意志力の消耗を防ぐ 〜ジョブズが黒いタートルネックしか着なかった理由〜
スティーブ・ジョブズはいつも同じ種類の服を来ていた。 アインシュタインもまた然りだ。
一体何故なんだろう。
これは「意志力の消耗」を抑えようとしたのだと解釈できる。 彼らは日々の些末な決定に意志力を使わず、より重要な事柄のために資源を残しておこうとしたのではないだろうか。
彼らは恐らく「自分が無敵の人間だ」とは考えなかったであろう。 リソースの有限さを理解して、それを最も重要な事柄に割り当てたはずだ。
ヒトラーの演説
もう一つの例を挙げよう。
たとえば、ヒトラーの演説は常に夕方におこなわれたという。 夕方には人の意志力が弱まり、演説を受け入れやすくするためだ。
選択によって意志力は消耗する。そして人は1日に多くの選択をする。 朝よりも夕方の方が、決定のクオリティの落ちるのはそのせいだ。
この限られたリソースを、どうやって重要な事柄に配分していくか。 いかに意志力の無駄な消耗を防ぐかということが、マインドフルネスの実践においても重要だ。
なぜなら心をコントロールすることを始め、あるいは出来事を受容したり、適切な対処をしたりすることには、そもそも意志力というリソースが必要だからだ。
ガソリンなしに車は走れない。 腹が減っては戦は出来ない。 意志力が枯渇してしまっては、マインドフルネスは実践できないのだ。
意志力を残すための戦略
くどいようだが説明しよう。
「決定疲れ」という言葉がある。 僕らはこの影響を過小評価しているが、人は迷うこと、決定することによって、ものすごく多くのエネルギーを消費している。
意志力を潤沢に残しておくためには、具体的な戦略が必要だ。 重要なのは「なるべく迷わないこと」。
とは言っても、どうやって「迷わない」なんてことが出来るのだろう?
まずは、自分自身の心が「迷っている」という瞬間を見つける必要がある。 なぜなら認識すらしていないものを、どうやって避ければ良いのだろうか?
僕らは「知らない間に迷っている」のだ。
対策
意志力を消耗しないための、具体的な例については、次の記事を読んでみてほしい。
ハッピーはどこに消えた? 〜幸福はストックできない〜
幸福を
ストックすることは
残念ながら、できない
常に生産が必要だ
心に工場があるとイメージしてみよう。
幸福の生産が止まると、どうなるか
不幸が生産される
幸福のレバーを倒すか
不幸のレバーを倒すか
どちらか片方であって
真ん中はない。
幸福になるのは
今の瞬間だ。
未来でも、過去でもなく。
追伸
さっきまで確かに感じていた幸福が、ふと消えてしまったように感じたことはないだろうか。
たとえば、ものすごく楽しみにしていた予定が、終わってしまったときのように。 たとえば、待ち望んでいたうまい食事を、食べ終わってしまったときのように。
何かがふっと消えてしまって、もやは、自分が何を楽しみにしていたのかさえも、思い出せなくなってしまうことが。
僕たちは、幸福がふと消えてしまった時に、その残り香をかごうとする。 だけどそれは、ほんの一瞬前の幸福だ。 幸福は常に、今の瞬間にしか存在しない。
ほんのつい1秒前までは幸福であっても、それは今の幸福を約束しない。
幸福とはそういうものなのだ。
だけど幸福は、常に生産し続けることなら出来る。(すごくうまくやればね) 幸福が今にしかないということを理解して、今という瞬間に集中し続ければ良い。
追伸の追伸
幸福をストックすることは出来ないが、幸福になりやすいベースを積み上げることは出来る。
- 瞑想の習慣
- 良い食事
- 良い睡眠
- 心理学な理解
など。
- 良い習慣をストックしてゆく。
- 幸福はストックできない。だから常に「今」の瞬間に生み出す。
これで完璧だ。
マインドレスになりやすい瞬間を把握する ( 心のレスキュー )
瞑想を続けていると、自分がマインドレスになりやすい時間帯や、シチュエーションというのが、だんだんと分かってくると思う。
これが案外、取るに足らない瞬間だったりする。
僕の場合は。
- 朝、シャワーをあびている時。
- 外出前、マンションのエレベーターに乗っている時。または帰宅時にエレベーターに乗っている時。
- 休日の夕方、1日の残り時間を気にし始める時。
- 恍惚の状態でブログを書き終わった、その瞬間。
といった感じだ。
取るに足らない? 取るに足る?
