瞑想でグングン上達するためのコツ
瞑想で上達するコツ。
それは「瞑想は上達するものだ」と理解しておくことだと思う。
こんなに当たり前なことが、意外と重要だったりする。
逆に言えば、この当たり前のことを理解しておけば、瞑想は少しずつ、正しい方向に進んでいくはずだ。
成長は自己予言的
成長というのには自己予言的な一面がある。
たとえば瞑想を「やればやるほど上達するものだ」と理解していると、そのとおりになる。
瞑想を「一種の気晴らしにすぎない」と理解していると、そのとおりになる。
求めよ、さらば与えられん。
一体どんな意識のマジックが隠されているんだろう。
だが人間には「自分の理解のとおりに進んでゆく」という性質が、少なからずあるようだ。
だが、成長の罠にはまるな
瞑想という分野で、これは非常に微妙な問題だ。
なぜなら瞑想は「努力しない」「求めすぎない」ことを学ぶものでもあるからだ。
努力しすぎることはそもそも瞑想にはなじまないし、
逆に努力しすぎないことは、瞑想の成長を遅らせるかもしれない。
瞑想の成長においては、絶妙なバランスが要求される。
最も良いのは、努力と非努力の絶妙なサブセットだ。
上達の具体的なコツ
まあ、そんなことを言うだけではなんだから、
ここで僕が考える、瞑想の上達のコツを書き記しておこうと思う。
上達のコツ1. 好きな瞑想をする
世の中には色々な瞑想があるけれど、自分が好きなものをやるのが良い。
なぜなら、好きなものは続きやすいし、やっていても楽しいからだ。
(音楽を聴きながら瞑想するとか、ただ呼吸に集中するとか、好きな場所で平和な気持ちにひたってみるとか、好きだと思えるものならなんでも良い)
瞑想に正解はない。
だけど「どれが好きか」を自分で決めることは出来る。
上達のコツ2. 24時間瞑想をする
座って目を閉じている時も、仕事中も、朝顔を洗っている時も、道を歩いている時も、すべてを瞑想の時間にしてみる。
そうすれば、たとえ特別に瞑想の時間を作らなくても、瞑想のトレーニングが出来る。
たとえば仕事をしながら、いつもよりもほんの1%だけ、リラックスできるように試してみたりする。
たとえば道を歩きながら、いつもよりほんの1%だけ、体の感覚を観察してみる。
こうやって全ての時間で瞑想をしていると、むしろ瞑想のトレーニングのために、日常が存在するようにさえ思えてくる。
そして、日常自体も、どんどん味わい深くなっていくのだ。
だけど、もしこれが難しそうに思えるなら、無理をしてやらなくても良い。
目を閉じて座りながら、フォーマルな瞑想から始めると良いだろう。
上達のコツ3. トレーニングと学習のバランスをとる
瞑想は自分自身で進められるものではあるけれど、たまに改めて本を読むと、思わぬ発見があったりする。
日頃から瞑想を続けていると、本を読んだ時も新鮮で、とても「腑に落ちる」感じがする。
体がスポンジになって、勢いよく水を吸い込む感覚だ。
「トレーニングを実践する」
「情報を得て、理解を深める」
この二つのプロセスを交互におこなうことで、より一層成長を速めることが出来るだろう。
瞑想マインドマップを描いてみよう ( 迷った時の瞑想の選び方 )
瞑想は、心のトレーニング全般のことだ。
たとえば、スポーツにも無数の種類があって、無数のトレーニングが作り出せるように、
瞑想も無数の種類に分けられるし、無数のトレーニングを作り出すことが出来る。
だけど、いざ瞑想のバリエーションが増えると、
「どんな時に、どんな瞑想をしたら良いのか」という、選択肢の問題を感じることがあるかもしれない。
そんな時は、マインドマップを描いてみるのはどうだろう、とふと思いついた。
瞑想マインドマップ
ということで、僕は瞑想のマインドマップを描いてみた。
これは何?
