マインドフルネスやってみた

瞑想で人生のレシピ作り

2017年 ライフチェンジングだった本 10冊

ジョイ・オン・デマンド

要約「瞑想は楽しむが勝ち」

 

「サーチ・インサイド・ユアセルフ」に続くマインドフルネスの名著。

瞑想はストイックなイメージがあるけれど、ジョイ(楽しさ、心地良さ、喜び)を見つけることこそ、最も重要だと説かれている。

 

僕自身、もともとがストイックな性格なので、この本はとても助けになった。

瞑想はもちろん、運動にもJOYを見つけることで、生活の他の部分にも影響した。

 

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幸福になりたいなら幸福になろうとしてはいけない

要約 (タイトルのとおり)

 

幸福の罠について書かれた本。

「なぜ自己啓発では幸福になれないか」というロジックについて、目から鱗の話が書かれている。

 

単なるマインドフルネスだけでは行き着けない、さらにその向こう側の話。

まるで世界を10回ひっくり返したような、心の真実が書かれている。

本当に優れた心理学の本。

 

Kindle版が出ていないことが悔やまれる。

 

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4つのエネルギー管理術

要約: 「エネルギーはリズムだ」

 

仕事で疲れ果てて仕方ない時に読んだ本。

僕らはたとえば「1日8時間」「休憩1時間」というような硬直的な働き方をしているけれど、それがいかに人間本来のリズムを無視した働き方かということを思い知らされた。

 

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シリコンバレー式 よい休息

 要約: 「休息は偉大な技術」

 

休息中にも脳は創造的に働いている。

自分に大きな負荷をかけたら、次は大きな休息が必要。

 

エリクソンの「意図的な鍛錬」の理解において、足りない大きな部分の謎が解かれた。

 

この本を読んで、罪悪感なく、休息にどっぷりと浸かることが出来るようになった。

あとは「歩くこと」の偉大さも分かった。
(過去多くの天才は散歩を日課にしていた)

 

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小さな習慣

要約: 「習慣づくりをする時は、絶対にモチベーションに頼ってはいけない」

 

年末に読んだけど、かなり衝撃的だった。

今まで自分が何故、物事を習慣化できなかったかの本質をよく理解できた。

 

ページ数の少ない本だが、数回読んでも「へぇ!」「なるほど!」が見つかる。 

 

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一緒にいてもスマホ

要約: 「接続しない贅沢」

 

スマホをオプトアウトすると、新しい世界が広がるようだ。

 

瞑想のトレーニングを続けていても、無意識にスマホに振り回されている自分に気付いた。

「接続しない贅沢」はマインドフルネスとも非常に相性が良い。

 

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脳を鍛えるには運動しかない

要約: (タイトルのとおり)

 

「運動も勉強もできるやつ」は理にかなっていた。

運動嫌いだった自分が好きになりかけている。

 

瞑想にも運動は役立つことを知った。

 

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より少ない生き方

要約: 「シンプルイズベスト」

 

断捨離は「行為」だが、ミニマリズムは価値観だ。

この本を読んですぐに、僕のミニマリズムな生活が始まった。

 

行動を起こさせてくれる本だった。

シンプルな部屋で瞑想をすると、集中力を発揮できる。

 

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マインドセット

要約: 「練習すればうまくなる」

 

世の中の物事の多くを、才能や環境ではなく、「練習と上達」という観点で考えるようになった。

仕事しかり、人間関係しかり、ブログを書くことしかり、瞑想しかり。

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シリコンバレー式 最強の食事

 

要約: 「食事で実験しよう」

 

「食べ物がいかにパフォーマンスに影響するか」ということ。

「自分の体に合った食事法を実験することが重要」ということを教えてくれた。

 

個人的には今では1年間糖質制限を続けていて、以前よりもパフォーマンスの高さを感じている。

 

(ちなみにこの本でオススメされている「バターコーヒー」は自分には合わなかった。脂肪をとりすぎて一時期太った)

