マインドフルネスやってみた

瞑想で人生のレシピ作り

神が降りてくる技術

神は最上位の概念だ。

最上位の概念であり、もうこれ以上のものはない。

 

神を味方につけることさえできれば、僕らの瞑想はきっと最強になる。

 

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神様のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや 

神の定義

ここでいうのは、宗教的な神のことではない。

  • 心理的イメージとしての神
  • 意識のプロセスの、最上位の概念としての神

というような意味だ。

 

  • たとえば、アーティストが優れた曲を作った瞬間は「神が降りてきたようだった」と言う証言をする。
  • たとえば100冊も連続小説を書いた小説家は、完全に「登場人物が勝手に動いている」ように感じられるという。
  • 難題を問いた数学者や、優れた芸術家や、歴史に残る発明家も、「神が降りてきたような瞬間」に偉大なインスプレーションを得ている。

 

このように「神が降りてくるような状態」が最良心的イメージであることは、歴史が実証していることが分かるだろう。

 

なら、こんなに素晴らしいイメージを使わない手はないじゃないか。

なぜなら僕らは瞑想の実践者なので、心的イメージを描くことには長けているはずだ。

 

人生において、神が降りてくるのをひたすら待たなくても良い。

むしろ僕らの方から、ドアをノックして会いに行けば良いのだ。

瞑想と心的イメージ

すべての技能がそうであるのと同じように、

瞑想の世界でも、技能が上達すればするほど、技術単体の重要度よりも、心的イメージの重要度が大きくなってくる。

 

たとえばテニスの世界では、優れたプレイヤーとそうでないプレイヤーの違いは「イメージング能力」など、心理的な能力だという。

たとえば、社会的に優れたリーダーに必要なものは、優れたEQだという。

 

これは瞑想でも同じだ。

たとえば「呼吸に集中する」「心身を観察する」などの基礎が身についている状態であれば、

「安らぎ」や「愛」や「平静さ」というイメージの方が、より強力に思えてくることだろう。

心的イメージは、それぞれの単純な技能を、統合的に機能させてくれる。

 

そして、その中で最強の概念が「神」なのだ。

15分だけ見つけた神

僕は今日、心でこう唱えながら瞑想をした。

「必要なものは、神が全てをはからってくださる」と。

 

もちろん、ただこの言葉を、頭で考えただけではない。

今まで瞑想経験でつちかった「神経言語的な感覚」を元に、リアルな実感として「神が降りてくる感じ」にアクセスしようと思ったのだ。

 

普段ならば、呼吸を整えたり、心身を観察したり、自分に問いかけたり、意識的な練習をしていたところだ。

だけど今日は、そういった部分的な練習をやめて、全てを無意識に委ねてみることにした。

自分が0%になる

これは言ってみれば、自分が0%になる感覚。

意識せずとも、何の努力をせずとも、全て必要なことはおこなわれるという感覚。

 

たとえば

「体に癒やしが起こるようにイメージングする」

「観察と呼吸のバランシングをおこなう」

など、瞑想においてある程度高度で、統合的な働きさえも、無意識が全てやってくれるとイメージした。(統合の、さらに上位の統合とでも言えば良いだろうか)

 

なぜなら、神は最上位の概念なのだから、全てを任せることでうまくいくはずだ。

 

これを言い方を変えるなら、意識を司る脳が、他の脳の各部位を邪魔せずに、信頼するという感じだ。

 

この方法で、僕は今までの瞑想で到達できなかった領域まで、到達できたような気がした。

15分の間だけ、自分の中に「神」を見つけられたような気がしたんだ。

神は自分の中にいる

そうして僕が思ったのは、人類古くから、おそらく何千年も言い古されてきた事実。

「神は自分の中に存在する」ということだった。

 

そう、神はどこにでも存在する。

僕ら出来ることは、既に存在する神を「見つける」ということだ。

 

神に「気付いているか」「気付いていないか」の違いだけがある。

僕らは単に気付き、アクセスするだけで良い。

 

僕らが努力して、瞑想のプロセスを身につけるのは、

究極的には「どこにでも存在する神」にアクセスできるようになるためだと言える。

神はトレーニングで見つけられる

そして、大いなる注意。

 

