天国にインスタ映えする写真を送る
すごく綺麗な景色を見た時、僕らはスマホで写真を撮る。
何か変わったものを見つけた時、スマホで写真を撮る。
そしてソーシャルでシェアする。
まるでソーシャルに存在しないものは、世界に存在しないかのように。
だけどそれで、体験の扉が閉じられてしまってはもったいない。
薄められたスープを飲むのは美味しくない。
それよりも美しいのは、自分の感覚を通して、決して消えない世界に体験を送ることだ。
それを「天国」と呼んでも良いだろう。
(とても美しい経験は、天国の近くにあるように感じられるから)
ソーシャルよりも、自分の感覚を信用することは、美しい。
目の前で起きている現象を通して、世界にアクセスすることは美しい。
それはスマホを通して世界を見るよりもずっと大きな体験だ。
決して「スマホで写真を撮るな」とは思わない。
僕もスマホで写真を撮るのは好きだ。
だけど、それよりも大事なのは、体験の扉だということは覚えておきたい。
スマホが主役の場に踊り出てきてしまうのは、何か違う。
主役はあくまでも自分たちの、一瞬一瞬の感覚だ。
それに、いくらスマホで写真を撮っても、いつかは僕らの肉体も、スマホもインスタも消えてしまうのだ。
だけど僕らが「体験」に集中する時、それは永遠の世界に対して写真をアップロードしているのと同じだ。
もちろんこれは例え話だけど、僕はなんだかそんな感覚がした。
小さな部屋のドアを開ける ( 疲労困憊している時の瞑想 )
疲れ果てている時に瞑想をするのは難しい。
そもそも意志の力を使い果たしていたら、瞑想をしても逆に消耗してしまう。
だけど望みがないわけじゃない。
エネルギーをほとんど使い果たしていても、やり方によっては、瞑想で回復することが出来る。
コツは体の中に「小さな部屋」を見つけることだ。
普段エネルギーが余っている時は、体全体に意識を向けて「大きな瞑想」をしていると思う。
だけどエネルギーがすり減っている時は、体のほんの一部分だけに意識を向けて「小さな瞑想」をすると良いと思う。
たとえば、指先の細かな感覚、足先のほんの小さな感覚に、最小限の意識を向けてみる。
エネルギーをなるべく使わないように、ローリスク・ローリターンの瞑想をしてみる。
要するに、そうやって
消耗 > 回復
から
回復 > 消耗
の状態にしてやれば良いのだ。
これは繊細なコントロールは要求されるけれど、わずかずつでもプラスが続けば、だんだんと疲労から回復することも出来る。
瞑想にも「大きな瞑想」と「小さな瞑想」。
「オフェンス」と「ディフェンス」の違いがあるのだ。
ただし、これは瞑想の他に回復方法がない時の手段だと思っている。
たとえば街中で疲れ果てた時、だけど眠れる場所もない時に、僕は少しだけ腰を下ろして目を閉じてこの瞑想をしたりする。
場所はどこか座れる場所を見つけたり、カフェに入ったりして。
(もちろん、あぐらをかいたりはしない)
眠い時は眠るのが最善だし、腹が減ったら食事をすれば良い。
だけど精神が疲れ果てて仕方ない時、この「小さな部屋」の瞑想を知っていれば、大きな助けになるはずだ。
モチベーションを無視するマインドフルネス学習法 (つまり習慣術)
勉強をする時は、習慣化が一番重要だ。
他のことはどうでも良い。
まずは習慣作りだ。
これは80対20の法則だ。
20%の習慣作りが80%の効果を生むことになる。
事の重要さでいうと「習慣化」が80%を占める。
具体的なやり方や、モチベーションなど、他の要素の影響度は20%に過ぎない。
勉強というのは、究極的には習慣作りの手法だ。
- 勉強法 > 習慣作り (間違った理解)
- 習慣作り > 勉強法 (正しい理解)
上手な「習慣化」さえしてしまえば、あとのものは、おまけで全部付いてくる。
習慣化が給与で、残りの要素はボーナスだ。
ちゃんとメインの仕事をこなしていれば、ボーナスは自動的にもらうことが出来る。
習慣を制するものは学習を制する。
20%の習慣作りにコミットして、80%の効果を上げよう。
モチベーションはギャンブル
何が一番学習のじゃまになるかというと、「モチベーションを上下する思考、そして情動」だ。
そして、モチベーションを基準にした学習の仕方は、勉強の障害ポイントになる。
「英語を勉強するにはモチベーションが必要だ」
「モチベーションが低い時は勉強をやめておこう」
「楽しく勉強をするためにモチベーションを高めよう」
こういった「モチベーション基準の価値観」が心理のベースに潜んでいると、なかなか学習がうまく進まないように思う。
