マインドフルネスやってみた

瞑想で人生のレシピ作り

荷物は下ろしてはじめて重さが分かる

これは僕の最近の座右の銘だ。

 

たとえば、

 

- 仕事をちょっと離れて休憩を取ると、どれだけ目の前の作業に「はまりこんでいた」かが分かる。

- 静かな場所に行ってはじめて、どれだけのうるさい場所にいたかが分かる。

- 瞑想のトレーニングをして始めて、自分の心がノイズだらけだったことが分かる。

 

というようなこと。

 

 

増やす? 減らす?

瞑想はまさに、荷物を減らしていく手段だ。

瞑想はよりシンプルになるためのトレーニングだ。

 

僕らには心理的な死角があって、自分の背負っている荷物の重さには、まず気付かないようにできてるみたいだ。

たとえ体では重さを感じていても「こんなものはなんでもない」と、こんどは心理的「否認」を働かせたりする。

 

瞑想はシンプルになる手段

 

文化的に「成長=増やすこと」「増やす=良いこと」という刷り込みは本当に根強いと思う。

だから僕も、瞑想をしていても、つい「増やそう」としてしまう。

たびたび「減らすこと」「手放すこと」を思い出して、瞑想のやり方を元に戻す。

 

だけど瞑想はよりシンプルになる手段だ。

 

心がより「シンプルさ」を感じる場所を探してみる。

たとえば、押すのではなくて引いてみる。

シンプルな「場所」は常に、僕らの中に既に存在するのだ。

 

世界地図の描き方

 

僕らの世界地図は間違っている。

だから地図の描き方を変える必要がある。

 

たとえば、人間は1日に数万回は思考する。この思考が乱雑に入り乱れた状態は「荷物」だ。

たとえば、僕らは人間の自然のリズムに逆らった、硬直的な働き方をしている。これは働き方の「荷物」だ。 

たとえば、僕らはインナーチャイルドを持っている。インナーチャイルドが傷つき脅えている状態は「荷物」だ。

 

今背負っている荷物を少しでも下ろすことが出来れば、きっとより遠くまで行けるだろう。

 

問題解決に役立つ「生産的瞑想術」 ( DEEP WORK - 大事なことに集中する )

なんとなく、瞑想は思考は相性が悪いんじゃないかというイメージがないだろうか。

無に近づいたり、思考を受け流していくのが瞑想だというような。

 

だけど必ずしもそういうわけじゃない。

瞑想をしながら、思考を味方につけることも出来る。

 

「ディープ・ワーク」という本には「生産的な瞑想の方法」が紹介されている。

この本を読んで僕は、瞑想で積極的に「考え事」をするのは間違ってなかったんだと改めて感じた。

 

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具体的な方法

- 瞑想をしながら、ひとつのテーマについて考える

- テーマから気がそれたら、またそのテーマに意識を戻す

 

たったこれだけだ。

あとは僕ら人間の偉大な能力「思考」が、全てを取り計らってくれる。

 

ずっと長い間、答えが出ないことがあるかもしれない。

だけどその時も、焦らずにひとつのテーマについて考えてみる。

 

コツは「テーマを与えること」と「心を遊ばせること」の両方をおこなうこと。

(テーマを与えすぎると頭がパンクするだろうし、心を遊ばせすぎると答えに近づくのが遅くなるかもしれない)

 

何が違うの?

瞑想をしながら考えると、なぜ良質な答えが出やすいのだろう?

普通に考えることとは何が違うんだろうか?

 

それは、

 

- 心理的に落ち着いた状態で考え事が出来る

- 答えが出ない時間にも耐えられる ( その間も、脳はずっと働いている )

- ひとつのテーマに大して明確に問いかけるので、思考の試行回数をはるかに多くできる

- 日常の中で普通に考えると、ノイズが多く、他の物思いに気をとらわれがち ( 長い時間をかけて答えが出ることはあるかもしれないが、たぶん、かなり遠回りだ )

 

というようなことだと思う。

 

どんなテーマを与える?

いま、自分が特に問題を感じていることを。

「テーマなんて思い浮かばない」という時は、まずは「テーマが思い浮かぶのを待つ」ために、瞑想をしてみても良いかもしれない。

 

たとえば僕の場合は最近

「仕事でのチームへの貢献の仕方について」

「シンプルな状態とはどういうものか」

「ブログは一体、誰のために書くのか」

というようなことをテーマに、瞑想をしながら考えたりした。

 

こうやって問題を箇条書きにしてみると、なんだか単純だが、心が感じているものははるかに複雑で、切実に「解決」を求めていたのだ。

 

瞑想にはいろいろな種類があるけれど、特に人生で何か問題を感じた時は、瞑想で「ディープ・シンキング」をしてみると良いかもしれない。

 

