情報に対する信念のモデルを書き換えよう
自分のKindleのライブラリを見ると、自己改善に関する本がギッキリと並んでいる。
そんな時、僕は喜びを感じるというよりも、自己疑惑に陥ってしまう。
「なんでこんなに、自分を良くしようとしてるんだろう?」
情報は幸福に役立つ?
新しいことを覚えるのは好きなのに、時にはすごく嫌いな気がする。
情報や知識は幸福に役立つはずなのに、時には全く役立たない気もする。
僕は情報が好きなのだろうか?
それとも嫌いなのだろうか?
情報は幸福に役に立つのだろうか?
それとも役に立たないのだろうか?
情報が幸福に役立つとしたら、情報がない人は幸福になれないのだろうか?
こんな風に、情報に対して、様々な疑いが湧き上がってくる。
だけど実は「情報に対する信念」が、この問題を引き起こしていたのだ。
間違った信念
僕は「自分が情報に対して、何を感じているか、何を考えているか」ということを、ゆっくり観察してみた。
(目を閉じて、座って瞑想をしながら、ゆっくり心に質問をしてみた)
そのところ、僕が持っている信念のせいで、情報とうまく付き合えていないということが分かった。
その間違えは、次のようなものだ。
- 情報は集めれば集めるほど、賢くなり、幸福になれる (間違い)
- 幸福になるには、こんなに多くのことを学ばなければいけない (コストパフォーマンスに対する徒労感)
- 情報を得るのは、人より優れて勝つための手段だ (競争)
- どんなに勉強しても、勉強で成長した気がしても、必ず自分より成長がうまい人がいて、負けてしまう (比較と劣等感)
- 自分が全く知らなかったことは、間違えだ (今までも、それなりにうまくやっていたのに、もっとうまい方法があるなんて、信じたくない)
- 自分が全く知らなかったことを知ると、損をしたような気分になる (最初から実践していれば、どれぐらい「得」が出来ただろう)
この弊害はすごく大きくて、時には、まったく読書を楽しめないどころか、勉強をするのがとにかく虚しく、つらい状態になることもあった。
(つい昨日まで、すごく楽しかったのに!)
信念の置き換え
そして、僕は信念を置き換えることにした。次の通りに。
僕にとって情報とは
- 間違ったモデルを、より適切なモデルに置き換えるための手段
- 自分自身や、世界や、意識のプロセスを正しく理解するための手段
- 物事を正しく理解した結果として、自分や他人を、より幸福にするための手段
だ。
この理解はかなり、心にしっくり来た。
このことで、情報に対して、今までよりも「愛」をもって接することができそうだと思っている。
新しいモデルの作り方
これは、どこにも感じていない「なんだか目新しいモデル」をでっち上げたわけではない。
自分の心に対して、率直な質問をしてみた結果だ。
具体的には、自分に対して次の質問をしてみた。
「自分が、情報に対して、最も心地良く接している時は、何を感じているのだろう?」
「自分が、情報に対して、虚しさや辛さを感じている時は、何を思い描いているのだろう?」
重さと軽さ
その結果、わかったこと。
僕にとって、情報というのはコレクションみたいに、量を積み上げるものじゃない。
重荷を降ろして、より軽快になるためのものなのだ。
たとえばの話、より適切な食習慣のための情報を得て、それを実践すれば、体はとても「軽く」なるだろう。
たとえば、人間関係の本を読んで、それをうまく実践して関係が改善されれば、関係性はとても「軽く」なるだろう。
重くなるためのものじゃなくて、軽くなるためのもの。
知識を増やすためのものじゃなくて、間違え減らすためのもの。
それが僕にとっての「情報」の位置づけだ。
一般的なイメージと本質
情報や知識というのは「積み上げ型」というイメージがあるので、これが落とし穴になっていた。
このように、「自分にとっての本質」と「一般的なイメージ」が真逆にあると、落とし穴にはまりやすいように思う。