瞑想で眠くならないためには、呼吸以外に集中してみる
個人的には、呼吸に注意を向けると、リラックスしすぎて眠くなることが多い。
そんな時は、体の中で注意を向ける「場所」を変えてみるのが良いかもしれない。
僕の場合は、手足の感覚に注意を向けると、眠くなりにくい。
「呼吸に注意を向ける」というのはあくまでひとつの方法にすぎない、こだわらなくても良い。
「体のこの場所に注意すると、こんな感覚になるな」
「こっちだと、また別の感覚になる」
というのを、ひとつずつ試してみると、きっと面白いはず。
瞑想と薬物中毒の違い
瞑想は快楽を生む。
アルコールや麻薬も快楽を生む。
じゃあ一体何が違うのか?
僕は「瞑想は、弱い刺激に敏感になる」という話が好きだ。
個人的な実感としても、これは当たっていると思う。
たとえば、風がそよいで肌をなでる感覚とか、手と手を組んだ時の微細な感覚とかに、以前よりもずっと敏感になった。
経験豊かな瞑想者がジャーナのさまざまな状態にいるときの脳をスキャンした脳科学の研究を僕はひとつだけ知っているけれど、その結果はとても魅惑的だ(3)。もっとも興味深かったのは、研究チームが、ジャーナにおける深遠なJOYの成分を調べようとした部分だ。彼らは脳のドーパミン報酬系の活動を測ることでそれをあきらかにしようとした。論文によると、それは「セックスのオーガズムより活発である」と説明しているんだ。ここで重要な疑問がわく。ジャーナが本当にセックスのオーガズムよりすばらしいのなら、それはドーパミン報酬系が過剰に働いている状態なのでは? もしそうなら、薬物乱用(専門用語を使うと、「脳内ドーパミン経路の薬物性過剰刺激」)と同じではないだろうか? この研究では、驚くべきことがあきらかになった。脳のデータによると、ジャーナにおける報酬系の活性化は、実際はかなり小さなものだった。ただ、大脳皮質の活動が低下していたので、その結果として、小さな報酬シグナルでもより強力に感知されたのだ
「たった一呼吸から幸せになるマインドフルネス JOY ON DEMAND」より
瞑想をしていても、何も感じられないように思う時。
体の中で「すごく弱い刺激」を探してみると、案外、見つかったりする。
そして、それがとても心地良かったりする。
薄いコーヒーを味わうように。
ホムンクルスと瞑想 〜手足の感覚、そして集中力〜
あなたはホムンクルスを知っているだろうか。
「人体の感覚がどの部位に集中しているか」を表した像だ。
僕が最近思うのは、瞑想とこのホムンクルスはものすごく関係が深いということ。
以前僕は、集中力は「頭のあたり」とか「胸のあたり」に位置すると思っていた。
「集中している」というと「頭を使っている」という感じがする。
あまりにそのイメージが強かったので、いつまでも集中力の源泉が見つけられないでいた。
「なんだかよく分からない、どこでもないどこか」にあるもののように思えた。
けれど最近感じるのは、集中力は肉体の特定の場所から生まれてくるということ。
それが、末端神経である、手と足の感覚だ。
瞑想で座禅を組むと、手と手が触れ、足と足が触れ、足と地面も触れることになる。
だからこれは、人間にとって最も集中しやすい姿勢だということに気付いた。
手足というのは実は、ものすごく敏感に作られているからだ。
(上の図では足は小さく描かれているけれど、手に匹敵するぐらい、足の感覚も鋭敏だと僕は思う)
だから僕は最近、歩く時は呼吸でも、周りの景色でもなく、まずは足の感覚に注意を向ける。
そうすると、ものすごく心がセンタリングしやすいことに気付く。
足裏を中心として、心地良い、安定した感覚が広がっていく。
(足の情報収集力は実はすごくて、人類はそれを忘れてしまっているという説もある)
集中力の源泉が手足にあるだなんて、とても頭では信じられないだろう。
だけど、どれやらこれは本当みたいだ。
瞑想をする時も、歩く時でも、ぜひ手足の感覚に注意を向けてみてほしい。
他の場所に意識を向けるより、きっとうまくいくはずだ。
体は頭より100倍賢い
たとえば瞑想中に
「手放していく」
という言葉を、心の中で唱えてみる。
そして、体の反応を確かめてみる。
次に
「付け足していく」
という言葉を、心の中で唱えてみる。
そして、体の反応を確かめてみる。
すると、自分自身に起こる反応がまったく違うことが分かる。
理論的に考えると、言葉なんて、根本的には文字の羅列にすぎないはずなのだけれど、何度試してみても、本当に反応が変わるから不思議だ。
おそらく今まで人生の中で、膨大なイメージがその「言葉」に蓄積されていて、自然に脳が反応するのだろう。
これは本当に不思議な現象に思える。
脳の裏側で、どんなプロセスが働いているのか、頭で考えても全容が全く分からないし、腑に落ちない。
だけど体は現実に、言葉に応じた反応を見せる。
頭で理解できなくても
僕らは例えば「言葉が肉体に与える影響」や「脳科学的なプロセス」の全てを、頭で理解できるわけじゃない。
だけど体に起きていることは現実だ。
いくら頭で考えて理解できなくても、実際に起きていることが真実だ。
もちろん、心や体に起こるプロセスを、頭で明確に理解できていた方が重宝するだろう。
だけど「頭での理解」にはそもそも、限界があると考えたい。
