マインドフルネスやってみた

瞑想で人生のレシピ作り

瞑想を日常の領域に広げる

フォーマルな瞑想の時間

まず最初は、1日の中で時間をとって瞑想を始めると思う。

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日常での瞑想

これを日常の領域に広げてみる。たとえばこんな風に。

  • 道を歩いているとき、足の裏の感覚に注意を向けてみる。
  • 仕事で作業をしている時、空想で気がそれたら、注意を作業に戻す。
  • 人間関係で悩みを感じた時、自分の思考や感覚を観察してみる。

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日常での瞑想の領域を広げていく

だんだんと、この領域を広げていく。 「瞑想していない時間」をなくしてゆく。

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全てが瞑想になる

だんだんと「瞑想」と「日常の瞑想」の区別がなくなり、日常を過ごしながらも、全ての時間が瞑想になる。

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Q. 何の意味がある?

  • 幸福や安らぎが、フォーマルな瞑想をしている時間だけのものではなくなる。
  • 「もっと瞑想をしたいのに、日常が邪魔をして出来ない」ということもなくなる。何故なら、全ての時間が瞑想になり、瞑想の練習になるからだ。
    • 大好きな瞑想が全ての時間で出来るなんて。
  • 結局僕たちは、日常をより良いものにするために瞑想をする。ならば、日常で直接瞑想を実践してしまうのは幸福の近道のはずだ。

Q. 難しそう?

  • 確かに、日常での瞑想は、フォーマルな瞑想より難しいと思う。
    • 誰でも経験のないことを始める時は、難しく感じるものだ。
  • フォーマルな瞑想と日常での瞑想、それぞれに「経験値」があるとイメージしてみよう。
    • フォーマルな瞑想の経験値が100でも、日常での瞑想の経験値は0かもしれない。
    • だがフォーマルな瞑想を繰り返すことによって、基礎が身につき、日常での瞑想も、かなりやりやすくなる。(なぜならあなたは、練習を積んだ戦士だからだ)
  • やりたくないならば、やらなくても良い。逆に「もっと多くの時間で瞑想をしたい」と思うなら、試してみても良い。
    • フォーマルな瞑想をひたすらに続けて、それが自然に日常に溢れ出すのを待ってみても良い。やり方は自由だ。

現在・過去・未来のイメージ

右に流れる時間

現在・過去・未来をイメージする時、あなたはどのような図を思い浮かべるだろうか? たぶん、このような感じだと思う。

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左に流れる時間

だが「時間は左から右に流れる」と、一体誰が決めたのだろうか。右から左に流れても良いはずだ。

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ピラミッド

こんな形を思い浮かべることだって出来る。

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マインドフルネス

つまり「左から右へ流れる時間」というのはただのイメージであって、時間の実体ではない。

マインドフルネスにおける時間の理解は、図にするならば、例えばこんな感じだ。

過去と未来がなくて不安になっただろうか? でも大丈夫。 現在は自然に過去に変わるし、未来は自動的にやってきて現在に変わる。

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思考と感覚と認知の違い

これは専門的な見解ではないので注意してほしい。 だが僕は今、この理解の仕方が最もしっくり来ている。

混ざり合った自分

僕達は普段「自分」というものを曖昧に理解している。

「自分」というものが形成されるにあたって、本当はいくつものプロセスが複合的に働いているのだが、これを単一の働きと捉えてしまっている。 いわば融合した状態。ぐちゃっとした状態だ。

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思考と感覚と認知

思考と感覚と認知。 心のプロセスは、この三つに分かれていると理解してみる。

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思考と感覚

思考は感覚に影響を与えている。

この逆もまたしかりだが、思考と感覚の「融合」さえ起こさなければ、感覚が思考に影響を与えることはなくなる。 お互いを出来るだけ独立させておくことが出来る。

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認知

認知はこの「思考」と「感覚」二つを観察し、見守ることが出来る。 お互いがお互いに影響を及ぼしている、そのプロセスを理解することが出来る。

認知が「思考」と「感覚」が別のものだと理解していれば、二つの「融合」を防ぐことが出来る。

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どれが本当の自分?

