結果を出すには結果を求めてはいけない
原因と結果
たとえば、マインドフルネスで、今までに感じたことのない心地良さを感じたとする。
やった、結果が出た!
でも大事なのはそこじゃない。
たとえば、マインドフルネスで、今までにないような良い休日を過ごせたとする。
やった、結果が出た!
でも大事なのはそこじゃない。
たとえば、マインドフルネスで、今までになく人間関係が良くなったとする。
やった、結果が出た!
でも大事なのはそこじゃない。
たとえば、マインドフルネスで、今までになく仕事がうまく運んだとする。
やった、結果が出た!
でも大事なのはそこじゃない。
大事なのは目に見えた結果じゃない。
そうできた原因だ。
「今に集中する」という習慣だ。
「成果物」は確かに嬉しい。だけど、
意識を奪われるとまずい。
成果はあくまで、最後にやって来たおまけに過ぎない。
そいつは20%だ。
重要な80%は、集中する習慣だ。
コアにコミットする
僕らは結果と原因をすぐに取り違える。
ちゃんとした原因の積み重ねがあって、はじめて結果が出る。
だけど意識というものは、いったん結果が出ると、すぐにその結果にコミットしてしまう。
そしてどうにかして、結果をもっと大きくしようとする。
その時はもう、今に集中するのをやめてしまっている。
マインドフルネスのコアな部分から、道を踏み外してしまう。
そして、だんだんと結果もやせ細って行ってしまう。
最も重要なこと
そうじゃない。
大事なのはそこじゃない。
コアにコミットしよう。
「今ようやく結果が出た」と、そう感じた時に、
心を夢でさまよわせるのではなくて、今の瞬間に戻ってくるのだ。
1種類だけの大事な習慣
「重要でないこと」なんて、世界に99種類も、999種類も、9999種類もある。
だけどほんとうに重要な習慣は、たった1種類だけ。
それが、僕らの知っている「今に集中する習慣」だ。
大事なものが1種類だけなんだと、理解しておくだけで良い。
僕らは「それ」を選び続ければいい。
基本的に洗脳
僕らはだいたい洗脳されている。
存在しないものを、存在するかのように扱うことに長けている。
それが人類の特徴だ。
存在しないものの例
- お金は存在すると思う
- 国は存在すると思う
- スターバックスは存在すると思う
- 職業は存在すると思う
- 人生は存在すると思う
- 日曜日や月曜日は存在すると思う
- 西暦は存在すると思う
もしこの中で、ひとつでも否定できないものがあるなら、きっと洗脳の度合いは強い。
弊害
僕らが存在すると思い込んでいるものの分だけ、僕らは不幸になりやすい。
たとえば「お金を損した」と思えば悔しいし、
「人生が過ぎ去ってしまった」と思えば、失望だけしか感じない。
だけど、それが最初から存在しないものだと理解していれば、それによって不幸になることが出来ない。
重い荷物
存在しない物を背負い続けるのは、本当に重い。
こだわりが増えるごとに、だんだんと荷物が増えてゆく。
荷物を増やしても幸福には近づけない。
軽くすることでしか。
真実。
少しでも多くの洗脳を解くことが、幸福の地盤を作ることだ。
参考
お金は情報にすぎない
お金というのはどこにも存在しない。
情報空間の中にだけ存在する。
損した時の怒り
- たとえば、居酒屋のお会計が割高だった時。
- たとえば、Amazonマーケットプレイスで割高な品を掴まされた場合。
- たとえば、かなりのお金が入った財布を落とした時。
お金の増減によって、色々な悔しさや、思考が浮かんでくることがあるだろう。
だけどお金の増減というのは、単なる情報の移動だ。
「自分自身」は何も変わっていない。
ただ存在しないものにたいして、感情を起こす習慣があるだけだ。
情報のリアリティ
僕らは情報に対して怒ったり、悔しがったりする。
まるで自分自身の一部が得られたり、失われたかのように感じる。
むしろ僕らは、そう感じるように文化的に強化されている。
だけどそれでも、情報は情報にすぎない。
情報≠自分
多くの人が、お金という約束を守っているこの世の中では、お金があった方が生きやすいかもしれない。
だけど別にそれを、本当に自分自身の一部かのように扱う必要はない。
たとえば僕が、何らかの理由で100万円を損したとする。
それが本当に悔しくて、生涯ずっと忘れられなかったとする。