これを言葉で解説すると、
- 「JOY(心地良さ) 」「集中」「ぼーっとする」 が、それぞれ近くにある
- 「受容」「観察力」が、それぞれ近くにある
- 「思考(の整理)」「理解」「気付き」が、それぞれ近くにある
- 大きく分けて、三つ要素が「平穏さ」のベースになっている
- 平穏さのベースの上に「幸福」や「経験」が存在する
- そして、すべての要素のバックグラウンドに「呼吸」ががある
という関係になっている。
ここで描いたのは、僕なりのマインドマップだ。
あなたが描いたら、きっと、あなたなりのマインドマップが出来るかもしれない。
そして、どんなマインドマップを描いても、それは正解だと思う。
シンプルな理解
瞑想のトレーニングは無数に、それぞれが完全に独立しているわけではなく、お互いに近い場所にあったり、すべてが関係し合っている。
マインドマップを描くことで、その関係性を把握することが出来そうだ。
例えば僕にとっての瞑想は
僕は日頃から、薄々「瞑想の世界でも、たとえばひとつの要素が、他の要素の土台になっているんじゃないだろうか」と思っていた。
いざ図に描いてみると、その理解がより深まったと思う。
僕にとって瞑想とは、まず「平穏さ」という土台を作り、その上に「幸福」を築くことだ。
そして、人生をフルに経験し、他の人に対して、良い関わり合いをするということだ。
だからまずは「平穏さ」を築くために瞑想をする。
足りないものがあれば足せば良いし、余計なものがあれば取り除くように努力する。
- たとえば苦しさを感じる時は、それを受容していないと、平穏さを感じるのは難しい。だから苦しさを受容するトレーニングをする。
- たとえば、心地良さを感じていたほうが、心の平穏を感じやすいし、人に対しても自分に対しても優しくなりやすい。だから心地良さや、喜び(JOY)を感じる訓練をする。
- たとえば、いくら瞑想がうまくても、社会的な思考にどっぷりと浸かっていたら、心の平穏は手に入りにくい。だからじっと目を閉じて、自分の思考のプロセスを観察してみたり、良質な本を読んで、心に対する理解を深めたりする。
そして、いざ「平穏さ」を手に入れたら、その上に幸福や経験を築く準備をするのだ。
あらゆる物事が「平穏さ」のためにあり、そして平穏さは「幸福」のためにある。
さあ、物事は少しシンプルになった。
瞑想をすると死ぬのが怖くなくなる
瞑想を続けていると
「私は存在しない」という感覚が生まれる場合がある。
逆の言い方をすると、
「私は存在する」という感覚が、解体されて、希薄になってゆくことがある。
(こちらの方がより正確な表現だ)
実はこれは、脳科学的に見ても、真実に近いんじゃないかという理解を、僕はしている。
三段階の状態
僕は、死に対する人の状のには、三つの状態があると思う。
- 1. 死を意識していない状態 (たとえば、日々の忙しさに追われていて、考える暇もない状態)
- 2. 死を意識して、怖がる状態
- 3. 死を意識して、なおかつ、怖がらない状態
僕はこの中で、三番目が、もっとも平穏な状態だと思っている。
なぜなら、たとえ普段、僕ら死について全く考えない生活を送っていても、いつかは必ず、対面しなければいけない時期がやって来るからだ。
(親しい人の死や、ニュースや、自分自身の老齢などによって)
それならば、早めに準備をして、なるべく早めに平穏な心を作っておいたほうが良い。
いきなり死に迫られて、慌てないように。
なぜ死が恐いんだろう
なんで、死ぬのが恐いと思うんだろう。
それは、なかなか言葉では表現しきれないかもしれない。
死は「私が存在しなくなる」ことだ。
いま存在し、いままでも存在してきたものが、ある日、存在をやめてしまう。
「私」というストーリーが終わる。
ストーリーどころか、作者も読者もまるでいなくなってしまう。
暗闇の中に消えてゆくどころか、暗ささえも知覚出来なくなる。
無限に思えたものの、有限な終わり。
想像を広げるほどに、こんなに恐ろしいことはない。
(と「存在する私」は考える)
「私」を所有しない
だけど、死が恐いのは
「あるものが、失われる」と考えるからだ。
僕らというものは、
- 私の意識は、私のものだ
- 私の記憶は、私のものだ
- 私の生命は、私のものだ
- 私のストーリーは、私のものだ
という考えを、無意識に持っている。
だけど、瞑想的な世界では「そもそも何も所有していない」と理解する。
- 私の意識は、私のものではない
- 私の記憶は、私のものではない
- 私の生命は、私のものではない
- 私のストーリーは、私のものではない