だけど4回に1回は成功しているように見えるから、なおさらたちが悪い。
ギャンブルというものは、トータルでは負けると決まっているけれど、たまに勝つからやめられない。
これと同じで、モチベーション基準の学習方法は、4回に3回は負けるゲームみたいなものだ。
もしうは麻薬やお酒、スタミナドリンクのようなもので、飲めば飲むほどあとで副作用が出てくるようだ。
僕の考える「マインドフルネスな学習法」は、自分の情動やモチベーションにまったく左右されず、たんたんと勉強を続け、習慣作りをしていくことだ。
マインドフルネスは学習に役立つ
マインドフルネスが学習に役立つのは、自分の思考や情動を受け流しやすくなるからだ。
僕は何か勉強をする時、特にモチベーションに関する情動は、なるべく無視したり、受け流すようにしている。
仮にそれがプラスのものであれ、マイナスのものであれ。
「モチベーション基準の思考」に決して力を与えず、コミットしないようにするのだ。
たとえば僕が英語の本を読んでいる時、
英語の学習そのものに対する「メタ的」な思考や情動が、次々に湧き上がってくる。
「今、以前よりも英語がスラスラと読めた気がした」
「今、英語の楽しさを感じている」
「こんな感覚でずっと英語に接することが出来たら、勉強はパラダイスかもしれない」
「だけどなんだか文字を読むのが疲れてきた」
「そもそも、こんなに簡単な本を読んでいたら、学習が進まないかもしれない」
「他の本に切り替えたほうが良いんじゃないだろうか」
「英語を勉強することに何の意味があるんだっけ」
「英語を勉強したら今後の人生に役立つんだろうな」
「そういえばずっと昔からダラダラとやってるけど、全然成果を出せていない」
「もっと英語を愛せれば、モチベーションをあげられるかもしれない」
だけどこういった情動全てに、コミットしない。力を与えないようにする。
そうではない。重要なのは「習慣作り」で、それだけが基礎だと理解しているから。
「今、英語の本を読んでいる」という時点で、たとえそれがどんな読み方であろうとも、習慣作りには100%成功していることになる。
情動は無視して良い。
モチベーションは学習に全く影響を与えない。
自分が力を与えなければ、力を持たない。
淡々と習慣だけを構築して、続けていくことだけが肝心だ。
これは普段からのフォーマルなトレーニングが役立つと思うが、慣れてくれば、勉強をしている最中でも自分の情動をキャッチして、受け流せるようになってくるだろう。
ところで、勉強の合間に100呼吸ぐらいの瞑想をおこなうのも、脳がリフレッシュしてかなりオススメだ。
小さな習慣
この偉大な本にすべてが書かれている。
瞑想が続かない人、挫折してしまう人のための続ける習慣
瞑想は僕にとって、本当に素晴らしいものだ。
トレーニングを重ね得るほど、脳に経験が積み立てられて、毎日が楽しく、じわじわと輝きに満ちていく感覚がある。
けれど人によって瞑想が「肌に合う」「合わない」の違いはあるみたいだ。
たとえば僕が瞑想の話をすると「じっとしているのが苦手だから、絶対に無理」という人もいる。
興味はあって始めたは良いけれど、なかなか習慣づかないという人もいるだろう。
小さな習慣
物事を続けるというのは、ある意味「瞑想」というトピックからは外れる。
瞑想に限らず、新しい習慣を身につけるには、ちょっとしたコツが必要みたいだ。
習慣づくりに関しては「小さな習慣」という偉大な本がある。
- 馬鹿馬鹿しいほど小さな目標を作る
- 抵抗を感じる行動を、驚くほど小さなステップに分解する
- 絶対にモチベーションには頼らない
というようなことが述べられている。
これを瞑想の習慣にも適用してみると良いだろう。
たとえば、
- 1日に1分、瞑想をすると決める
- それでもハードルが高く感じられるなら、1日に1回、1呼吸分だけ瞑想をする
- それでも難しく感じられるなら、1日に1回、座って目を閉じるだけで良い
- それでも難しく感じられるなら、1日に1回、瞑想のことを考えるだけで良い
どうだろう。
この目標は「馬鹿馬鹿しい」と思えただろうか。
もしそうなら、目標作りは大成功だ。
あとはタイミングのトリガーを作る。
「朝起きて、すぐにやる」
「風呂に入った後に、必ず座る」
「仕事の昼休みに会社のソファーで瞑想する」
など、自動的に実行されるようなトリガーを作ってやると効果的だろう。
(習慣作りの一番の敵は「やり忘れてしまうこと」だからだ)
