10年ぶりに小説が読めるようになった話 〜「騎士団長殺し」 を読みながら〜

最近行きつけのブックカフェで。
少しずつ「騎士団長殺し」の前半を読んでいる。

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毎回、読み終えたページに本の紐(なんて言うんだろう)を挟んで、店を去る。
そうすると次に来た日には、まだ同じページに紐が挟まれている。

だから毎回、僕は同じ本に出会う。

「また君か」と。
少し嬉しくなる。

10年ぶりの読書

小説をちゃんと読むのは10年ぶりぐらいだ
10年間はほとんど実用書を読むばかりで、小説を読む楽しみを、まったく諦めていた。

だけど、事あるごとに、この楽しみを思い出したいと感じていた。

久しぶりに小説というものを読んでみると、実用書を読むうちに自分の読解力が上がったのか、それとも村上春樹の書き方が良いのか。
ごく軽く読んでいるつもりだが、ストーリーがスッと頭に入ってくる。

こんな風にカフェでコーヒーを飲みながら、小説を読む時間があるだけで、人生はずっと幸福かもしれない、なんてことを感じたりする。

なぜ小説が読めなくなったんだろう

僕は何故10年間、小説が読めなくなっていたんだろう。 たまに本屋で小説を手にとって、2-3ページ目を通すだけで、もう満腹な気がしていた。

小説を手にとってみても、

  • 「この小説を読んでも何も手に入らないし、何も残らない。」
  • 「そんな時間があるなら、実用書を読んで知識を身に着けよう」

という考えに、一瞬でシフトしまう。

小説を読むことは、ただの時間の浪費のような気がしていた。

考えてみると、やはり大人になって、極めて実用的な頭に変わってしまっていたんじゃないだろうか。 子供の頃より「体験」というものを重視しなくなっていた。

損得勘定

大人になると、だいたい頭の中ではいつも、損得勘定をしている。
損になることはしたくないし、得になることならやる。

こうやって損得勘定が発達して、 「体験的なもの」に時間を使えなくなってきてしまう。

だけど今では、人生こそはまさに、体験するためにあるのだと理解するようになった。

僕らはきっと、世界を体験するために生まれてきたのだ。

今に存在するから、本質の違いが分かる

  • カフェにいながら、コーヒーを味わって飲むこと
  • 小説を読みながら、小説に集中すること
  • 仕事をしながら、仕事に集中すること
  • 人と話しながら、相手の話に集中すること

これは全て、本質的な部分で、共通しているのだと理解するようになった。

そして逆説的ではあるが、今に注意を向けるからこそ「それぞれ体験の違い」に敏感になり、クオリアの違いを味わえるようになる気がする。

まとめ

  • 小説を読むということは、すごく体験的な行為だ。
  • マインドフルネスのトレーニングで体験が上手になると、読書を楽しめるようになる。(かもしれないし、別の現象としてあらわれるかもしれない)