マインドフルネスのトレーニングにおいては、神さえも、ただの偉大な心理的なイメージに過ぎない。

(と、僕はそう理解した方がしっくり来るので、そう理解することにした)

 

「自分の中に神を見つけること」さえも、神秘的なものではなく、訓練によって身につけられる技術なのだ。

 

なので15分間の間に、僕が神を見つけて(もしくは僕が神に見つかって)、そしてやがて神が過ぎ去っていった時にも、動揺はしなかった。

それは、単に僕自身の能力がまだ、15分だけ神を見つけられるレベルにすぎないということだからだ。

 

きっとこのままトレーニングを積めば、マインドフルネスの他の技術と同じように、神を見つける技術は上達するはずだと思った。

神 VS ブッダ VS 脳

この「最上位の概念」 にも、人によって何がマッチするかは違うと思う。

神という言葉に対して嫌悪感を感じる人は、間違いなく逆効果だろう。

 

その場合は、

  • 「脳が全てをはからってくれる」
  • ブッダが私のかわりに呼吸してくれる」
  • 「潜在意識に全てのプロセスを委ねる」

 

など、自分にとって一番フィットするイメージを選べば良いのだ。

 

ちなみに「ブッダが私の代わりに呼吸する」というのは、僕が考え出したイメージではなくて、マインドフルネスの本にも書かれているテクニックだ。

 

だけど僕は「ブッダって、人だしなあ」と思ってしまって、うまく心的イメージを描けない。

なので「神が降りてくる」というイメージを描くことにしたのだ。

(厳密にはブッダは「目覚めた人」という意味なので、特定の人物じゃないのだけど)

 

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マイドフルネス瞑想の欠点 〜受け流すだけが能じゃない〜

マインドフルネス瞑想(観察系の瞑想)では、

「物事をありのままに観察して、受け流しなさい」と言われる。

 

たしかにこれは強力なテクニックだと思う。

 

だけど「観察して、受け流す」というのも、言ってみれば「対応方法」の一種類だと言える。

 

なぜ、別に対応方法を取ってはいけないんだろうか。

なぜ、このひとつの対応方法にこだわる必要があるんだろうか。

 

この「なぜ」について、瞑想関係の本では、十分に語られていないように思う。

 

「瞑想業界」では、こんな風に、舌っ足らずなところが最大の欠点だと思う。

具体的な理由が分からなければ、応用を利かせることも出来ないだろう。

「観察して受け流す」は汎用的

僕が今日思ったのは、

「観察して受け流す」というのは、すごく汎用的なテクニックだから、重宝されているだけではないかということだ。

 

つまり、初心者に教えても、間違って使われる可能性が低い。

個人個人のニーズに完全にフィットするかどうかは分からないけれど、広く万人に適用することは出来る。

 

だけどもし、自分でメリット、デメリットをコントロールさえできれば、別に「観察して受け流す」意外の対応法を取ったって良いんじゃないだろうか。

 

たとえば心身にJOY(嬉しい感じ、心地良い感じ)が足りない場合は、それを拡大しようとしてみても良い。

たとえば人生で重要な課題がある場合は、あえて瞑想をしながら、思考にふけってみても良い。

 

瞑想じゃんけん

グーにはパーを出せば良いし、パーにはチョキを出せば良い。

自分で「適切な対応方法」を意識的に選ぶことは、可能だ。

 

それには「心身に対する観察力」という基礎力が必要になる。

だから「観察して、受け流すこと」は、基礎を作る上ではすごく重要なテクニックだ。

 

だけど、ある程度基礎力が高くなれば、僕らの心はわりと自由に動けるようになる。

なので、意識的に「今、必要なテクニック」を試してみたり、練習してみたりしても問題はないはずだ。

 

瞑想で最も重要なのは「実験」であり「科学的アプローチ」だという話を、僕は信奉する。

まとめ

  • 「観察して受け流すテクニック」は汎用的だけど、こだわり続ける必要はない。
  • 理由が語られないものは、全面的に信用せず、疑ってかかった方が良い。(だからといって、実験をやめる必要はない)

 

 

 

スキル獲得の3段階モデル 〜マインドフルネスのテクニックを無意識に委ねる〜

スキル獲得は次の3段階のプロセスを経るという。

 