だけど、たとえば死ぬ時に、僕の貯金が100万円残っていたとしたら、結局、その100万円は何にも使わなかったことになる。あってもなくても同じことだ。
この場合、僕はただの情報に対して、一生かけて怒っていたということになる。
存在しないものに対して。
世界は音で溢れている〜苦手な音を克服するトレーニング〜
僕は音に弱い。
不快な音があると、それを脳内で10000回ぐらいリピートしてしまう。
いやそれ以上かも。
音の問題の問題
僕は音に敏感だ。
だけど本当の問題は実は、その音自体じゃなくて、音に対する耳の反応だ。
あとは、今はもう存在しない音も、頭でリピートしてしまうこと。
だけどこれを、ノーマルな瞑想で治そうとしても、僕はうまくいかなかった。
「心」に働きかけても、どうにもなかった。
音が止まってくれなかった。
だから、アプローチを変える必要があると思った。
だから、目には目を、歯には歯を。
そして、音には音を。
妄想の音、現実の音
僕が困っていたのは、頭で再生される、不快な音だ。
つまり、妄想の音。
だから僕が試したのは、トレーニングとして、現実の音をよく聴いてみること。
妄想から現実に帰ってくること。
たとえば
- 洗濯機を回す音
- シャワーを浴びる時の音
- 車が走る音
- 高架に電車が走る音
とか。
こういう音をよく聴いてみることにした。
これが良いトレーニングになりそうだ。
世界は音で溢れている
頭に不快な音が浮かんだら、すぐに、現実の音に意識を戻す。
「妄想の音」から「現実の音」に戻ってくる訓練をする。
そうすると、今まで聴こえていなかった音まで聴こえてくるようになる。
世界はこんなにも音に溢れていたんだと気付いた。
脳内の「不快な音」も、収まっていきそうだ。
マインドフルネスの難易度 ( EASY / NORMAL / HARD )
僕の実感。
マインドフルネスの難易度は、シチュエーション次第で100倍ぐらい変わる。
EASY
たとえば、
- 昨夜、よく眠った
- 朝早く起きて、シャワーを浴びた
- 好きな場所で、好きなことをしている(朝の静かなカフェで、丁度良い音量の音楽を聴いているとか)
- 悩み事が比較的少ない
マインドフルになりやすいシチュエーション。
NORMAL
EASY と HARD の中間ぐらいの時。
この時は、心がけ次第でマインドフルにも、マインドレスにも傾くことが出来る。
HARD
たとえば
- 睡眠不足
- 昨夜、仕事で嫌なことがあった
- 人間関係の悩み事がある
- 満員電車に乗っている
マインドレスになりやすいシチュエーション。
どう努力しても、マインドフルネスが1%も見つからないことだってある。
どんな難易度でもOK
- EASY な時は、マインドフルネスの感覚をよく味わう。
- NORMAL な時は、マインドレスではなくてマインドフルの方を選べるように努力する。
-
HARD な時は、マインドレスの被害を最小限に抑えれば良い。訓練の時間だと理解する。
100倍
EASY モードと HARD モードでは、難易度が100倍も違う。
だから、マインドフルネスが見つからないからといって、落ち込まなくていい。
HARDな時はトレーニングだし、EASYな時はボーナスステージみたいなものだ。
マインドフルネスとディズニーランドの話 ( もしくは経験とビギナーズラックの話 )
新しい体験や、変わった体験は、 僕らを自動的に「体験モード」にさせてくれる。
たとえば、人生ではじめてディズニーランドに行ったら、きっとすべてのものが輝いて見えるだろう。 僕らはきっと全ての時間を「体験モード」で過ごすはずだ。
だけど同じディズニーランドでも、人生で二回目に行ったら、自動的には体験モードは起こらない。
きっと「前に行ったときとは、何かが違う」と感じるだろう。
このように、実は経験の世界にもビギナーズラックはある。
( * フリー素材 )
ビギナーズラックは上達じゃない
ビギナーズラックはビギナーズラックだ。
上達じゃない。
だから再現性がない。
でも、経験を運任せにするのは、本当にもったいない。
なぜなら人生は、ぼやっとしている間に流れてゆくから。
経験する訓練
経験は、訓練によってうまくなる。
ビギナーズラックに惑わされずに、少しずつ経験の訓練をしていけば。
10は20になり、20は40になり、40は80になる。
なぜ経験が大事なのか
それは、生きるということが、経験するということそのものだから。
僕はそう思う。
あなたはどう思う?
