思考の渦につかまえられてしまうかもしれない。
あくまでも、これはテクニックだ。
あくまでも、これは練習だ、と理解してみること。
(練習なのだから、うまくいかなくても問題ないし、あとでやり直しても良い)
幸福の種をまく
心の中で祈るというのは、何の意味もない行為だ。
心の中で祈ったって、世界平和には、1グラムもプラスにならないだろう。
だがどうやら、意識のプロセスは、理屈どおりには動かないようだ。
このテクニックがうまくいくと、自然と自分の心が優しくなって、人に対しても優しい心を持てていることに気付くかもしれない。
そして優しい心を持つと、自然に、人への接し方も優しくなるかもしれない。
個人的な経験で言っても、このトレーニングをした後に誰かに会うと、より優しい気持ちで話しかけられたり、いつもはしないような親切をすることが多い。
つまり「心の中で思うだけで、何にもならないような行為」が「実は、自分の心に影響を与えて、人にも影響を与える」ようなのだ。
(もちろん、自分だけに影響があるとしても、相当なプラスになる)
つまり、行き交う人たちの幸福を願うことは、例えその人たちに直接影響を与えなくても、まわりまわって、人類に幸福の種をまいていることになる。