「死が恐い」と思う心の裏側には、必ず「所有している」という感覚がある。
「所有している」という感覚は、
「失いたくない」という強烈な欲望を引き起こす。
逆に言えば「所有の感覚」を消すことで「死の恐怖」を消すことが出来る。
私というストーリーの終わり
たとえ「私」が死んでも、それは、
ひとつの小説が終わるように、ひとつのストーリーが終わるだけだ。
そして「私というストーリー」はそもそも「私の所有物」でさえない。
あくまでも、ストーリーが生まれる場所から、借り出されているだけのものだ。
「私」は「私というストーリー」を眺めているけれど、
いつかはこのストーリーを読み終えて、そして、返却しなけばいけない。
ストーリーというものは、誰も所有できないし、固定しておくことは出来ない。
たとえば、小説を読んでみよう
ストーリーには、終わりがある。
小説は「私というストーリー」も、多くの物語のひとつに過ぎず、いつか終わりがあるものなのだと、そう理解させてくれる。
瞑想を続けるための最強のコツ ( ジョイ・オン・デマンド )
瞑想というとストイックなイメージがある。
だけど実は、「心地良さ」や「楽しさ」が、瞑想を続けるための、最大のカギなんだ。
僕はこのことを知らずに、1年間ぐらい、大損していた。
「こんな近道があったんだ!」と思った。
だけどあなたには、そんな遠回りはしてほしくない。
だから瞑想を始めたら、真っ先に「心地良さ」とか「楽しさ」を感じるトレーニングをするのが良いと思う。
(だって「楽しむ才能」を一番最初に見つけられたら、無敵だと思わないだろうか? )
やり方
- いま、自分がが感じられる、すべての感覚の中で「もっとも心地良いもの」に意識を向ける
- 心地良さが続く限り、その状態をキープする
- 心地良さが感じられなくなったら、改めて「いま、もっとも心地良い感覚」にそれに意識を向け直す
ただ、ひたすらこれを繰り返すだけ。
「心地良さ」をうまく感じることさえ、最初は難しいかもしれないけれど、だんだんとうまくはるはずだ。
トレーニングを続けるほど、心地良さを感じる回数は多くなり、心地良さのレベルも大きくなっていく。
これは本当に「美味しいトレーニング」だ。
ターゲットはなんでも良い
心地良さを感じるターゲットは、本当になんでも良い。
たとえば、
- 呼吸の心地良さ (もしくは、呼吸の中でも特に心地よく感じる部分)
- 体の感覚 ( シャワーを浴びる時の肌の感覚とか、歩く時の足裏の感覚とか )
- 周りの環境 ( そよぐ風が心地良いとか、目に映る景色が綺麗だとか )
- 体験そのものや、クオリア ( カフェにいて本を読んでいる体験とか )
- ここに存在している感覚
特に好きな場所にいたり、好きなことをしていたり、体調が良い時は「心地良さ」を感じやすいだろう。
(あ、ちなみに瞑想は、目を閉じて座ってやらなくても良い。好きな時間に、好きな方法で意識をコントロールすることが、すべて瞑想になる )
コツはターゲットを固定しないこと
このトレーニングのコツは、心地良さを感じるターゲットを、固定しないこと。
たとえば「呼吸に心地良さを感じよう」と決めてしまったら、
呼吸が心地良く感じられない時に、心の戦いが始まってしまうと思う。
たとえば「音楽を心地よく感じよう」と決めてしまったら、
あんまり楽しくない音楽を聴いている時には、楽しさのレベルは下がってしまうだろう。
そうではなくて
「いま、自分が感じられる、すべてのものの中で、最も心地良いもの(あるいは、最もましなもの)」に注意を向けること。
いわばベスト1位を選び続けるわけだから、
必然的に、いつでも、何かしらのベストは見つかることになる。
効果
「心地良さ」を瞑想のコアに置くことで、本当に莫大なメリットがある。
- 瞑想がどんどん楽しくなって、ずっと続けたくなってくる
- 心に余裕が出来て、他のタイプの瞑想もやりやすくなる
- 心に余裕が出来て、周りに優しくなりやすくなる
- 心に葛藤が起こっても、心地良さのおかげで、持ちこたえやすくなる ( マイナスよりも大きなプラスがあればいい )
おすすめの本
瞑想は究極のリラックス方法(2)
僕は
「世界には、こんなに平和な気持ちが存在したんだ」と、うっとりした。
少し前までは疲れ果てていたのに、今は体の隅々が心地良い。
まるで生まれた時から、数十年は忘れていた「平和な気持ち」にアクセスしたみたいだった。
心の中の悩みという悩みが、ついに完全に消えみたいな、短いけれども、穏やかな瞬間だった。
これは瞑想によって、僕が深いリラクゼーション状態を体験した時の話だ。
ここまで言うと、大げさに聞こえるだろうか?