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もし、僕がこの本たちに出会っていなかったら

今頃、まだ瞑想をただストイックに続けていただろう

今頃、まだ幸福の罠にはまりこんでいたことだろう

今頃、まだ仕事で疲れ果てていただろう

今頃、まだ休息を存分に楽しめていなかっただろう

今頃、まだ新しい習慣の作り方で悩んでいただろう

今頃、まだスマホに魂を奪われていただろう

今頃、まだ運動する習慣を作れていなかっただろう

今頃、まだ雑然とした生活を続けていただろう

今頃、まだ「才能」という神話を信じ続けていただろう

今頃、まだ食事でパフォーマンスを落としていたことだろう

 

 本を読む人が幸福になる時代

科学が人間の幸福に乗り出した。

これが10年前、20年前なら、口は悪いが、本当に「馬鹿みたいな情報」「まるでデタラメの情報」しか、本から得ることは出来なかった。

(「集中力を高めるには魚をよく食べなさい」とか。「疲労回復にはニンニクがオススメ」とか。間違ってはいないのかもしれないけれど)

 

このように、一昔前は「欲しい本が、どこを探しても見当たらない状態」だった。

特に人間の疲労、回復、パフォーマンス、集中力などに関しては、何も知ることが出来なかった。

 

だが今では、本当に良質なコンテンツが日本語で読めるようになっている。

膨大な科学的研究にもとづく事実が、一般の人間でも読みやすい形式で、しかも「書籍」という形で精査されて提供されている。

100万分の1の、さらに100万分の、凝縮された砂金のような情報に僕らはアクセス出来る。

これは本当に素晴らしいことだ。

 

なおかつ僕も含めて、日本に暮らしている人は恵まれている。

日本語に翻訳されているものとなれば、それだけ需要の高いものだという証拠で、さらに精査されていると言える。

 

 

 

 

 

習慣づくりのコツ 「ベース習慣にトリガーする」

新しい習慣づくりをする時は、ベースとなる習慣に、他の習慣を混ぜ込んでいくのはどうだろう。

ボクコジンは、これは驚くほど効果が高く感じている。

 

今、自分が既に習慣化している行動。

1日の中で、絶対やっていること、何回もおこなっていることに、新しい習慣をトリガーしていくのだ。

 

たとば僕は最近、

Kindle で日本語の本を読む前に 英語の本を開いて読む」

という習慣づくりを始めてみた。

 

シンプルに聞こえるだろうが、これが効果てきめんだった!

 

メリット

トリガーの回数が多い

既に根付いているベース習慣の回数だけ、トリガーが引かれる。

 

絶対に忘れない

もしくは、忘れていてもリカバリーが効く。

 

10回中で4回は忘れてしまっても、あとの6回覚えていればOKだ。

(だんだんと忘れる回数が減って、習慣が根付いていくだろう)

 

そもそも「1日に何回腕立て伏せをする」というような、普通の習慣づくりの最大のネックは「やるのを忘れてしまう」ことだ。

やるのを忘れることを繰り返すうちに、だんだんと習慣づくりをしようという意識が薄れて、習慣づくり自体を忘れてしまう。

 

この落とし穴はものすごく大きい。

だから「ベース習慣にトリガーする」のが良いのだ。

 

タイミングを考える必要がない

新しい習慣づくりのネックは「いつやるか」ということだ。

 

タイミングを考えるだけで、かなりの意志の力を使って消耗してしまう。

だけど「ベース習慣」をトリガーにすれば、いつやるかという問題からは解放される

行動のハードルが低い

僕の場合、

Kindle をどこにでも持ち歩いて、よく本を読んでいる。

(実際には iPad MiniKindle アプリを使っている )

 

つまり、Kindleアプリで本を読むことが「ベース習慣」となっている。

 

それに加えて、同じ Kindleアプリ で日本語の本も英語の本も読めるので、ものすごく「新しい習慣」にスライドしやすい状態だ。

 

ベース習慣と新しい習慣の組み合わせは、最適なものを選ぶべきだろう。

(この組み合わせ次第で、新しい習慣が根付く可能性はグンと変わるかもしれない)

 

失敗例

僕はよくブックカフェに通っていたので、

「ブックカフェで最初に開くのを、英語の本にしよう」というルールを決めたことがあった。

 