ところでマインドフルネスの本「たった一呼吸から幸せになるマインドフルネス JOY オンデマンド」でも、
そのタイトルのとおり「1日1回だけ、マインドフルネスな呼吸をする」という習慣がオススメされている。
マインドフルネスと習慣作りの相乗効果
ひとつ信じてほしいのは、マインドフルネスのトレーニングを積むと、そもそもの「習慣作り」もぐっと上手くなるということだ。
その理由は、
- 客観性が増して、新しい習慣を定着させるまでの「否定的な思考」や「抵抗」を受け流しやすくなる
- 自己洞察力が上がり、やりすぎることが少なくなる
- ひとつの行為(たとえば瞑想)をおこなった後の満足感を、意図的に強く感じたり、増幅出来るようになる
というようなものだ。
瞑想のタイプを変えてみる
好きなことは続きやすい。
- 座る瞑想(フォーマルな瞑想)
- 歩きながらする瞑想
- 寝ながらする瞑想
- 音楽を聴きながら瞑想する
- たとえば、綺麗な景色を眺めることも瞑想になる
どれか気に入るものをがないか、試してみると良いだろう。
トレーニングを始める時のポイントは、なるべく「自分が好きなもの」を選び「自分が心地良いと思う環境」を選ぶことだと思う。
瞑想に対してストイックなイメージがあるかもしれないけれど、それはイメージにすぎない。
たとえば僕の場合、カフェでコーヒーを飲みながら、音楽やざわめきに身を任せて、100回ほど呼吸の数をかぞえるのが好きだ。
こんな軽い瞑想なら、楽しみやすいんじゃないだろうか。
(ところでトレーニングを積むと、だんだんと、どんな場所でも瞑想がしやすくなってくる)
最後に
瞑想がどんなに素晴らしいものだとしても、これは決して義務じゃない。
自分に合わないと思ったら、瞑想はせず、他の方法でマインドフルネス(あるいは広義での幸福)に近づく方法は、確実に存在する。
(もちろん、マインドフルネスを手に入れなくても死にはしない)
たとえばアスリートも、集中力のゾーンに入った状態は、行動な瞑想状態とよく似ていると言う。
仕事でフロー状態に入っている時も、(ゾーン状態よりは軽い)瞑想的な状態にあると言えるだろう。
瞑想には本当にグレートな効果があるけれど、どうしても自分に合わないと思ったら、無理に続ける必要はないかもしれない。
「幸福度の50%は遺伝子で決まる」はデタラメだと思う
50%は遺伝子が。
10%は環境が。
残り40%は自分次第だ、という話。
僕個人は「自分次第」のパーセンテージはこれより遥かに高いんじゃないかと思っている。
(まあ、40%が自分次第というのは、充分に大きな数字かもしれないけれど)
なぜなら、「幸福度の50%は遺伝子で決まる」という話をスポーツでたとえるなら、
まったく運動の訓練をしていない母集団から統計を取って、
「運動神経の50%は遺伝子で決まる」
と主張するようなものじゃないだろうか。
この手の統計から広まった話は、誤った解釈というか、早とちりの風説も多いというイメージだ。
(僕自身も、早とちりの解釈に対して、早とちりの反論をしている可能性もある)
そもそも僕らのほとんどは、心の訓練、マインドフルネスのトレーニングを積んでいない。
だから「訓練されていない状態」での統計がどれぐらい役に立つのかは疑問だ。
それはあくまで現状の平均を示すものであって、限界を示すものではないはずだ。
(あとはそもそも「幸福度」というものが計測できるのかどうか、パーセンテージで割り切れるようなものなのか、という根本的な疑問もあるけれど)
たとえば運動が苦手な人も、適切な手順にのっとってトレーニングを積めば、上手になる。
幸福度が低い人であっても、適切な手順にのっとってトレーニングを積めば、幸福度を高めることが出来る。
これは「スタート地点がどこか」(運動が苦手か、得意か)ということにはほとんど関わらないはずだ。
(「やり抜く力 GRIT(グリット)」を読んでみよう)
ということでマインドフルネスのトレーニングを続ける僕は、瞑想にもっと大きな期待を抱いている。
「生きることに意味はあるのか?」という評価から自由になる
僕には、つい意味を問いかけてしまう癖がある。
たとえば、
「瞑想をして幸福になることに、意味はあるのか?」
「読書をして勉強をすることに、意味はあるのか?」
「そもそも生きることに意味はあるのか?」
とか。
こういった疑いが、ほぼ瞬時に流れてきて、せっかくの幸福感を消してしまう。
生きることの充実感や、暖かさ、質感を体から奪ってしまう。