僕が瞑想を実践していて思うことは、
- こんな些細なことでマインドレスになるはずがない
- こんな些細な変化が、自分に影響をあたえるはずがない
というものが、案外、マインドレスの引き金になっていたりするということだ。
環境の影響というものは、人間にとって案外大きいものだ。
たとえば、
- 視界の変化 ( 家から外に出る )
- 音の変化 ()
- 温度の変化 ( シャワーを浴びる )
は、人の気分に影響を与えやすい。 (個人によっても、影響されやすい要素は違ってくる。ある人は音に影響されやすいし、ある人は視覚に影響されやすい)
そしてこれら影響を、僕らはあまりに低く見積もっているんじゃないだろうか。 「環境の変化なんて、些細なものだ」「心次第でどうにか出来る」と思い込んではいないだろうか。
環境と気分の変化を試してみる
もし気になるなら、部屋の明かりをつけたり消したり、音楽をかけたり消したりして、それがどれぐらい気分に影響を与えるか、試してみてほしい。
たとえば騒然としたマクドナルドにいるのと、隠れ家的で静かなカフェにいるのとでは、まったく気分は変わってくるだろう。
部屋の明かりを付けるのと消すのとでも、気分の変化が感じられるかもしれない。
無音の環境と、BGMのある環境でも気分はガラッと変わるだろう。 (カフェやショップで必ずBGMがかかっているのは、お客さんの気分を調整するためだ)
マインドフルネスと気分と環境
ただ気分が変わるということは、マインドフルネスが無力ということではない。
なぜならマインドフルネスというものは、環境や気分の変化もひっくるめて、多くを受容できるようになるための訓練だからだ。
メリット
マインドレスになりやすい瞬間を把握すると、心の救済処理に役立つ。
心がマインドレスになってしまう瞬間でも、 「瞑想を続けているのに、なんでうまくいかないんだろう」と悩むのではなく、 「あ、今は自分が苦手なシチュエーションだから、仕方ないな」と理解して、それを受容するきっかけになる。
事実ベースで考えてみよう
そしてここで大事なのは、事実ベースで理解するということだ。
たとえば「朝、シャワーを浴びることなんかが、マインドレスのきっかけになるはずがない」と頭で考え続けても、 毎朝マインドレスになるならば、それはきっと事実だ。
事実は事実として認めてしまった方が良い。 自分の苦手分野は、頭ではなく、自分の反応がよく示している。
(しかしこの世の中には、事実と異なる思い込みが、なんて多いことだろう)
本当は苦手なのに「苦手ではない」と思い込んでいると、間違った方向での戦いが続いてしまう。
でも「苦手だ」ということを認めて対処するなら、出来る範囲で、出来るだけのことをすることが出来る。
1/100 ( 1個の正解と99個の間違え )
病気はこの世の中に、何万種類とある。 だけど健康は1種類だけだ。
( 健康の世界では「病気がない状態が健康」という定義がある )
これは心の世界でも同じだ。
落とし穴には100種類ものバリエーションがある。 だけど、心が健康な状態は1種類だけだ。
1/100
マインドフルネスの実践は、時に難しく感じられるかもしれない。 どう張っても不幸が押し寄せてくるし、どこにも正解がないと思うことがあるかもしれない。
だけどマインドフルネスは、本当はとても簡単なことだ。 100個の中から、常に1個の正解を選べば良いだけなのだから。
膨大な知識をたくわえたり、全身の力を込めて頑張る必要はまったくない。 病気の知識がいくらあっても、健康になれるとは限らない。
大事なのは「どれが正解かを知っていること」と「それを選ぶこと」だ。
選び方がうまくなれば、まったくエネルギーを使わずに、心のバランスを取ることができる。
どうやって正解を選ぶ?
たとえば、僕らが外でランチを食べる時のことを考えてみよう。
無数の選択肢の中から、健康に良い食事を選ぶのは、まったくエネルギーは要らない。 ただ店の場所を知っていて、それを選べば良いだけだ。
100個の店の中から、1個の店を選べばいい。 もし健康になりたいのなら、僕らに必要なのは「選ぶ」ことだけだ。
好循環
- 健康食を選ぶ。(選択)
- だから健康になる。(実感)
- だから次にも健康食を選びたくなる。(選択)
- だから健康になる。(実感)
この好循環に入ってしまえば、加速度的に問題はたやすくなる。
何が正解?