だけど、これは失敗だった。

トリガーの回数が少ない

ブックカフェに行くのは、多くても1日1回だけ。

その1回のチャンスを逃したら、もう英語の本を開くチャンスはない。

 

ベース習慣の選択ミス

「ブックカフェに行く」というのは、根の弱い習慣だった。

僕がブックカフェに通うのをやめたら、必然的に、英語の本を読む習慣もなくなってしまった。

 

 + 小さな習慣

 

ちなみに、英語の本は「1センテンスでも読めば目標達成」としている。

なぜなら、新しい習慣作りをする時にいちばん大事なのは「習慣を根付かせること」だからだ。

 

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神はいる? いない?

僕は瞑想をしながら、こんな問いかけをしてみる。

「いま、神はいる? いない?」と。

 

これは宗教的な話じゃない。

自分自身の体の中に、神を見つけられるか、見つけられないかという話だ。

 

僕は最近「神に捧げるため」というテーマで瞑想をしている。

このテーマは本当に優れているんじゃないかと思っている。

 

なぜなら「神に捧げる」というのは、人間の集中力や、洞察力、神性、幸福感というものが、高度に統合されたものだと思うからだ。

 

神がいる時、いない時

ところで、自分を神に捧げるためには、そもそも、神を見つけていないといけない。

たとえるなら、恋人にプレゼントをあげるには、そもそも近くに恋人がいないと成り立たないように。

 

「神に捧げる」という言葉を浮かべても、なんだか虚しい感じがする時はきっと、そもそも神がいない時だ。

これがひとつのジレンマ。

 

自分を神に捧げたくても、そもそも神がいない場合があるということ。

いま部屋にいない恋人に、プレゼントを贈っても仕方がない。

 

だから僕はたびたび「神はいる?」と問いかけてみる。

 

神と身体感覚

 

神は身体感覚の中に宿る。

だから僕は、神が消えてしまったと思った時は、身体感覚に意識を戻すようにしている。

体が感じるものの中に、神がいないかどうか、探してみる。

思考の中ではなく、リアリティを感じる身体感覚の中に。

 

人間の思考というものは、すぐに脳をハイジャックして、神の中身を奪っていってしまう。

そこに残るのは言葉の枠だけ。

だけどそれは、僕が1秒前まで見ていた本物の神じゃない。

偽物の神。神の抜け殻だ。

 

洞察力

瞑想をしていて良かったと思うのは、

今自分に「何があるか」「何がないか」ということが、敏感に察知できるようになったことだ。

 

洞察力が低いままだと、瞑想を神に捧げるというのは、なかなか難しかったと思う。

なぜなら神は高度な概念であるだけに、そのぶん、シャイで繊細なものでもあるからだ。

 

なぜなら相変わらず思考のスピードは素早くて、「神」という言葉も、簡単に偽物にすり替えられるからだ。

偽物に対してお金を払い続けても、募るのは苛立ちと、神への不信感だけ。

(なぜんら僕らが騙されているときは、それが偽物だとすら、気付いていない)

 

だけど洞察力が高い状態にあれば、

「神がいない状態だ」に気付き「頭でだけ神を作り出してしまっている」と察知して、身体感覚の中に戻っていくことが出来る。

 

こういった意味で、自分自身の体にアクセスすして、モニタリングすること。

観察して、理解して、フィードバックを受け取ることは重要なのだと、改めて思う。

 

マインドフルネスは神に似ている

ところで、瞑想を1年半ぐらい続けて「神」というテーマにまでアクセスできるようになった自分には少し驚いている。

 

僕がマインドフルネスのトレーニングを始めたばかりの頃の、

ビギナーズラックで手に入れたような「神聖な幸福感」が、さらに大きくなって戻ってきたような感じだ。

しかもトレーニングを積んでいる分だけ、以前よりも再現性があるはずだ。

 

だけど、これは何も特別なことじゃない。

本でよく言われるように、赤ん坊が生まれた時は、マインドフルな状態で生まれてきた。

 

つまりマインドフルネスな状態というのは、生まれたての赤ん坊のように、神の近くにいる状態。自分の中に神がいる状態なのだ。

 