1 認知(初期)段階 自分がしようとしているスキルを理解し、調査し、そのプロセスについて考え、対処できる程度のパーツに分解する

2 連合(中期)段階 スキルを練習し、環境からのフィードバックを受け取り、それにもとづき方法を修正する

3 自律(後期)段階 アタマで考えず、また必要以上に注意を払わずに、スキルを効果的かつ効率的に実践する

 

(「たいていのことは20時間で習得できる 忙しい人のための超速スキル獲得術 」より)

 

僕もマインドフルネスのトレーニングを実践しながら、この現象には、薄々気付きはじめていた。

今までに読んだ本のおかげで、ごくぼんやりとした知識はあった。だけど明確にこのモデルを意識したのは初めてだった。

 

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スキルを統合的に使う

マインドフルネスのスキルを身につけていく途中で、僕は中級者独特の課題に出くわしていた。

 

この1年ほど、様々な練習を続けてきたおかげで、マインドフルネスの部分的なスキルには、ある程度習熟してきたように思う。

だがそれぞれのスキルを一緒に動かそうとすると、それがなかなか協同的に働いてくれないのだ。

 

たとえば、

  • 今の体験に接続(集中)しようとすると、呼吸がおろそかになる。
  • 呼吸に集中すると、環境や心を観察しづらくなる。
  • 環境や心を観察すると、今の体験(集中)に接続できなくなる。

という風に。

 

各スキルのバランシングが必要であることは、肌で理解していた。

そして「ぜんぶ同時にやるにはどうすれば良いんだろう」と考えていた。

だけど、なかなかこいつが難しかった。

 

そして、今日道を歩いていた時に気付いたのは、

「頭で考えず、無意識に全てを委ねた方がうまくいきそうだ」という実感だった。

 

つまり「どういう風に意識すれば良いのか」を、頭で考える、そのアプローチ自体が間違っていたかもしれないのだ。

意識が良いのか、無意識が良いのか

冒頭に引用した例のとおりだが、

僕はまさに、このスキル獲得の3段階を経ようとしていた。

 

まず最初に、意識的な練習を続けて、部分的なスキルが上達する。

そして、それぞれのスキルが習熟して来た頃に、あまり頭で考えずに「手放して」みる。

このお互いの行為が、ペアとして有効に働くことに気付き始めていたのだ。

 

(また部分的にうまくいかないところが見つかれば、課題を作って、また意識的な練習に戻れば良いだろう。そうして全体的なクオリティを上げていくことが出来るはずだ)

バランシングされた幸福

マインドフルネスには色々なテクニックがある。

「呼吸に集中しなさい」と教える本もあれば「ただ心を観察しなさい」と教える本もある。

 

だけど総合的に「良い状態」や「成果」をもたらしてくれるのはきっと、種々のスキルが総合的に働く、バランシングされた状態なのだ。

そして、これは無意識をうまく使うことで、はじめてうまくいく。

(無意識という言葉でピンと来なければ「脳の自動的なプロセス」とか「身体の動きを信頼する」とかいう風に言い換えても良い)

 

「意識して部分的な練習をする」のと「無意識にゆだねて、バランシングする」というのは、ペアのようなもので、どちらか片方だけが優れているというものではないと思う。 

マインドフルネスは心のトレーニング

知れば知るほど、本当にマインドフルネスの上達は、他の技術的上達と似ているなと思う。

本質的には全く同じものだろう。

 

ただ、求められる心の要素(たとえば努力せずに心を手放すこと)が、他分野での熟達とは、全く違うベクトルを向いているというだけで。

上達というベクトルに関しては「マインドフルネスは心のトレーニングにすぎない」という実感を、僕は強めている。

 

僕らが幸福になるのには、神秘性も、生まれついての才能も必要ない。

ただ幸福になるための技術を、コツコツと練習して身につければ良いだけなのだ。

 

ところで、具体的な方法

「頭で考えすぎず、無意識に委ねる」ってどうやれば良いんだろう。

 

これこそなかなか、言葉で説明しづらい部分なのだけど。

説明を放り出すのは再現性がない。なので説明しよう。

 

僕の場合は、

「上司が部下の仕事に口を出さず、信頼して任せている状態」のようなものをイメージしている。

上司が意識的な脳で、部下が無意識的な脳だ。

 