たとえば僕の場合、
- 心がふわっと、真ん中に浮いているような感覚
- 呼吸がすごく自然で、やわらかく、心地良い感覚
を「正解」だと感じている。
僕らは普段、あまりに「言葉漬け」になっているけれど、正解を見つけるには、感覚の部分で判断してみる必要がある。
最初は難しいかもしれないけれど、言葉に汚されていない世界というものを、きっと見つけられるはずだ。
実践
ふわっとバランスをとることをイメージしながら、ゆっくりと瞑想をしてみてほしい。
「あ、今、心のバランスが取れた」という瞬間が、一度はやってくるかもしれない。
そいつは0.1秒で逃げていってしまうかもしれないけれど、日を追うごとにだんだんと、見つけるのがうまくなっていくはずだ。 (でも、焦らずに。見つけようとして頑張りすぎないように。ゆっくりやってみよう)
瞑想が、あなたの役に立つことを祈っている。
メタ苦悩に対処する ( サーチ・インサイド・ユアセルフ )
「最初は分からなかったけど、本当は傷ついていたんだ」。
そう考えたことはないだろうか。 何かショッキングな出来事が起こった時、人はわりと、最初には何も感じないものだ。
- 「こんなにショッキングな出来事が起こったのに、割と平気なんだな」
- 「自分ってわりと強いもんだ」
と考えたことはないだろうか。
だけどおそらく、時間が経つにつれ、だんだんと心に影響が生まれてきた、ということがあるはずだ。
そして
- 「あれ、最初は平気なはずじゃなかっただろうか?」
- 「あれがショッキングな出来事のはずがない、だって最初は大丈夫だったから」
- 「自分の心は、こんなことでは折れるほど弱くはない」
と、自分を説得にかかるようになったという経験が。
だけど、ようやく最後には、心が抵抗できないことに気付き、自分がショックを受けていたということを認めたんじゃないだろうか。
こういった現象は恐らく、多くの人に経験があるものだと思う。
「本当は」って何?
だけどこれは正確には違うと、僕は考えている。
僕らの心がたどるプロセスは、こうではないだろうか。 「出来事の後で、心がショックを受けていたことに気付く」のではなく「出来事の後に、だんだんと心にショックを与えていく」のだ。
僕らは何か出来事が起こったとき、それをその後、何百回でも、何万回でも頭の中でリピートする場合がある。 そして、その出来事に対する「理解」や「位置づけ」をしようとする。
「ショッキングな出来事が起こったはずなのに、心は何も感じていない、どうしてだろう?」と考えること。 それ自体が既に、心に影響を与える行為なのだ。
出来事と心の違い
- 出来事がショッキングであること
- 心がショックを受けること
この二つ、実は全く別の現象であるにも関わらず、僕らの心には「出来事」の方に合わせて、心を動かそうとする働きがある。
- ショックを受けないのはおかしいんじゃないだろうか。
- 本当にショックを受けなくて良いのだろうか。
- あとでショックがじわじわとやって来るんじゃないだろうか。
- 出来事に関して、こんなにたくさん考えてしまうこと自体をやめたい。
- こんなに考えてしまう自分の心はおかしいんじゃないだろうか。
こんなことが頭をぐるぐると回り始めた時点で、心の感じ方が既に、少しずつ変わっていっているのだ。
僕らは、 「出来事の後から、実はショックを受けていたことに気付く」のではなくて、 「出来事の後で、少しずつ心に影響を与え続けたせいで、ショック状態になる」のではないかと、僕は考える。
少なくとも、頭の中でリピートする作業によって、ショックが本来の10倍にも100倍にも増幅されているのではないかと思う。 同じようなショッキングな出来事を経験したとしても、人によって立ち直り方に違いがあるのは、まさにこの心の習慣のせいだと理解している。
自動的な思考のリピート
頭の中で出来事をリピートしてしまうのは、ある意味、仕方ないことだ。 出来事自体がショッキングであればあるほど、頭はそれを「どうにか理解」しようとして、ぐるりぐるりと回り続けるはずだ。
思考で思考に対抗しようとしても無駄だ。 なぜなら出来事に対してぐるぐると思考を続けるという行為自体が、既に「出来事の理解」という罠にはまっているから。 (理解すること自体が悪いわけではない、まずいのは自動的に心を傷つけてしまうことだ)
だがこれは、僕らが心のトレーニングを積んでいない場合の話だ。
瞑想の習慣を身につけることによって、たとえ何らかの出来事が起こったとしても、自動的な思考のリピートを減らし、被害を最小限に抑えることが出来るようになるだろう。
メタ苦悩
ひとつだけ注意。 「考えてしまうこと」を「無理にやめよう」としない方が良い。
なぜなら「考えるのをやめたいのに、考えてしまう」「なぜ考えてしまうのだろう」と「考えること」が、既に「考えてしまう」の罠だからだ。
心の世界では、常にパラドックスが成り立つ。 「考えてしまうことを受け入れること」が、実は一番「考えに寄って悩まない方法」だったりする。
僕たちに必要なのはひとつの行為と、ひとつの心構えだ。
- 行為: 思考にはまり込んでいることに気付いたら、心をセンターに戻す (呼吸に意識を向けたりする)
- 心構え: 考えてしまうこと自体を受容する
ちなみに「メタ苦悩」とは
サーチ・インサイド・ユアセルフに書かれている表現のひとつ。
僕はこの言葉を気に入っている。 なぜなら心は常に、メタ的に働いているものだから。
瞑想すると「考えない人」になる? ~ 考える人 VS 考えない人 ~
最初に瞑想を始めた時、僕が怖かったのは自分が「考えない人」になってしまうのではないか、ということだった。
人類の叡智は、考えによって築き上げられたはずだ。 おおげさに言うのならば。
この素晴らしい「考え」を捨てるというのか?