 

 

神に出会うために生きる ( 物事の説明の話 )

物事の説明

 

世の中には多くの物事が存在する。

そしてそれよりも多くのバリエーションで、物事の説明も存在する。

 

僕自身は特に、物事をうまく説明したいと思うタイプの個体のようだ。

物事をうまく説明できないと、なんだか落ち着きが悪い。

 

価値基準、目指す方向が明確であれば、どれだけ生きやすくなるだろうか。

「価値基準が明確でないことによる不幸」は、人間にとって、ものすごく大きいものだと思う。

 

だから「物事を総括的に説明できるキーワード」が欲しいと、常日頃から考えている気がする。

 

全てを説明できる?

 

今、自分が何のために、何をしているのか。

 

たとえば、瞑想をするのは、何のためなのか。

読書をするのは、何のためなのか。

文章を書くのは、何のためなのか。

ひとつひとつの要素に対して、単独の説明は決まっても、それぞれの要素は矛盾していたりする。

それは「矛盾しながら生きている」状態であり、葛藤を生み出す。

 

瞑想をしながら、文章を書きたいと思ったり。

文章を書きながら、運動をしたほうが良いんじゃないかと思ったり。

運動をしながら、仕事の勉強のことが頭によぎったり。

バラバラな価値観を抱いたままだと、人間の脳は混乱をきたしたままで、道をまっすぐに歩くことさえ難しい。

 

僕にとって、いま現在、全てを説明できそうなキーワードは「神を見つける」とか「神に会いにいく」とかいうキーワードだ。

 

「全てを説明できる」というところが重要だ。

なおかつ、身体感覚として完全に納得できるものでなければいけない。

体が納得していない、頭で考えた言葉で物事を説明しても、空虚なだけだ。

 

肉体

なんのために運動をしたり、食事に気をつけたり、睡眠を改善したりするか。

それは神に会いにいくためのコンディション作りだ。


なぜならコンディションが悪い時に神を感じるのは難しい。

 

ミニマリズム

なぜミニマリズムを実践するか。

それは日常の生活の中で、神に出会いやすくするためだ。

 

雑然とした生活をしていれば、神に出会うチャンスはぐっと減ってしまう。 

もしくは全然なくなってしまうかもしれない。

 

集中力

なんのためにシングルタスクを実践したり、集中力を上げたりするか。

それは人間が集中力を発揮する状態の中に、神が宿っているからだ。

 

より良質なフロー状態に入る時は、より神の近くに居る気がする。

 

学習

なんのために本を読むか。

それは自己発見をするためだ。

自己発見をするということは、神を見つけるということでもある。

 

実は僕らは自分自身や、世界のことを何ひとつ理解していない。

自分を理解せずに神に出会おうなんて、こんなに非現実的な話はないのだから。

 

アウトプット

文章を書くのは何のためか。

それは神に出会うためだ。

 

文章を書くということは。自己発見をするということだ。

自己発見をすればするほど、神の場所に近づくことが出来る。

 

そして文章を書いている時、脳で起こるプロセスにも、神が宿っている。

 

瞑想

なんのために瞑想をするか。

それは自己発見、自己洞察、集中力、自己理解など色々な要素を単独でトレーニングして、やがては有機的に働かせるためだ。

 

 

神は身体感覚に宿る

最近、理解したこと。

身体感覚の中に神はいる。

 

神を感じている時はいつでも、身体感覚の中に神を感じている。

決して言葉や思考の中ではない。

そんな素早くい場所には彼はいない。

 

これは恐らく、神を見つけている瞬間にしか分からない感覚だ。

 

「神を感じたい」といくら言葉で思っても、まず見つからないのはこのせいだ。

僕らが偶然に神を見つけることがあっても、それを頭の中で考え始めたとたんに、身体感覚はそれを失ってしまう。

 

たとえば人が安心や幸福感を感じる時、そこには必ず「あたたかい」という身体感覚がある。

神を感じている時も、同じように特定の身体感覚がある。

 

だから自分の身体感覚にアクセスするということは、神にアクセスするということでもある。

 

(なぜ瞑想では「身体感覚」を重視するのか。これで話がつながった!)