さっきまでここにあったものが、今はもうない。
そうやって頭で考える時は、マインドフルネスの灯は消えている。
心の灯が消えた状態で何を探しても、暖かさはどこにも見つからない。
言ってみれば、当たり前の話だ。
(だけど、この事実に気付くのにも時間がかかった)
今日気付いたことは、
「何の意味があるのか?」と頭で考えることは、
「評価」の一種類じゃないかということだ。
僕は今までマインドフルネスを実践して、自分や人に対して評価を下す回数はグンと減ったように思う。
(もしくは評価に踊らされなくなったと思う)
だけど思わぬところに「評価」は潜んでいるみたいだ。
自分自身という人間に対しては評価を下さずとも、自分の「行為」や「目的」に対して、すぐ懐疑的になってしまう癖がある。
それは、ひとつの行為が「良いことなのか」「悪いことなのか」「価値があるのか」「ないのか」ということを、絶えず頭の中で、頻繁に評価し続けているからじゃないだろうかと思った。
ところで僕はそもそも、これを評価だと理解していなかった。
評価だと理解していなかったから、避け方が分からなかった。
いわば「信念」のようなものだと思っていた。
いや、それも当たっている。
おそらくこの場合、何度も何度も無意識に繰り返される「評価」が、信念と言えるまでに成長していた。
そして、その大本にあるのが「評価」だということさえ分からなくなっていた。
隠されていたのだと思う。
またひとつ見つけた。
おそらく世の中では、あらゆる種類の評価が、あらゆる種類の不都合を生み出している。
たとえば、本当にやりたいことがあっても、評価や、そしてその集合体と言える信念が、無意識に、自分の行動をブロックしてしまうことがある。
この心理的なブロッキングは、意識の様々な場面でおこなわれている。
評価の苦しみから逃れるためには、まずはそもそも自分が「評価をおこなっていること」に気づかなければいけない。
自分の行動がブロックされてしまう場面を見つけたら「この根本にあるのは、評価ではないか?」と疑ってみるのが良いかもしれない。
瞑想の時間を伸ばすより回数を増やそう (「サンドイッチ・メソッド」)
時間を減らして回数を増やすメリット
- JOYを見つけやすい。コーヒーで言う「ファーストドリップ」を何度でも楽しめる。
- 集中力が高まりやすい。「終わり」と「始まる」を多く作ることで、欠乏の心理学が働く。
- 継続性が高い。毎回の瞑想が軽く、気楽にできるので、次もやろうと思える。
- 時間が出来る。瞑想以外のことに存分に時間を使えて、しかも集中力が高まった状態ですることが出来る。
中には長時間の瞑想を勧めている本もあるけれど、僕は最近、時間は減らして、回数を増やすやり方を気に入っている。
具体的な方法
1から100まで呼吸をカウントして、瞑想を終える。
「まだやり足りない」と思う時もあるけれど、呼吸100回でいったん瞑想をやめるようにしている。
これは、体に「100回で終わり」という感覚を刷り込ませるため。
そしていったん、他のことをする。
ブログを書いたり、本を読んだり、食事をしたり。
そしてまた、瞑想に戻ってくるのだ。
これが、本当に良いバランスで働いてくれている気がする。
たとえば瞑想の間にブログを書くと、頭はクリアな状態で書ける。
そしてブログを書き疲れたら、瞑想で脳を癒すことが出来る。
サンドイッチのように、パンと中身を交互に重ねていく感じだ。
(これが本当に美味い)
三角形のサンドイッチのイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや
時間を増やす? 減らす?
時間を伸ばしたほうが良いのか。
時間を減らしたほうが良いのか。
この問いには、科学的な答えが用意されているのだろうか。
僕はまだそういった研究結果を知らない。
(だから、自分で試して実感してみるしかない)
でもマインドフルネスのトレーニングが、ほぼ「運動」に近いとするなら、おそらく濃度の低い瞑想をするよりも、濃度の高い瞑想をした方が、はるかに効果が高いように思う。
そして濃度の高い瞑想というのは、いわば幸福度の高い瞑想でもある。
(特にトレーニングを積んだ人にとっては)
幸福で、継続できて、他の時間も出来る。
まさに一石二鳥な話じゃないか。
どちらか迷ったら
いちど試してみて、自分の感覚に聞いてみるのが良い。
瞑想のトレーニングを続けていれば、自分に問いかけることはうまくなっているはずだから。