思考は悪者なのか? 〜矢印の方向の話〜
マインドフルネスのトレーニングを始めた頃は、混乱した。
なぜなら「思考が浮かんでくるたび、呼吸に意識を戻しなさい」と言われるから。
たとえ、マインドフルネス関係の本にそういう意図はなくても、これはすごく誤解されやすい部分だと思う。
まるで思考や言葉や意図が、避けるべきもののように思えてくるから。
だけど、僕のいまの理解はこうだ。
重要なのは「思考そのもの」ではなくて「矢印の方向」だと。
自動思考 => 心
たとえば、思考が自動的に働いて、心身にダメージを与えている時。
この場合は、思考がマイナスに働いているわけだから、思考は悪者だ。
心が訓練されていない状態では、多くの人はこの状態にあると思う。
この場合、まずは「思考」のレベルを落として、「もっと重要なもの」を見つける必要がある。
まずはいったん「思考だらけの世界」から、離れる必要がある。
意図 => 心
だけどマインドフルネスのトレーニングを積んでいると、思考や言葉とも、わりと仲良く付き合えるようになってくる。
なので「言葉」を力点として働かせて、トレーニングに役立てることも出来るようになってくる。
たとえば人の幸福を願うトレーニングをする時は、言葉というものは役立つだろう。
ここでのポイントは「意図的に言葉を使う」「意図的に思考と付き合う」という部分だ。
まとめ
- 自動的に湧き上がる思考からは、いったん離れる必要がある
- 「意図的」に言葉や思考を扱えば、マインドフルネスの武器になる
幸福のアクセス権を広げよう
マインドフルネスのトレーニングを積んでいても、最初は、なかなか幸福が見つけられないかもしれない。
幸福はごくたまに見つかる、ものすごく繊細なもののように思える。
かなり慎重に、注意力を払って、ごくたまに、ようやく、ほんの少しだけ見つかるもの。
こういう意味で「幸福はシャイだ」という言い方は当たっている。
だけど、もっと優れたイメージを描くことは出来ないだろうか?
いや、できる。
幸福は海に似ている
マインドフルネスのいくつかの本にも書かれているとおり、幸福は「果てしなく広がる海」のようなものだという理解だ。
普段、僕らが「アクセスできていない」だけで、幸福は海のように、心のベースに広がっている。
そして、アクセスする訓練を積むことで、ときおり顔を覗かせる。
つまり、幸福を見つけるというプロセスは、
この「海」にたいするアクセス権を広げていくということだ。
このモデルでは
- 幸福を見つけるのには努力が必要
- 幸福はとてもシャイ (僕らのアクセス権が小さい場合は)
- 幸福は無尽蔵に存在する
という理解が、すべて同時に成り立つ。
優れたモデルを描こう
そして僕の考えでは
「より優れたモデル」は「より優れた成果」につながる。
幸福に対しても、より良いモデルを描くことで、より適切な方向に、諦めずに、地道に進んでいくことが出来ることだろう。
ビギナーズマインドを育てよう
マインドフルネスのトレーニングに慣れてくると、
技術面は向上するけれど、ビギナーズマインドが低下してくるかもしれない。
つまり「慣れてきて、初心を忘れる」という現象が起こる。
武芸やスポーツと同じで、マインドフルネスでもこれが中級者の罠だと思う。
だけどマインドフルネスの良いところは、
この「ビギナーズマインド」さえ、ひとつのスキルとして育てられるということだ。
やってみよう
具体的なやり方としては
「まるで、初めて呼吸するかのように、呼吸してみる」
「はじめてマインドフルネスを実践するみたいに、実践してみる」
「可能な限りマインドフルな、喜ばしい呼吸をしてみる」
これは「今まで使っていなかった筋肉を使う」みたいで、ちょっと難しく感じるかもしれない。
だけど新しいスキルを身につけるときは、必ずもどかしさや、うまくいかない感じを覚えるもんだ。
だけどマインドフルネスの基本的な技術を身に着けた後であれば、きっとこれも「練習次第で伸ばせるスキルだ」と理解して、ビギナーズマインドを伸ばしていくことが出来るだろう。
意識的な訓練をしよう