だけどそれだけ、僕がリラックスが下手な人間だったと思ってくれたら良い。
瞑想はリラックスのために役に立つ。
そしてリラックスは、瞑想のために役に立つ。
お互いはお互いに影響し合って、強力なパワーを生み出す。
これが僕の結論だ。
さらに、リラックスすればするほど、リラックスの方法は上達する。
なので瞑想を地道に続けていると、たまに「リラックスの最高記録」が塗り替えられることがある。
やってみよう
- どんな方法でも良い。自分の中の「心地良さ」に注意を向けてみよう。
- たとえばゆっくりと、穏やかに呼吸をしながら、呼吸の心地良さを意識してみよう。
- 重要なヒント。実は「心地良さ」と「心地悪さ」は体に同居している。だから、僕らがどちらを意識するかによって、どちらにピントが合うかが変わる。
- たとえば呼吸の中にも「心地良い部分」と「苦しい部分」が存在する。その中で「心地良い部分」に意識を向けると、その感覚を拡大することが出来る。
リラックスのコツ
- イメージ、想像力はすごく大事だ。「もし、自分が世界で一番リラックスしていたら」とイメージして、呼吸をしてみよう。
- イメージを描いた中で、一番うまくいった感覚を覚えておこう。一番リラックスできた時、その感覚を存分に味わってみよう。
- ただし、思考による「イメージを描いたつもり」は役に立たない。「リラックス状態を、感覚が、ありありとイメージできた時」に、リラックス状態は自然に訪れる。
- イメージにはちょっとコツがいるけれど、訓練次第でどんどんうまくなるはずだ。(改めて。「イメージしたつもり(頭で完結している)」と「イメージを描いた(ありありと想像できた)」はまるで違うので、注意だ)
なぜ瞑想が究極のリラクゼーション方法なのか
僕らのリラックス状態には、僕らの意識の状態が、大きく影響している。
実はリラックスのコツは、いかに「心地良さ」に、意識の波長を合わせられるかにかかっているのだ。
要する所ところ、僕らは「心地良さ」に意識が集中している時はリラックスできるし、
そうでない時はリラックスできない。
だから、瞑想で「意識のコントロール」がうまくなると、
僕らは「リラックス」もうまく出来るようになる。
偶然のリラックス VS 必然のリラックス
たとえば、
- ふと思いがけず、花の香りが漂ってきた時
- 久しぶりのサウナや岩盤浴でゆっくりしている時
- ゆっくりとしたカフェで、聞いたことのない、平和な音楽が流れてきた時
こんな偶然性や、珍しさがあると、僕らの心はリラックスしやすい。
それは僕らの心が、偶然「開いた状態」になるからだ。
だけど、同じリラックス効果を得ようとして、同じような環境で、同じようなことをしたとしても、まず同じようにリラックスは出来ない。
なぜなら重要なのは「意識がリラックス状態にチューニングされること」で、外部的な環境そのものではないのだ。
だが逆説的に、瞑想的なトレーニングをすることによって、外面的ではない、内部的な「平穏さ」へのアクセス権を得ることが出来る。
より多くのシチュエーション、多くの環境で、リラックス状態を得られるようになるだろう。
ストイックの罠
「瞑想はリラックスするためのものではない」
そんなことが、いくつかの瞑想の本に書かれている。
ストイックな性格の僕は、すっかりこの罠にはまってしまった。
「余計なお世話だ!」と今では思う。
いや、決して怒っているのではないけれど、ストイックな性格の僕にはやや毒だった。
たとえば
「入浴はリラックスするためのものではない」「体を洗うためのものだ」と言われたら、
僕は「放っといてくれ!」と言うだろう。
瞑想はリラックスに役立つ。
そしてリラックスは、実は瞑想の大いなる基礎になる。
おすすめの本
瞑想は究極のリラックス方法 (1)
瞑想でリラックスするのは、普通のリラクゼーション方法とは一味違う。
