マインドフルネスやってみた

瞑想で人生のレシピ作り

神はいる? いない?

僕は瞑想をしながら、こんな問いかけをしてみる。

「いま、神はいる? いない?」と。

 

これは宗教的な話じゃない。

自分自身の体の中に、神を見つけられるか、見つけられないかという話だ。

 

僕は最近「神に捧げるため」というテーマで瞑想をしている。

このテーマは本当に優れているんじゃないかと思っている。

 

なぜなら「神に捧げる」というのは、人間の集中力や、洞察力、神性、幸福感というものが、高度に統合されたものだと思うからだ。

 

神がいる時、いない時

ところで、自分を神に捧げるためには、そもそも、神を見つけていないといけない。

たとえるなら、恋人にプレゼントをあげるには、そもそも近くに恋人がいないと成り立たないように。

 

「神に捧げる」という言葉を浮かべても、なんだか虚しい感じがする時はきっと、そもそも神がいない時だ。

これがひとつのジレンマ。

 

自分を神に捧げたくても、そもそも神がいない場合があるということ。

いま部屋にいない恋人に、プレゼントを贈っても仕方がない。

 

だから僕はたびたび「神はいる?」と問いかけてみる。

 

神と身体感覚

 

神は身体感覚の中に宿る。

だから僕は、神が消えてしまったと思った時は、身体感覚に意識を戻すようにしている。

体が感じるものの中に、神がいないかどうか、探してみる。

思考の中ではなく、リアリティを感じる身体感覚の中に。

 

人間の思考というものは、すぐに脳をハイジャックして、神の中身を奪っていってしまう。

そこに残るのは言葉の枠だけ。

だけどそれは、僕が1秒前まで見ていた本物の神じゃない。

偽物の神。神の抜け殻だ。

 

洞察力

瞑想をしていて良かったと思うのは、

今自分に「何があるか」「何がないか」ということが、敏感に察知できるようになったことだ。

 

洞察力が低いままだと、瞑想を神に捧げるというのは、なかなか難しかったと思う。

なぜなら神は高度な概念であるだけに、そのぶん、シャイで繊細なものでもあるからだ。

 

なぜなら相変わらず思考のスピードは素早くて、「神」という言葉も、簡単に偽物にすり替えられるからだ。

偽物に対してお金を払い続けても、募るのは苛立ちと、神への不信感だけ。

(なぜんら僕らが騙されているときは、それが偽物だとすら、気付いていない)

 

だけど洞察力が高い状態にあれば、

「神がいない状態だ」に気付き「頭でだけ神を作り出してしまっている」と察知して、身体感覚の中に戻っていくことが出来る。

 

こういった意味で、自分自身の体にアクセスすして、モニタリングすること。

観察して、理解して、フィードバックを受け取ることは重要なのだと、改めて思う。

 

マインドフルネスは神に似ている

ところで、瞑想を1年半ぐらい続けて「神」というテーマにまでアクセスできるようになった自分には少し驚いている。

 

僕がマインドフルネスのトレーニングを始めたばかりの頃の、

ビギナーズラックで手に入れたような「神聖な幸福感」が、さらに大きくなって戻ってきたような感じだ。

しかもトレーニングを積んでいる分だけ、以前よりも再現性があるはずだ。

 

だけど、これは何も特別なことじゃない。

本でよく言われるように、赤ん坊が生まれた時は、マインドフルな状態で生まれてきた。

 

つまりマインドフルネスな状態というのは、生まれたての赤ん坊のように、神の近くにいる状態。自分の中に神がいる状態なのだ。