10年ぶりに小説が読めるようになった話 〜「騎士団長殺し」 を読みながら〜
最近行きつけのブックカフェで。
少しずつ「騎士団長殺し」の前半を読んでいる。
毎回、読み終えたページに本の紐(なんて言うんだろう)を挟んで、店を去る。
そうすると次に来た日には、まだ同じページに紐が挟まれている。
だから毎回、僕は同じ本に出会う。
「また君か」と。
少し嬉しくなる。
10年ぶりの読書
小説をちゃんと読むのは10年ぶりぐらいだ
10年間はほとんど実用書を読むばかりで、小説を読む楽しみを、まったく諦めていた。
だけど、事あるごとに、この楽しみを思い出したいと感じていた。
久しぶりに小説というものを読んでみると、実用書を読むうちに自分の読解力が上がったのか、それとも村上春樹の書き方が良いのか。
ごく軽く読んでいるつもりだが、ストーリーがスッと頭に入ってくる。
こんな風にカフェでコーヒーを飲みながら、小説を読む時間があるだけで、人生はずっと幸福かもしれない、なんてことを感じたりする。
なぜ小説が読めなくなったんだろう
僕は何故10年間、小説が読めなくなっていたんだろう。 たまに本屋で小説を手にとって、2-3ページ目を通すだけで、もう満腹な気がしていた。
小説を手にとってみても、
- 「この小説を読んでも何も手に入らないし、何も残らない。」
- 「そんな時間があるなら、実用書を読んで知識を身に着けよう」
という考えに、一瞬でシフトしまう。
小説を読むことは、ただの時間の浪費のような気がしていた。
考えてみると、やはり大人になって、極めて実用的な頭に変わってしまっていたんじゃないだろうか。 子供の頃より「体験」というものを重視しなくなっていた。
損得勘定
大人になると、だいたい頭の中ではいつも、損得勘定をしている。
損になることはしたくないし、得になることならやる。
こうやって損得勘定が発達して、 「体験的なもの」に時間を使えなくなってきてしまう。
だけど今では、人生こそはまさに、体験するためにあるのだと理解するようになった。
僕らはきっと、世界を体験するために生まれてきたのだ。
今に存在するから、本質の違いが分かる
- カフェにいながら、コーヒーを味わって飲むこと
- 小説を読みながら、小説に集中すること
- 仕事をしながら、仕事に集中すること
- 人と話しながら、相手の話に集中すること
これは全て、本質的な部分で、共通しているのだと理解するようになった。
そして逆説的ではあるが、今に注意を向けるからこそ「それぞれ体験の違い」に敏感になり、クオリアの違いを味わえるようになる気がする。
まとめ
- 小説を読むということは、すごく体験的な行為だ。
- マインドフルネスのトレーニングで体験が上手になると、読書を楽しめるようになる。(かもしれないし、別の現象としてあらわれるかもしれない)