マインドフルネスやってみた

瞑想で人生のレシピ作り

瞑想の指導者がそれぞれバラバラなことを言う理由

瞑想の指導者も人間だ。

他の人の体を借りて瞑想するということは出来ないし、他の人の人生を体験することも出来ない。

 

瞑想を実践するのは「自分の体」であり「自分の心」でしかない。

だから必然的に、その教えも個人の色を強く反映することになる。かなりのばらつきが生まれても当然だ。 

 

だからたとえば瞑想関係の本で、指導者が「絶対にこうしなさい」と書いていても、あまり気にする必要はないと思う。

指導者であるにも関わらず、いや、指導者だからこそ「自分の体験」という罠にはまりこんでいるかもしれないのだから。

 

「平均的な人間」は存在しない。

 

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科学によって瞑想のベールが剥がされたとはいえ、それぞれ個人にとって何が最適な瞑想なのかという測定は難しい。

 

だから瞑想のやり方は、自分が気に入る方法でやろう。

料理の味付けを、自分で決めて良いのと同じように。

 

「最も優れたものは、自分の体が知っている」

最高の瞑想場所はお寺じゃなくて自室

環境によると思うが、特に一人暮らしの人なんかにとっては、自宅は最高の環境になるかもしれない。

 

重要なのは、

 

  • 集中しやすい場所であること(静かであったり、適度な室温であったり、人によって条件は違うと思う)
  • 気軽に、繰り返しトレーニング出来ること

の二点だ。

 

座禅や瞑想というと一般的には「お寺でしてるんですか?」というイメージみたいだ。

だけど、いくらお寺が集中するのに向いているからといって、毎日お寺に出かけていくわけには行かない。

住職の息子でもない限りは。

 

瞑想で大事なのは「繰り返しトレーニングすること」だ。

自室はそれにはうってつけだ。

もしくは、集中できるお気に入りの場所を見つけるのが良いだろう。

 

瞑想はトレーニングなので、習慣的に練習時間を取る方が良いに決まっている。 

 

たとえば、スタジオ練習だけで上手くなるバンドがいるだろうか。

試合に出たときにだけバットを振る野球選手がいるだろうか。

フルマラソンの時以外は走らないランナーがいるだろうか。

 

瞑想もまた、練習がすべての世界だと言える。

 

 

瞑想は航海術、肉体は船

残念ながら瞑想は、食事のかわりにはならない。

残念ながら瞑想は、睡眠のかわりにはならない。

残念ながら瞑想は、運動のかわりにはならない。

 

瞑想で出来ることは、瞑想で出来ることの全てだ。

その他のものではない。

 

瞑想にはエネルギーが必要だ。

エネルギーがなくては瞑想は出来ない。

そのエネルギー源は肉体にある。

だから睡眠や食事や運動は、瞑想のためのエネルギーを供給してくれる。

 

僕らが乗っているのは肉体的資源という船だ。

僕らは船に乗りながら、その上で心の舵を取っている。

そして瞑想は、船の舵をとるトレーニングだと思う。

航海術だ。

 

船がなくては海を進むことは出来ないし、航海術がなければ、目的の場所にはたどり着けない。

 

だからたとえば

「瞑想と運動、どちらが良いの?」

と聞くのは、

「船と航海術、どちらが偉いの?」

と聞くみたいなもんだ。

 

どちらが偉いも、優れているわけでもない。

僕らは海を進んでいるのだから、船も航海術も両方が必要だ。

 

食事への投資、睡眠への投資、運動への投資は全て、瞑想の味方だ。

優れた航海士はオンボロの船でも海を渡れるかもしれないけれど、どうせならピカピカの船の方が良い。

そもそも優れた船乗りは、船のメンテナンスを怠ることはないだろう。

 

僕らは人生という旅を成功させるために、船自体に大いに投資して良いだろう。

 

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かわいい船のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや

 

瞑想すればするほど瞑想との付き合い方がうまくなる

瞑想には本当に良い特徴がある。

それは瞑想をすればするほど、瞑想自体との付き合い方がうまくなるということだ。

 

「瞑想がうまくなる」ことは当たり前だ。

だけどそれに加えて「瞑想との付き合い方」がうまくなる。

 

 

メタ瞑想

 

最初に瞑想を始めたころは、まずは瞑想すること自体への疑いや、焦りが生まれてくるかもしれない。

 