(これは意識的に働く「小さな自分」と、自動的に働く「その他大勢の自分のプロセス」を区別できている必要がある。この区別にも瞑想の練習は役立つ)

 

もしくは

「最良の状態は、体が知っている」

「最適な状態は、脳が知っている」

「あとは彼らに全てを任せれば良い」

ということだけを意識して、

あとは体が思うままに、動くのに任せてみる。

 

 

もし「無意識に委ねる感じ」が分からないなら、それはまた準備が整っていないということかもしれない。逆説的に。

その場合は意識的に、部分的なテクニックを試していくのが良いんじゃないだろうか。

 

そして、もし「それぞれのテクニックを統合させたい」という気持ちが芽生えているとすれば、それはもう既に「テクニックが統合的に働いている状態」の「心的イメージ」できている証拠だ。

あとはその心的イメージを、うまく育てて、使っていけば良い話になる。

 

つまり部分的なトレーニングを数種類続けていけば、おそらく自動的に「それらが統合的に働くイメージ」が出来ていくものなのだと思う。

もちろん、この事実により意識的であれば、より早い段階で第三段階を実践することが出来るだろう。

 

 

 

 

 

 

 

瞑想とレジリエンス ( あるいは瞑想とホイミ )

瞑想のトレーニングを始めても、日々には落ち込むこともあれば、戸惑うこともあるだろう。

だけど瞑想の習慣があるということ自体が、安心につながる。

 

たとえ落ち込むようなことがあっても、必ずしもリアルタイムで対処する必要はない。

 

「あとで瞑想して、回復すればいい」「自分には瞑想があるから大丈夫」ということさえ分かっていればいい。

 

「HPを消費しても、ホイミを唱えれば良い」と思える。

ホイミを使えるのと使えないのでは、冒険の安心度はまったく違ってくる。

 

同じように現実の世界でも、瞑想で心を回復させる方法を持っているかいないかで、まったく人生の捉え方は変わってくるだろう。

 

まさに瞑想はホイミ

瞑想はレジリエンスだ。

 

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瞑想に限界はあるのか? 成長曲線と幸福度のモデルを考える

瞑想に限界はあるのだろうか。

それとも、瞑想で無限に幸福になることが出来るのだろうか。

 

あらゆる技術は、最初がぐんと伸びて、だんだんと成長曲線がゆるやかになっていくものだという。

だけどそう考えると、仮に瞑想に1万時間を費やしたとしても、コストに見合うだけの幸福は得られなさそうに思えてくる。

 

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(「サーチ・インサイド・ユアセルフ」や「ジョイ・オン・デマンド」を読むと、瞑想の達人は果てしなく幸福そうに見えるけれど)

成長曲線と幸福度(1)

成長曲線がそのまま「幸福度」と比例すると考えるのは、単純過ぎるモデルだと思う。

(そもそも、幸福というのは最も「グラフ」に描きにくい、世界で最も微妙なものだと思うけれど)

 

たとえば替わりに、こういうモデルを描くことも出来る。 

「幸福」というのは、成果だと。

 

「幸福」という成果を出すには、ある程度、技術的な習熟が必要になる。

つまり「及第点」に達する必要がある。

 

 

こう考えると、たとえ成長曲線が鈍化したとしても、時間をかけて努力することは報われるように思える。

 

 

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成長曲線と幸福度(2)

「技術的な成長曲線は、時間に比例して鈍化する」。

「だが幸福度は、gy買うに純化する」考えることも出来る。

 

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こういうグラフだって描ける。

 

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成長曲線と幸福度(3)

ところで、瞑想は単一のスキルじゃない。

心全般を扱う技術なだけに、多岐にわたるスキルがある。

 

もし幸福が「全て必要なものが揃った時に、スイッチが付くみたいに得られるもの」だとすれば、そもそも技術的な習熟度に対して、平面的なグラフを描くことは、そもそも不適切だ。

  • スキルA (たとえば呼吸に集中するスキル)
  • スキルB (たとえば心身を観察するスキル)
  • スキルC (たとえば今を体験するスキル)

 

このスキル同士の重なりが「幸福」を生む、というモデルを描くことも出来る。

 

 

 

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こう考えた場合、それぞれ必要なスキルに対して練習時間を割り振り、「円の重なりを大きくする」ことには大きな意味がある。

どんなモデルを描く? 

