いちご大福と子供と大人
僕らは一番最初、ピカピカの苺として生まれてくる。
やがて、成長する。
そして、いちご大福になる。
大人になるということは、いちご大福になるということだ。
自然の苺よりも、もっと甘くて美味しいお菓子になる。
ただひとつ、大きな落とし穴がある。
それは、僕らが大人として成長する間に、最も大事なはずの「苺」自体が腐ってしまうということだ。
( いちご大福のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや )
ピカピカの苺を取り戻す
マインドフルネスのトレーニングは、何かを積み上げるためのものじゃない。
僕らがすっかり失っている「中心」を取り戻し、錆びついた感覚や、原始性、創造性を磨き戻すためのものなのだ。
積み上げるのではなく、輝ける中心を取り戻すための行為。
それがマインドフルネスの本質だと思う。
大人と子供
それなら、子供は完全に大人よりも優れていて、僕らはただ子供に戻るだけで良いのだろうか?
それならば、僕らが大人として成長したことには、何の意味があるのだろう。
ところで、子供はピカピカの苺だけれど、大福がない。
つまり大人のように豊富な経験や、社会的な役割があるわけではない。
だけど僕ら大人が苺の新鮮さを取り戻したら、
ピカピカの新鮮な苺が入った、美味しいイチゴ大福になることが出来る。
つまり、この社会の中にいながら、最も重要な「中心」を取り戻して生きること。
それには大きな意義があると思う。
疑問
マインドフルネスが「生まれた時の状態」を取り戻すものだということは、薄々気付いていた。(多くの本にもそう説かれている)
だけどそれなら、僕らは「間違って歩いてきた道」を「ただ元に戻る」だけなのだろうか。
そんな大きな疑問があった。
そこで思いついたのが、この例えだった。
仮に、たとえマインドフルネスが「間違いを正すだけのもの」だとしても、間違って歩いた道を戻るという、その行為自体に、意義や、物語としての意味があるのだと思う。
僕らはその「道なり」を知っているわけだし「どこに落とし穴があるか」も覚えているのだから。
厳密に言うと
ブッダが大人になってから、長い瞑想の後に悟りを開いたように。
ピカソが大人になってから、長い年月をかけて「子供のような絵」が描けるようになったように。
大人になってから、訓練によって「中心」を取り戻すということは、子供が無意識にそれをおこなうよりも、ずっと再現性が高く、レベルが深いものだと思う。
(僕の語彙も理解も足りなくて、すごく抽象的な表現になってしまうけれど)
それは自分の原始性や、意識というものに対して、良い付き合い方を覚えるということなのだ。きっと。