参考

こちらも参考になる本だ。

 

「マインドフル・フォーカシング:身体は答えを知っている」

 

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瞑想しながら軽いストレッチでリフレッシュする

今日、良いやり方を思いついた。

 

あぐらを組んで、瞑想している時、

 

- 手をほどかずに、つないだままで、裏返して伸ばす

- 心地良さを感じながら、体全体を伸ばす

 

ほとんどポーズは変えずに、体の内側だけを伸ばすイメージだ。

これであまり集中力をそこなわずにリフレッシュできそうだ。

 

手をほどいて体を伸ばしたり、立ち上がって伸ばしたり、軽い運動をすると、集中が途切れやすいので、そこがネックだった。

でもこの中庸的な方法は良い。

 

これと同じように、瞑想に運動やストレッチを取り入れるなら、なるべく「外から見える動き」は少ないもの。

だけど「体の内側が伸びるもの」にすると良いかもしれない。

(人によって好みはあるだろうけれど)

 

ぜひお試しを。

 

幸福になるためのシンプル読書術

幸福になるためには、読書はあまりにも強力だ。

 

人の行動が変わる時というのは、次のプロセスを辿る。

 

- 選択肢の地図を描き直す (情報収集、理解、発見)

- 選択肢を吟味する (思考、洞察、検討)

- 選択のしかたを変える (行動の変化、ルール作り、習慣化)

 

読書というと「知識を増やす」というイメージがあるが、むしろ読書は「選択肢を削る」ためのものだ。

最終的には今よりも選択のクオリティが上がり、選択もシンプルに変わる。

 

選択の仕方を変えるには、そもそも膨大な選択肢の中から「なぜ新しいものを選ぶのか」という強力な理由、理解、そして何より説得力が必要だ。

このために本の中で、多くの文章は費やされていると言って良い。

 

まず人というものは、膨大な選択肢の中から日々、選択を繰り返しているもの。

この前提に立つことが重要だ。

 

たとえば食事でも、膨大な店や品数の中から自分に合ったものを選んでいる。

ひとつの店でAランチを食べるということは、他の数百万の組み合わせを捨てた結果だ。

 

そして、僕らはあまりに膨大な選択肢を提示されると、つい「慣れたもの」を惰性で選びがちだ。

これが選択肢が吟味されていない状態。

だが勉強のために本を読むと、この選択肢をいったん増やして、最後には削ることになる。

つまり読書も、最終的には「シンプルな状態」「幸福な選択がしやすい状態」のためにある。

こうして僕らは「惰性の選択」から「吟味された選択」への橋渡しをおこなう。

 

本を読んで学ぶということは、幸福になるための技術だ。

いったん選択肢が増えて、地図の状態は雑然とするかもしれない。

だがこれは部屋の片付けに似ていて、最終的にはシンプルで過ごしやすい状態を目指している。

 

読書は、ただ増やすことじゃない。増やして、組み替えて、減らすことだ。

だから恐れずに選択肢の吟味、そして組み換えをおこなおう。

 

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瞑想は肉厚のステーキだ 〜瞑想と勉強の関係〜

そのまま食べても、十分に美味い。

だけど上等な塩をまぶしたり、色々な調理法を知っていれば、さらに美味しく味わえる。

 

瞑想と勉強の関係もこれに近いと思う。

 

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瞑想を実践するだけでも、肉厚のステーキを味わうことは出来る。

だけど他の勉強もすれば、より広がりのある味を楽しむことが出来る。

 

たとえば社会心理学や、人間の生体について学ぶことは、より生き方のバリエーションを広げてくれることだろう。

 

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疑問

僕が常々抱いてしまう疑問は

「瞑想と勉強、どっちが大事なんだろう」

「幸福になるには、瞑想だけではダメなんだろうか」

ということだ。

 

何をどこまで勉強すれば良いのか。

どれだけ勉強しても、まだ勉強することが出てきて果てしなく思える。

瞑想だけではダメなのか。

 

これはきっと、自分がどんな形の幸福を受け取りたいかによる。

 

シンプルなステーキだけで十分に満足なら、それを食べ続けるだけで十分だろう。

だけど他の味も楽しみたいと思ったら、勉強するのも悪くない。

ステーキ自体の質も上がって、味わい方も深みを増したら、言うことなしだ。

 

ステーキを腐らせないための秘訣や、他の人に提供するマナーも身に着けていれば、なおさら良い。

 

だけどすべての根本は「肉厚のステーキがあること」だ。

肉が美味くなければ、どんな調理をしてみても美味くはならない。

 

 

悩みから始める読書法

読書は「悩み」から始めるに限る。

問題意識が強ければ強いほど、読んだ時のインパクトは強い。

 