モデルはあくまで、世界を単純化したものだ。

なのでどんなモデルを描いても間違っているとも言えるし、ある部分は正しいとも言える。

 

だが幸福について書かれた本などを読むと、最後のモデルで示したように、

どうやら幸福は「種々の条件が揃った時に生まれる、総合的な感覚」であるように思える。

(僕自身の実感としても、これは当たっている気がする)

 

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瞑想と恋人 〜心は変えられないがアプローチは変えられる〜

僕が瞑想を始めてから、しばらく引っかかっていた謎がある。

「瞑想で心は変えられるのか」「変えられないのか」という問題だ。

 

なぜなら多くの瞑想の本に「(必要なもの)自然にやってくる」と書かれている。

だけど瞑想のアプローチこそまさに、心を変えようとするアプローチそのものだからだ。

ここに矛盾を感じていたけれど、うまく納得が出来ていなかった。

単純すぎるモデル

たとえば仮に、瞑想で心は変えられないとしよう。

それなら、なんで瞑想なんかするんだろうか。まるで意味がないと思う。

 

たとえば仮に、瞑想で心が変えられるとしよう。

それなら、なんで「心を変えようとするアプローチ」がうまくいかないんだろうか。

 

直接変化を起こそうとするアプローチは、いつも失敗に終わる。

 

たぶん「心を変えられる」「心を変えられない」という、二択でのモデルの描き方が、あまりに単純すぎるのだ。

きっと真実はその中間ぐらいにあるんじゃないだろうか。

心は恋人

たとえばここでは、心が恋人みたいなものだとしよう。

 

恋人は変えることが出来るだろうか? 出来ないだろうか?

これはある意味ではノーとも言えるし、ある意味ではイエスとも言える。

 

恋人は自分じゃない。

他人だから、直接その人を変えることは出来ない。

何か気に入らないところがあって「変えてくる」と命令しても、そう簡単に変わってくれるものじゃない。

 

だけど僕らは、自分が恋人に対して取るアプローチを変えることは出来る。

そして「恋人との関係性」を調整することは出来る。

 

そう、僕らが変えられるのは「恋人」じゃなくて「恋人に対するアプローチ」なのだ。

恋人へのプレゼント

たとえば、その恋人は白いクッキーが好きだとしよう。

 

もしあなたが恋人の好物を理解していて、「白いクッキー」をあげたら、たぶん恋人は喜んでくれるだろう。(絶対とは限らないけれど)

だけど逆に、恋人の好みを理解しておらず「黒いせんべえ」、あんまり喜んでくれないかもしれない。(絶対とは限らないけれど)

 

なので、あなたがまずするべきなのは、恋人の好みを理解すること。

そして次に、適切なプレゼントをあげるということだ。

最後に、それでも恋人が本当に喜んでくれるかどうかは、恋人次第だ。

 

もし喜んでくれなければ、次からはまたアプローチを変えれば良い。

 

たとえばその恋人とは、まだつきあい始めで、好みが分からないなら、直接聞いてみれば良い。

そうでなくても、こまめに色々なプレゼントをあげて、反応を観察すれば、だんだん何が良いプレゼントなのか分かってくるかもしれない。

 

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ホワイトデーのイラスト「彼女にプレゼント」 | かわいいフリー素材集 いらすとや

 

まとめ

  • 心は直接変えられない
  • 心に対するアプローチは変えられる
  • ひとつのアプローチで、心が喜んでくれるかどうかは、コントロールできない
  • 心を理解して、適切なアプローチを取れば、心との関係性はうまくいきやすい

たとえば人間関係と同じで、心も「コントロール出来る要素」と「コントロールできない要素」が何層かにミックスされて、お互いに影響し合っているものなのだ。

 

科学的アプローチで瞑想する 〜観察と実験のサイクル〜

瞑想は科学に似ている。

それは、どちらも「観察」「実験」のサイクルを繰り返すという部分だ。

(PCDAのサイクルを回すと言っても良い)

 

科学というものでは、100%の真実は存在しないが、より適切な仮説や、精度の高い説明は求めることが出来る。

 