「こんな瞑想に何の意味があるんだろう(疑い)」

「瞑想を続けてるのに、全然心をコントロールできない(無能感)」

「きっと他の人はもっとうまく瞑想が出来るんだろう(比較)」

「瞑想で一刻も早く苦しさから逃れて、幸福に近づきたい(一体どれだけ努力すれば良いんだろう)」

 

などなど。

だけど瞑想を続けるうちに、次第に心に余裕が生まれてくる。

 

「瞑想に意味があろうとなかろうと、どちらでも問題ない」

「さっき、頭が雑念でいっぱいだったけど、別に大きな問題じゃない」

「時間をかけてゆっくりと、少しずつ幸福に近づいていけば良い」

 

このようにメタ的な「余裕」が生まれてくると、好循環のサイクルに入ったと言える。

 

まさに富める者はさらに富む世界だと言える。

しかもこの世界の門は、無料で誰にでも開かれている。

 

瞑想を続けている人へ

以前よりも「瞑想すること自体」への疑いが、弱まってきていないだろうか?

もしそうなら、それはとても良い傾向だ。

 

僕らは多くの場合、ほんのすこしずつ、ゆっくりと幸福に近づいてゆく。

瞑想をするということは、生涯をかけて、少しずつ人生の基礎を作っていくということだ。

 

 

瞑想と運動のどっちが良いの?

片方を選ぶ必要はない。

どちらを選んでも良い。片方でも、両方でも。お好きなように。

 

だけど例えば「どちらに統計的な効果が高いか」ということを問うのは、それほどの意味はないと思う。

どちらも科学的に、脳の働きを大きく改善してくれることが証明されている。(らしい)

 

大事なのは、どちらを自分が好きになれるかじゃないだろうか。

どちらが自分にとって親しみやすいか。どちらが「入り口」を開いてくれそうなということだ

 

瞑想で運動が好きになった

僕の個人的な感想で言うと、

瞑想を始めたおかげで、以前よりずっと運動が好きになった。

 

なぜなら、瞑想は意識をコントロールする訓練だ。

そのおかげで運動をしている時も「体を動かす心地良さに注意を向けてみよう」とか「自分に適切なレベル調整をしてみよう」とかいうことがしやすくなったのだ。

 

もし瞑想をしていなければ、運動を好きになるきっかけは掴めなかったと思う。

きっと苦しかったり、レベルを上げすぎたりで、すぐにやめてしまったことだろう。

瞑想を続けていたからこそ、僕は自分の体に「聞く」ことがうまくなって、運動との付き合い方も上手になったように思う。

 

運動が瞑想をサポートする

逆に今では運動をすることが、瞑想を大きく助けてくれている。

運動で体の調子が整っていると、瞑想でも集中しやすいし、体がとても心地良い感じになる。

 

たとえば座り続けることに飽きたら、ちょっと体を動かしたりして、瞑想にアクセントをつけることが出来るようにもなった。

心が心だけで出来ているんじゃなくて、肉体が深く影響していることも分かった。

 

人はひとつ良いものを見つけると、そのひとつの手段に頼ろうとする傾向がある。

瞑想なら瞑想だけですべてを解決したいし、運動なら運動で万能になれそうな気がする。

それも良いだろう。

 

だけど実は運動と瞑想は、とても似ている部分がある。

たとえばウルトラランナーは競技の最中に、神を見るような気持ちになったりするらしい。

入り口は違うけれど、たどり着ける場所は似ている。

 

お互いを別のものだと思わずに、同一のものだと理解する。

僕らが分け隔ててしまっているだけで、元々はひとつのものなのかもしれない。

 

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瞑想をすると筋トレが好きになる

コツは筋トレをする時に「大変さ」よりも「気持ち良さ」に意識を向けること。

 

それを繰り返すこと。

 

ただそれだけ。

とてもシンプルだ!