初心者の頃は、新鮮な気持ちで、自動的に「ビギナーズマインド」が訪れたかもしれない。
だけど中級者になった後は、意識的に「初心を取り戻す訓練」をしていくのが良いと思う。
意識的な訓練で、心の能力は伸ばすことが出来る。
これがマインドフルネスの基礎的な理解なのだから。
呼吸のクオリア 〜ビギナーズマインドを取り戻す〜
呼吸には質がある。
「マインドフルな呼吸」。
「心地良い呼吸」。
質感とか、クオリアとでも言えば良いだろうか。
「スピード」や「量」だけでは測定できないもの。
呼吸の「ニュアンス」が存在する。
そしてどうやら、マインドフルな気持ちは、マインドフルな呼吸と、強く関係しているみたいだ。
呼吸が関係するのは、単に、体や心の状態だけじゃない。
心が感じ取る「質感」も、呼吸の「質感」と連動しているような気がした。
マインドフルネスの質感
「マインドフルネスな質感」は、存在するものだった。
ビギナーズラックとでも言うんだろうか。
トレーニングを始めたばかりの頃、偶然にも僕は、マインドフルネスの最も素晴らしい部分と出会えていたのだ。
マインドフルネスを始めたばかりで、驚きが心を満たしていただけだ、と思い込んでいたけれど。
その質感は、しばらくの間、なかなか現れずに、まるで消えたのようだった。
なのでその間、僕はトレーニングで、他の心の能力を鍛えていった。
(たとえば基本的な集中力とか、自己観察力とか)
そして1年が経ち、初心者の頃に感じた「最も素晴らしい部分」を、取り戻そうとしている。
しかも今度は偶然じゃなく、呼吸によって再現できる、より明確なものとして。
ビギナーズマインド
マインドフルネスの世界では「初心者の心=ビギナーズマインド」が重要だと言われる。
僕はこのことを、今回改めて実感した。
そしてこの「ビギナーズマインド」さえも、恐らく僕らは、トレーニングによって身につけることが出来る。
なぜならマインドフルネスのトレーニングの本質そのものが、まさに、初心に戻るということなのだから。
『喜びも幸福感もなしに「喜びを経験しながら、息を吸う」と唱えても意味がありません』
(テイク・ナット・ハン「リトリート」より)
まさにマインドフルネスは「実感」のトレーニングなのだと思う。
言葉は、実感のトリガーにはなる。だけど実感そのものではない。
実感こそが本質だ。
だけど言葉をうまく使えば、より簡単に実感を扱えるようになる。
言葉は調理具で、心は食材だ。
この二つで「実感」という美味しい料理を作ることが出来る。
心のスピード / 心のバリエーション
心に起こることには、本当に色々なバリエーションがある。
たとえば、ものすごいスピードで流れていく、レベルの強いもの。
速いスピードで流れていく、中ぐらいのレベルのもの。
スピードが低くて、手に取りやすいもの。
スピードは速いけど、ものすごく微妙で、分かりづらいもの。
だけど確かに存在するもの。
これはよく手にとって、観察してみなければ分からない。
心の現象が、それぞれ作用しあっているのに気付く。
これが法則を理解すること。
自分はブラックボックス
僕らは「自分で自分を理解している」と思い込んでいるけど、案外、理解してない。
たぶん僕らが思うよりも、1%ぐらいしか理解していない。
「自分」っていう名前がついているけど、よく分からない、直接コントロールの出来ないブラックボックスみたいなものだと思う。
だからこいつを理解するには、とりあえず実験が必要だ。
ブラックボックスにひとつのものを入れたら、何かが反応として返ってくる。
だけど、何が出てくるかを予想するのは、わりと難しい。
別のものを入れたら、違うものが出てくる。
だけど同じものを入れたはずなのに、違うものが出てくるパターンもある。
組み合わせによっても、反応は変わったりする。
組み合わせが同じでも、分量が違うというパターンもある。
なのでまず「自分はブラックボックスだ」「反応が予測できない」という前提に立って、色々な実験をしてみる。
そしてなんとなく、だんだん、全体の法則性のようなものが分かってくる。
これが「実験」「観察」「ルールの理解」というプロセスなのだと思う。