99.9%

身体感覚とは何か。

それは「思考ではない全てのもの」と言える。

 

思考は世界の0.1%でしかないが、その0.1%が、僕らの頭の中で何度も何度も、膨大な回数繰り返されている。

本当に雑多な状態だ。

 

残りの99.9%にアクセスする道は、ほとんど閉ざされている。

 

瞑想のトレーニングをするのは、この99.9%にアクセスできるようになるための方法だ。

 

神に捧げる瞑想

僕にとって、最高の瞑想のテーマは

「神に捧げる」

だと思った。

 

「幸福感を感じる」「自分に問いかける」

「心地良さを探す」「思考を受け流す」

 

など、他のテーマよりもずっと上位にある概念。

それが「神に捧げる」という言葉。

これは究極に近いんじゃないかと思った。

 

ギブ

神に「捧げる」というところがポイントだ。

 

「神と出会う」とか「神が降りてくる」というと、これは神から「受け取る」ことになる。

だけど「神に捧げる」というのは「与える」行為だ。

 

ギブアンドテイクでいうところの「ギブ」だ。

「テイク」よりも「ギブ」の方がはるに強いエネルギーを持っている。

 

ところで神という表現を僕は気に入っているけれど、個人個人で「究極」を感じられるフレーズは違うかもしれない。

たとえば「瞑想が瞑想をする」とか「自分ではなくブッダが瞑想をする」とか「宇宙的なものにアクセスする」とか。

 

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自由な旅 

 

瞑想というのは、フリースタイルのロールプレイングゲームみたいだ。

あまりに自由な場所に行けるので、どちらに向かって歩くのが一番良いか、分からなくなるときがある。

 

モンスターを倒して経験値をためることも出来るし、街の人と話すことも出来る。

武器屋でアイテムを選ぶことも出来るし、カジノで遊ぶことも出来る。(RPGで言うならね)

 

だけど「何をするか?」に迷った時は、本来の目的を思い出すのが良い。

ただシンプルな目的。それは「姫をとらえている最後のボスを倒すこと」だ。

 

同じように瞑想でも、ただひとつのシンプルな言葉が欲しい。

道に迷った時に、いつでも思い出せるような、シンプルな目的が。

 

それが僕にとっては「神に捧げる」なのだと思った。

 

 

100呼吸の瞑想 〜呼吸の数をカウントしてみよう〜

最近、このやり方が良いんじゃないかと思っている。

 

瞑想をしながら自分の呼吸の回数を数えて、100回でいったん終わる。
時間にするとだいたい15分から20分ぐらい。

 

もし続けたい時は、また1から100までを数え始める。これを繰り返す。

 

メリット

時計やアラームを使わなくて良い

いつでも道具なしで瞑想ができる。

呼吸の回数で時間がどれだけ進んだか分かるので、ずっと時間を気にしなくて済む。

 

終わりがあるからこそ集中できる

人間、そういうものらしい。

 

どんなに瞑想が心地良くても、また続けたくても、100回でいったん終わる。

だからこそ集中できる。

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自分のペースを把握できる

「いつも呼吸10回目ぐらいで、心が落ち着いてくるな」とか、

「呼吸50回目ぐらいが集中力のピークだな」とか、

自分のペースを把握しやすい。

 

ファーストドリップの美味しいところを楽しめる

コーヒーはファーストドリップが一番美味しいという。

瞑想もそれと同じで、最初の集中力が残っている状態が一番楽しい。(自分の場合は)

 

この一番美味しいところだけを楽しめる。

 

呼吸を数えることで雑念が減る

意識がある程度「呼吸を数えること」に引きつけられて、他の

 

終りと始まりを意識できる

物事には始まりがあり、終わりがある。

数を数えることでそのことを実感できる。

 

なんなら、もっと単位を細かくして、50回、25回、10回の区切りで数を数えても良いかもしれない。

これをもっと細かく分けていくと、呼吸の一個一個に始まりと終わりがあるのだということが理解できる。

 

「ジョイ・オン・デマンド」でも「終りと始まりを見つける瞑想」は、ものすごく重要だと語られている。

 

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