「禅を学ぶものにとっては、ほとんどの人にとってなんの価値もない雑草は、宝なのです」
「禅マインド ビギナーズ・マインド」より。
道端の雑草が美しいと感じる時
個人的な話だが、これは僕が瞑想を1年実践して、本当に体験した感覚だ。
何の比喩でもなく、精神的なたとえでもなく、本当に道端に生えている雑草を「美しい」と感じたことがある。
それは、頭で「これは美しいはず」と考えたのではなくて、穏やかな心が、美しさの本質というものに、直接触れたような感覚だった。
瞑想のトレーニングをしていて良かったと思うのは、そんな瞬間だ。
瞑想なしには、決してこんな体験は出来なかったと思う。
お金を払わない感動もある
ちなみに、こんなことを人に言ったら、ちょっと頭が変だと思われるかもしれない。
(雑草をしげしげと見つめて「美しい」なんて感じるのは、たしかに常軌を逸している)
いまの世界では、お金を払ってディズニーランドに行ったり、最新の映画を観たりした時にしか、感動してはいけないというルールになっているのだ。
だから僕らは、たとえば、映画の中で演出された月には感動するけれど、本当の世界の月には、まず目もくれない。
あるいは気付いたとしても、一瞬だけ見て、あるいはスマホで写真に撮って、足早に通り過ぎてしまう。
それが、いまの僕らの行動習慣でもある。
(なんでもない景色に感動することが、社会的承認を得ていないなんて)
だけど瞑想を実践する人にとっては、お金を払って観る映画や、時間をかけて行く旅行だけではなくて、日常のほんの些細な出来事や景色が、贅沢な娯楽に変わる瞬間がある。
まさに「ほとんどの人にとってなんの価値もない雑草」が「宝」になるのだ。
トレーニング
- たとえば空を見上げてみて、10秒だけゆっくりと、なるべくぼーっと眺めてみよう。(雑草はレベルが高いから、なるべく綺麗な景色を眺めるのが良いだろう)
- あなたの思考は「なんだ、綺麗だけど、ただの月じゃないか」と、すぐに通り過ぎようとするかもしれない。だけどその「思考の判断」のバックグラウンドに「心の体験」が存在するかどうか、探してみよう。
- 「思考の判断」と「心の体験」の違いが少しでも感じ取れたら、それをよく味わってみよう。
- すぐには、なにも分からなくても良い、だけど、何か心を引くものを見かけるたび「思考ではない心の体験」「クオリア的な体験」が起こっていないか、よく自分の心を観察してみよう。
きっとあなたも、この世界を味わうのがうまくなるはずだ。