たとえば僕らが仕事を出来るのも、人生設計を出来るのも、日常を暮らせるのも、ぜんぶ「考え」があるおかげだ。
考えを捨てたら、何もできなくなってしまうんじゃないだろうか。 考えていない間に、人生があっという間に過ぎてしまうんじゃないだろうか。 そう考えた。
だから僕はこの「考え」を手放すのが恐かった。 まるで浮き輪をせずに海に飛び込むような気持ちだった。
考えを手放した後、本当にそこに幸福はあるのだろうか?
海に溺れる
だけど本当は、僕はもう既に溺れていた。 思考という海に。
僕は「海に溺れないように、浮き輪を掴んでいる」つもりだった。 だけど「浮き輪を握りしめていることで、実は逆に、海に溺れていた」のだ。
僕は「溺れながら、溺れたくないと考えている人」だった。
考えること / 考え込むこと
この記事のタイトルには「考える人」と「考えない人」という副題を付けた。
けれど瞑想を実践するということは「考えない人」になるということではない。 「考え込まない人」になるということだ。
- 考えること
- 考え込むこと
は、実は全く違う。
- 思考すること
- 思考にはまり込むこと
の違いだと言っても良い。
この二つがまるで同じように見えるのは、僕らが心のプロセスを、とてもあいまいに認識しているからだ。
たとえば、
- カレーライスは「ルー」と「ライス」で出来ている。
- お寿司は「ネタ」と「シャリ」で出来ている。
このことは、僕らはよく分かっている。
だけど心に関しては、僕らは「ルー」と「ライス」の違いが分かっていないし、「ネタ」と「シャリ」の違いが分からない。そんな状態だ。
考える人
実は、考える事は止められない。 すなわち、「考える人」であることもやめられない。
なぜなら、考えは僕らの頭の中に、自動的に生まれてくるからだ。
それに、もし「考え」が止まったら、僕らはどうやって明日の計画を立てれば良いのだろう?
- 「そろそろ瞑想をやめて、仕事に行こう」と考えなければ、瞑想を始めたビジネスマンは全員、失職してしまう。
- 「そろそろ子どもに食事を出そう」と思考しなければ、瞑想を始めた親は全員、子どもを餓死させてしまう。
だから実は、考えは止めなくて良いのだ。
僕らが大好きな「考え」は、止めたくてもどうせ止まらない。だから安心してほしい。
僕らは「考えない人」になることは出来ない。 だけど「考え込まない人」になることは出来る。
考えこまない人
僕らは「考えることで、心が辛くなる」と思い込んでいる。 たまに「考えなければ、どんなに幸福だろう」と夢想したりする。
だけど実は僕らを辛く、しんどく、退屈にさせているのは「考え」ではなく「考え込むこと」なのだ。
- 「考え」は実は、まったくの無害だ。
- 「考え込むこと」は有害だ。(よほど幸せなタイプの考えでもなければ)
これは
考えは、最初は力を持たない。パワーゼロ。
- 「思考」にパワーを与えるのは「考え込む」という心のアクションだ。
- 「考え込む」という心の行動が「考え」にパワーを与えている。
考えに力を与えるか、与えないか。 それは考えが生まれた時の、僕らの心の関わり方次第だ。
解決策
具体的な解決策としては、瞑想によって心を観察するのが良い。
- 考えは、自動的に浮かんでくる、無害なものだ
- 考えには、実はパワーがない
- 考えにパワーを与えているものが、考え込むというプロセスだ
- 考え込んでいる自分に気づいたら、パワーを与えるのをやめてみる
このようなことを意識して、瞑想をしてみると良い。
軽く、ふわっと、力を入れずに「考え込むこと」を手放せるまで、焦らずに、ゆっくりとやってみよう。