瞑想をしながら「頭では理解できない現象」に出会っても、
理解できないからといって否定したり、全てを理解しようとしたりせず、「自分」よりももっと賢い「体」に判断を委ねても良いのかなと思う。
大勢の科学者が技術の粋を集めても、まだ解明できない部分が多いのが、人間の脳や体の仕組みなのだから。
幸福になりたいなら科学的な本を読みなさい
今まで科学というものは「人間理解」に関して、ほとんどエネルギーを割いて来なかった。
だから現状、僕らの人間理解は浅く、エラーだらけだと考えて間違いない。
世の中に広く行き渡っている常識は有害であり、僕らの幸福を邪魔している。
科学の世界では、急速に「人間理解」に対しての扉が開かれている。
今まで文明がものすごい勢いで間違ってきた方向に対して、すごいスピードでの修正が進んでいるようだ。
そして今までの常識を覆すような本が、数多く出版され始めている。
人間理解の過渡期
今の時代は、ちょうど過渡期なのではないかと思う。
より正しい人間理解は、少しずつ世間に浸透していくことだろう。
だけどそのスピードはものすごく遅いかもしれない。
いちど広まってしまった常識というものは、かなり根強いものだからだ。
僕らの人生の時間は待っていてはくれない。
20年、30年後に真実に気付くよりも、いま気付いた方が良いに決まっている。
今のタイミングで情報収集をして、人間の本質について理解しておくことは、非常に意味のあることだと思う。
間違った地図
大前提。
- 僕らは間違った地図を持っている。
- 僕らは自分たちが、間違った地図を持っていることに気付いていない。
- 僕らは、間違った地図によって引き起こされている弊害を理解していない。
新しい地図を持った時にはじめて「古い地図が間違っていたこと」に気付くものだ。
たとえば知性に関して。
「頭が良い人間と、頭が悪い人間の二種類がいる」という理解をしていると、他人も自分も、そのどちらかに分類することになる。
多岐多様に渡る知性のタイプを、一辺倒に無視することになるだろう。
これでは自分たちの知性をうまく活かすことは出来ない。
たとえばエネルギーに関して。
「休憩を取らずにひたすら頑張る方が生産性が高い」という理解をしていると、疲労のスパイラルに陥って、結局は大きな赤字を背負うことになる。
仕事自体も過酷になるし、成果も挙げづらくなるだろう。
勉強は投資
こういった勉強は、理解するのは一瞬だ。
だけどいったん正しい地図さえ持ってしまえば、生涯に渡って、人生の問題を軽くすることになる。
勉強はなるべく早いうちにした方が良い。
勉強は人生に対する投資だ。
幸福感は皮膚感覚の中に
瞑想をしていると、とても心地良い幸福感がやってくる時がある。
自分から積極的に、幸福感を感じ取ることも出来る。
だけど「注意を向ける位置」が間違っていると、なかなかうまくいきづらいみたいだ。
たとえば僕の場合「胸のあたり」に注意を向けると、幸福感を得ることが出来ないみたいだ。
胸のあたりには、何か苦しい感覚がある。
「心」というと、どうしても「胸のあたり」をイメージしてしまっていたのだけれど。
そもそも「心が胸のあたりにある」「自分は胸のあたりにいる」という無意識の感覚が、良い瞑想の邪魔をしていたみたいだ。
だけど最近、どうやら幸福感というのは、別の部分から生まれているらしいということを感じていた。
そしてその正体が「皮膚感覚」じゃないかということに気付いた。
それまで僕はきっと、皮膚に感覚があるということさえ忘れていた。
安心感
この話は、あくまで僕個人の感想なのだけど、わりと真実を突いてる部分もあるんじゃないかと思う。
たとえば
「母親の胎内にいたときの安心感」
「猫が親猫に毛づくろいされるような、あたたかい感じ」
「岩盤浴をしているときの、リラックスした感じ」
幸福感や、安心感というのは、実はいつも『皮膚感覚」の近くになかっただろうか。
軽さ
これは瞑想で大事な「軽さ」とも関係しているように思う。
たとえば「体の中心のあたり」に注意を向けると、自分というものが重く感じられる。
だけど「体の表面」に注意を向けると、とても軽やかに感じられてくる。
皮膚というものはとても薄くて、とても軽い。
だから皮膚に注意を向けてみると、自分自身も軽く感じられるみたいだ。
GO WILD
僕らがほとんど忘れてしまった、数々の原始的な感覚。
その中でかなり重要な部分を占めるのが「皮膚感覚」なんじゃないだろうか。
心ここにあらず = 体ここにあらず
「心」を「今現在」に持ってこようとしても、なかなか難しい。
なぜなら「心」自体が何なのかよく分からない。曖昧だからだ。
「心」ではなくて「体」を「今現在」に取り戻すことの方が簡単だ。
たとえば風がそよいでいる感覚、歩きながら足裏に感じる感覚など、心地良いものに注意を向けるだけで良い。
瞑想のトレーニングを続けていると「心と体は同一のもの」という確信が、どんどん深まっていく。
「心ここにあらず」というのは、すなわち「体ここにあらず」だ。
そして扉は、だいたい僕らが想像する「心」のようなものではなくて、もっと身近な「体」にある。
だから僕は、自分の心がさまよっていると気付いた時には、
まずは「肌の感覚」に注意を向けることに決めている。
これがなかなか、うまくいくみたいだ。