 

瞑想のトレーニングというのは、意識の向け方の訓練だ。

これは応用が効く。体を動かす時にも非常に役立つ。

 

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やってみよう

たとえば腕立て伏せをする時は、体には苦しい部分もあれば、気持ち良い部分もある。

 

意識は、その片方を拡大して感じ取っている。

まるでその片方が、体の感じ方の全てのような感じがしているかもしれない。

だけどこの感覚は、自分次第で変えることが出来る。

虫眼鏡の持ち方を変えるだけで良い。

 

苦しい部分は無視して、気持ち良い部分に意識を向けてみる。

体の中で1%ぐらいは見つかるかもしれない。

1%でも気持ち良い部分を見つけたら、それを大事にしてみよう。

 

僕の場合は「鍛えている部位」は苦しいけれど、「体全体の感覚」は気持ち良い感じがする。

なので「体全体の爽快感」に注意を向けることが多い。

 

感じ方を変えるトレーニング

 

回数も、一番心地良い回数で終えてみる。

強度や角度やフォームも、体が一番喜ぶようなものを心がけてみる。

 

それが無理なら、腕立て伏せをしている最中ではなく、その後に、しばらく心地良さを感じる時間を作ってみる。

筋トレの最中よりもその後に、心地良さは感じやすい。

 

腕立て伏せを、筋力のトレーニングであると共に、

「感じ方を試すトレーニング」でもあると理解してやってみる。

 

元々瞑想のトレーニングを積んでいる人は「感じ方を変える」のもやりやすいだろうし、

逆に感じ方を変えるトレーニングをすることで、間接的に瞑想のトレーニングをしていることにもなる。

 

瞑想と運動、入り口はどちらでも良い。

 

筋トレと心的イメージ

運動嫌いな人はたぶん、筋トレ=苦しいという心的イメージを持っている。

だから、体もそのイメージの通りに、無意識に苦しさを感じようとする。

 

だけどこの心的イメージを持ったままだと、筋トレは苦しいままだ。

「苦しさの先に成果がある」「歯を食いしばって頑張ろう」と思っても続かない。

マイナスのメダルを何個積み重ねても、プラスにはならない。

 

その道の先には何もない。

行くのはそっちの道じゃない。まずは方向を変えたほうが良い。

 

筋トレが好きになるか、嫌いになるかの違いは、まさに「感じ方」の違いだ。

 

筋トレが好きな人は、筋トレが気持ち良いというイメージを持っている。

筋トレが嫌いな人は、筋トレが苦しいというイメージを持っている。

そしてお互いに、その心的イメージを「体」が忠実に実現する。

 

たとえば筋トレで感じる「気持ち良さ」と「辛さ」のプラスマイナスが +1なら、筋トレは続く。

プラスマイナスが -1なら、続かない。

このちょっとした違いが、継続においては大きな「角度」の違いになる。

 

「目的のために、大変なことを我慢する」というやり方は、捨ててしまおう。

まずは感じ方を変えるトレーニングをして、筋トレをプラスにしてしまった方が早い。

金の卵の話 〜瞑想がマイナスになる?〜

瞑想のトレーニングを続けていると、

「気付いてしまうこと」

の罠に気付くかもしれない。

 

例えばついさっきまで、とても良い気分だったのに、

「良い状態だ」ということに気付いた瞬間に、状態が崩れてしまうことがあるかもしれない。

 

そんな時は、意識をコントロールして元の状態を取り戻そうとしても、なかなかうまくいかない。

 

必要なのは、まったく逆のやり方。

「なるべく状態を壊さないこと」だ。

 

 

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金の卵のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや

卵を握りつぶすな

すごく良い状態というのは、言ってみれば、

金の卵を手に持っているみたいなものだ。

 

だけどいったん自分が「金の卵を持っている」ということに気付くと、慌てて握りつぶしてしまう。

本当は「ただ持っている状態」を、なるべく壊さずに、手付かずの状態で置いておけば良い。

 

このことを理解してから、僕は自分の「良い状態」に気付いて、なおかつそれをキープ出来るようになってきた。

 

頭と体

僕らが「とても良い状態」にある時というのは、あまり頭で考えず、体全体がうまく機能しているときだ。

僕らの無意識が統合的にバランスを取っていると「とても良い状態」は現れる。

 

だけど「とても良い状態」に「思考」が気付いてしまうと、

思考は「この状態を続けなきゃ」とぐるぐると回り始める。

僕らは体を離れて、頭で状態をコントロールしようとし始める。

 

まったくフィールドが違う世界なのに、頑張って空回りしてしまう。

 

だがベストの状態は、頭ではなく体が知っている。

コツ

「頭」の世界を離れて、「体の感覚」を感じ取るトレーニングを、普段から積んでおこう。

たとえば風が肌に当たる心地良さ、地面に座っている心地良さなどを、敏感に感じ取れるようにしていくと良いだろう。