残念なことに、現在ではまだ、自分の脳波を簡単に計測できる環境ではない。

だが僕らは心がけ次第で、科学的アプローチで瞑想を実践することが出来る。

人々は昔からそうやって瞑想を実践してきたわけだから。

 

(将来的にはiPhoneで、脳の周波数でも測れるようになったら良いのだけど)

 

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科学者のイラスト(男性) | かわいいフリー素材集 いらすとや

観察

瞑想で最も重要なものと言えば、観察力だ。

なぜなら、そもそも自分に起こっていることを認識しなければ、どうやってそれを理解したり、対応することが出来るだろう。

 

だが、なぜ観察力が重要なんだろう。

ただ心を見ているだけでは、自分を変えるのには何の役にも立たないのではないだろうか。

 

だが、たとえば、こういう考えてみよう。

 

観察力がゼロのバッターは、ボールがうまく見えないから、ヒットを打つことは出来ない。

観察力がゼロの剣道家は、相手の竹刀がうまく見えないから、打撃をかわすことは出来ない。

 

つまり観察力というものは、実は能力を伸ばすための、最もベースにある力なのだ。

 

 

そして、安心してほしい。

この観察力は多かれ少なかれ、誰にでも備わっている力だ。

人によって、現状での観察力が高い、低いの違いはあるだろうが、この能力は練習によってすぐに磨くことが出来る。

 

どんな技能の世界でも同じように、観察力が高まるほど、より微妙なニュアンスを判別することが出来るようになる。

(たとえば、エスキモーには数十種類の雪の呼び方があるように)

 

あとひとつ。

 

とてもお得な話として、観察にはそれ自体に、癒やしの効果がある。

つまり、僕らが心を観察して「気付く」だけで、ある程度、問題を軽くすることが出来るのだ。

不思議なことに。

実験

実験をしてみるのは、瞑想の重要なキーだ。

なぜなら心の世界では、試してみなければ分からないことばかりだから。

 

たとえばの話。

赤ん坊というものは、生まれてから、この物理世界で、本当にいろいろなことを試す。

物を叩いてみたり、かじってみたり、触ってみたりして、どんな反応が起こるのかを実験する。

そうやって段々と、この物理世界の理法則を覚えていく。

 

たとえば、この「実験」という行為をまったくしない子供がいたとしよう。

おそらくその赤ん坊はずっと、物理法則を理解することは出来ないだろう。

なぜなら、実験をしていないからだ。

 

瞑想の世界でもこれは同じだ。

 

たとえば心に対して、色々なアプローチを試してみる。

呼吸に意識を集中させたり、周りの環境を感じてみたり、心を空っぽにしようとしたりしながら、それぞれがどんな反応を起こすかを実験してみる。

たとえば日常の中でも「自然の中を歩いてみる」「目を閉じてみる」「遠くを見てみる」などの実験をしてみて、自分の心や体が、どう反応するのかを試してみる。

 

そうやって僕らは自然と、だんだんと法則性のようなものを理解していく。

 

 

ちなみに僕らは、心の世界では「ほぼ、生まれたての赤ん坊」だ。

つまり、まずは色々と試してみて、反応を、成長への近道なんだ。

 

 

仮説

観察と実験を繰り返していると、自然に仮説が生まれることだろう。

 

「今、心がダウンした感じがしたけど、実は温度変化によるものかもしれない」

「今、とても辛い感じがするけれど、実は単に眠いだけかもしれない」

「思考が頭をめぐることで、呼吸が浅くなっているみたいだ」

 

など。

 

仮説が生まれれば、物理世界においても、心理的世界においても、適切な行動が取れるようになってくる。

 

たとえば、

 

「温度変化で体の感じ方が変わっただけなのに、それを心理的なものだと錯覚して、心理的アプローチで対抗する」

「眠気でエネルギー状態が下がっているだけなのに、心のバランスを崩した自分を責める」

「呼吸が浅くなっていて苦しい時に、それを思考だけによるものだと誤解して、思考を変えようとする」

 

というような、当て外れの対応を防ぐことが出来る。

 

 たとえ、一度立てた仮説が当たっていなくても、この前段階の「観察」「実験」のプロセスを繰り返すことで、だんだんと正しい仮説が浮かぶようになってくるだろう。