  • 思考を自分だと思っても良いし、感覚が自分だと思っても良いし、認知が自分だと思っても良い。
  • この三つのプロセスが複合的な働きを、自分だと思っても良い。
  • そもそも「自分がどれか」を決めなくても良い。

重要なのは、どういった認識をすれば、自分を幸福に一番近づけることが出来るか、ということだ。

参考文献

  • 幸福になりたいなら幸福になろうとしてはいけない: マインドフルネスから生まれた心理療法ACT入門

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楽しさのコアは「今への集中」にある

たとえば、映画を観ることが楽しかったとする。 だけど楽しかったのは、実は映画を観ることじゃない。 「映画を観ている今」に集中していたことだ。

たとえば、仕事をするのことが楽しかったとする。 だけど楽しかったのは、実は仕事をすることじゃない。 「仕事をしている今」に集中していたことだ。

たとえば、ブログを書くのが楽しかったとする。 だけど楽しかったのは、実はブログを書くことじゃない。 「ブログを書いている今」に集中していたことだ。

たとえば、映画を観るのがつまらなかったとする。 だけどつまらなかったのは、実は映画のせいじゃない。 「映画を観ている今」に集中できなかったせいだ。

たとえば、仕事をするのがつまらなかったとする。 だけどつまらなかったのは、実は仕事のせいじゃない。 「仕事をしている今」に集中できなかったせいだ。

たとえば、ブログを書くのがつまらなかったとする。 だけどつまらなかったのは、実はブログのせいじゃない。 「ブログを書いている今」に集中できなかったせいだ。

認識を変えてみよう

物事が中心にあるという認識

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集中が中心にあるという認識

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ACT | レベル1の受容 VS レベル2の受容

受容にはレベルが二段階ある。 (と、この記事ではそう表現する)

レベル1の受容

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対象をそのまま受容しようとする。

たとえば「休日明けの仕事(対象)」が嫌だなあ、と感じるとすれば、嫌だと思わないように、休日明けの仕事を受容するようにする。

レベル2の受容

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「休日明けの仕事」という対象があり、 「嫌だなあ」という自分の反応がある。

この「反応」の方を受容する。

思考はくるくる回るだけで危険がないもの

「自分」というのは曖昧なくくりだ。 僕たちは「思考」とか「感覚」とか「認識」というものを、一緒くたに「自分」と呼んでいる。

だが実は「自分」というのは、実は多くのプロセスが複合的に働いて形成されているものだ。

そして「思考」と「感覚」を区別することは、非常に役立つ。 なぜなら、思考と感覚は一瞬の間に、お互いに行き来をして、そのパワーが増幅されるものだからだ。

これは昔の西洋の本にかかれているような「精神と肉体は全く別のもの」という、硬直的な認識ではない。 お互いがお互いに影響するプロセスを認識しつつ、この二つを区別して理解するということだ。

たとえばネガティブなことを思考する。 それが感覚に影響を与える。 その感覚がさらに、次のネガティブな思考を生み出す。 お互いは密接に作用しあい、融合して「自分がつらい」という状態を生み出す。

僕らはこれを単に「つらい状態」だと思っているが、実は思考と感覚が増幅しあい、お互いに融合した状態なのだ。

だが実は、思考は思考に過ぎず、感覚は感覚に過ぎない。 思考には実は害はなく、感覚には悪いものはない。 これを理解していれば、思考が感覚に影響を与えた瞬間に、無限の悪循環を断ち切ることが出来る。

お互いがお互いに影響を与え合っているということは否定できない。 だがその影響レベルは、自分の「認識」によって全く違ってくるのだ。

僕たちの「認識」が、思考と感覚の二つを同一視していると、お互いの影響度はぐんと上がる。そして、融合した状態になる。 人間が考えることはだいたいネガティブなことなので、僕らはいつでも「つらい状態」になってしまう。