本を選ぶ時のコツは「今、一番悩みを感じていること」に関するものに決めることdあ。

 

問題意識が薄い時に「なんとなく読んでおこう」と思う本は、本当に役に立たない。

昨日読んだらインパクトのあった本も、今日はそうではないかもしれない。問題意識は日々常々、変化するからだ。 

いちどある程度解決した問題なら、次に本を読むインパクトは薄れる。

(たとえば、足し算の仕方を覚えたら、もう「足し算の本」を読む必要はない)

 

だからリアルタイムに「いま、すごく悩んでいること」に関する本を探してみよう。

 

僕の場合

 

仕事で集中力が寸断されていると悩んだ時に「シングルタスク」「ディープワーク」を読んだ。

 

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仕事での疲労が蓄積されている時に「よい休息」「4つのエネルギー管理術」を読んだ。

 

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仕事のキャリアで悩んでいる時に「ライフシフト」を読んだ。

 

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体型や、食事の仕方に悩んでいる時に「最強の食事」を読んだ。

 

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睡眠の悩みにはこれ。

 

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何より、人生に対して極限に悩んでいた頃に読んだ「マインドフル・ワーク」は忘れられない本だ。

この本で僕の人生は変わった。

 

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マインドフルネスと読書

瞑想をしている人でも、他の分野の本を読む価値はある。

いやむしろ、瞑想のトレーニングを積んでいるからこそ、本に書かれていることを真綿のように吸収することが出来るかもしれない。

 

瞑想の実践だけで、マインドフルネスを手に入れることも可能だろう。

だけど悩みが深い時、自分ではどうしても解決しづらい問題がある時は、本を読んでみるのも良い。

 

たとえば僕らがアスリートだとしたら、あらゆる手段を使って最高のコンディションを保とうとするだろう。

それと同じように「あらゆる手段」で幸福になるための対策を取る。

瞑想と読書の両面から敵を攻めれば、きっと壁を崩しやすくなるはずだ。

 

 

瞑想家は無がお好き

最近、感じていたこと。

自分には、生きることに対して、根本的な部分でのNO(否定)が存在する。

 

だから、生きることに対して積極的になれない。

人生に対して、なにかひとつの物事を進めよう思っても、根本的な部分でモチベーションが持てない。

 

たとえば仕事で成果を上げることや、勉強して成長することや、人間関係を作ることに対しても。

「どうせ良くやっても、最後には死ぬんでしょ?」と考えてしまう。

とっさに、それもほとんど無意識に、体が反応していることに気付く。

 

たとえば自分を幸福にするチャンスがあっても、「自分が幸福になって良いんだろうか?」という根本的な疑問が横たわっている。

これはたぶん、ずっと昔からの癖だと思う。

 

瞑想をすることで、以前よりもはっきりと、このNOが見えるようになってきた。

だから、このNOをどうにかYESに変えたいと思っていた。

 

無を見つけた時

だけど今日さらに、改めて気付いたことがある。

 

僕は「無」がとても好きだ。

瞑想しながら無のことを考えると、とても心が落ち着くことに。

 

人は生まれて、いずれは無に返る。

その途中でどんなものを勝ち得ても、最後には手放さなければいけない。

無は僕らがいずれは辿り着く場所。

だから、無は究極にシンプルな状態だ。

 

無のことを考えていると、物事をプラスにするための、複雑な手順なんかとは無関係でいられる。

 

このことに気付くまで、自分が無が好きだとは思わなかった。

無は、瞑想のトレーニングをして、頑張ってたどり着くものだと思っていた。

 

だけどどうやら僕の場合、生きることには積極的になれなくても、無に対しては「積極的」になれるようだ。

 

これは瞑想をする時に、大きな武器になると思った。

なぜなら自分の「好き」を理解している状態だからだ。

 

 

瞑想の世界では、自分や世界に対しての否定さえも、必ずしも悪いものじゃない。

コインの裏表みたいに、マイナスがプラスにも変わる。

 

そんなことを思った日だった。

 

ところで

僕はシンプルなものが好きだ。

断捨離も好きで、部屋には物がとても少ない。

 

こういった部分でも「無」に対しての好みが出てくるのかもしれない。


追記: 無はホームグラウンド

 

無を愛することが出来て、はじめて有も愛することが出来るような気がした。

今まで僕の心にあったのは、無に対する嫌悪感だったのかもしれない。

 

 

無とは家。ホームグラウンドみたいなものだ。

たとえば旅行をする時も、帰る家があるからこそ、旅を楽しむことが出来る。

そんな感覚だ。

 

人生はひとときの旅であり、僕らはやがて家にかえる。

だけど旅も家も、どちらも悪いものではない。愛すべきものなのだと。