たとえば、こう考えてみよう。

  • 「思考は頭でくるくる回っているだけの軽いもので、まったく害はない」
  • 「思考と感覚が同時に起こると、まるで本質のように感じられるが、これは融合の結果にすぎない」
  • 「感覚は体の特定の状態にすぎない」
  • 「思考と感覚が融合さえしなければ、感覚にも害はない」

こう考えても良い。

  • ネガティブなことを考えた瞬間に、たまたま特定の感覚が起こっているだけで、ただの偶然かもしれない。
  • ネガティブなことを考えるからつらいのではなくて、ネガティブな思考と感覚を融合させてしまうから、つらい。
  • 思考と融合さえしなければ、感覚は楽しむことが出来る。

一番最初に瞑想を始めたときの期待を思い出そう

瞑想を最初に始めた時は、僕は「苦痛」を感じていた。 だから瞑想をするたびに、心が安らかになって、もっともっと瞑想をしようと思った。 瞑想をすることを止めるものは、何もない状態だった。

だけどいったん瞑想の習慣が出来て、効果も現れ、その「苦痛」がやわらいでしまうと、瞑想に以前ほどのニーズを見出せなくなっている自分がいた。 なぜならば、今現在に問題を感じないなら、なんでそれをわざわざ解決する必要があるだろう。そもそも「解決すべき問題」がない状態なのだから。(そう感じられるのが本当か嘘かはさておき)

そういえば、いくつかの本にも「瞑想をやめてしまいたくなる時期がやってくるかもしれない」と書かれていた。

だがしかし、今ここで瞑想の習慣をやめてしまったとすると、おそらくだんだんと心は不安に傾いていくだろう。 自然に「今まで通りのネガティブな状態」に戻っていくことは大いに予想される。 そしておそらく、数年後に再び瞑想を思い出して「なんでこんなに大事なことを、途中でやめてしまったんだろう」と悔やむだろう。

だから本当に大事なのは、「うまく行っている時こそ、続ける習慣」だ。 たとえばダイエットや運動でも、いったんうまくいったからといってやめてしまえば、だんだんと元に戻ってしまう。 逆にダイエットや運動を続けてさえいれば、段々と良い方向に向かうばかりだ。 だから最も大事なのは「成果」ではなくて「瞑想を続ける習慣」なんだ。

「続ける習慣」さえあれば「成果」は何らかの形で必ず手に入る。 あくまで「続ける習慣」がベースにあり、そのうえに「成果」があらわれる。 だけど得られた「成果」に甘んじて「続ける習慣」を手放すのは、収穫の季節に稲だけを刈り取って、次の年の田植えをやめてしまうようなものだ。

瞑想を「ここまでやったら終わり」と区切ってしまうのはあまりにももったいない。 瞑想という習慣を日常の一部に組み、人生の一部に組み込んでしまえば、素晴らしい成果が得られるだろう。

そう、最も大事なのは続ける習慣だ。 だけど、あまりに「続ける習慣」だけに意識がフォーカスしまうと、それが無味乾燥に思えて「面倒臭い」と考えてしまうかもしれない。 だから、それよりもっと瞑想に必要なのは「期待」や「願望」だ。

僕が一番最初に瞑想を始めた時、「もっと楽になりたい」「この落ち着かない心をどうにかしたい」という大きな期待があり、願望があった。 瞑想の習慣の先に、もっと安らかで、もっと素晴らしい心の状態が待っていると考えた。実際にそれは本当だった。

そしてマイナスがゼロになった今、これからは、瞑想によって「ゼロからプラスになれる」という期待、願望を抱いている。 マイナスをゼロにすることには終わりがあれば、そこからプラスにするのであれば、きっとどこまでも果てしなく伸ばしてゆける。 もしくは、自分が気付いていないようなマイナスを掘り出して、それをゼロやプラスになるように導いていきたい。

瞑想をやめたくなった時。 瞑想が必要ないと感じられた時。 そもそも自分がどうして瞑想を始めたのか。その期待や願望に思いを馳せてみよう。