- リラックスを繰り返せば繰り返すほど、リラックスがうまくなる (経験値が溜まる)
- ただの偶然ではなく、1回体験したリラックス状態は再現できる (ただし、再現する訓練は必要だ)
- 心地良い呼吸をしながら、心と肉体のコントロールがうまくなる
- 日常生活でもリラックスする方法が分かってくる
- ほとんどお金をかけずにリラックスすることが出来る
こんなにたくさんのメリットがある。
これはあまりにも強力な方法なので、病みつきにならないよう注意してほしいぐらいだ。
じゃ、やってみよう
- あなたが好きな場所で、なるべく落ち着ける場所に行く (僕であれば、静かな音楽のかかった、お気に入りのカフェに行く)
- 余裕があれば、あなたが好きなものを飲む (別に飲まなくても良いけど、飲み物は心を落ち着かせる効果があるからオススメだ。最近の僕であれば、抹茶のティーラテを注文する)
- ただし、準備を整えるのに手間がかかると思うなら、どこか近い場所で始めてみよう (永遠にやらないベストよりも、何かやるベター)
- 目を閉じて、呼吸に意識を集中する。そして、呼吸の中の「心地良さ」に意識を向けてみる (もしくは、体のどこでも良いから、心地良い部分に意識を向けてみる)
- もし「心地良さ」が見つからないようなら「一番マシな部分」に注意を向けてみる
- 「心地良さ」を見つけたと思った瞬間に、それはすぐに、苦しさに変わるかもしれない、だけどゆっくりと、落ち着いて、また1から「心地良さ」を探し始める
- 「あ、いま、心地良さを見つけた」と思ったら、それをなるべく長く味わってみる
これを何度も繰り返すことで、だんだんとリラックスするのが上手になってくる。
本当だ。
トレーニングの心得
ひとつ覚えておいてほしいのは、これがトレーニングだということだ。
なので、うまくいったり、いかなかったりして当たり前だということ。
(失敗しないトレーニングなんて存在しない)
そして、たとえうまくいかなくて「こんなトレーニングは馬鹿らしい」という考えが浮かんできても、それは自然な現象だということだ。
だから、トレーニング中にたったいちどでも「心地良い部分」もしくは「一番マシな部分」を見つけられたら、それは大きな成功だと理解してほしい。
まとめ
どんな方法でも良いから、自分の中の、心地良さに意識を向けてみる。
それを何度も繰り返す。
環境はどんなものでも良いけど、なるべくあなたが好きな場所、落ち着ける環境だとやりやすいだろう。
今日よりも明日、明日よりも明後日、リラックスするのが上手になるはずだ。
基本はこれだけ。
やるかやらないかは、あなた次第。
ひとつだけ言えるのは、
これは生涯のスキルになるかもしれない。
おすすめの本
「うまい棒」は存在する? 存在しない?
僕は1年瞑想を続けている。
そしてだんだんと「自分」という意識が薄くなってきたと感じている。
これは個人的には好ましいことだ。
なぜなら「自分」というものが薄ければ薄いほど、そのぶん悩みや苦しみも減るからだ。
(自我が薄くなってきたのにも関わらず「僕にとって嬉しい」なんて、矛盾した言い方だと思うけれど)
瞑想で自我が薄まる理由
その理由は。
心が意識のプロセスを理解するたびに、自我を構成している要素の儚さを、直感的に理解して行くからだと思う。
人によっては別の現象が起こるかもしれない。
だが自分の場合は、自我の薄まりを感じた。
そして不思議なことは、自我が薄くなったからといって、喜びの感覚までも減ったわけではないということだ。
むしろ自我が薄まることで、以前よりももっと、体験に感動しやすくなり、世界の美しさに気付くようになった。
もちろん「社会的な自分」がたびたび戻ってきては「自分の存在」というものを主張し始める。
だけどその強さや回数は、以前よりもかなり減ってきたように思う。
私は存在する VS 私は存在しない
果たして私は存在するのか、存在しないのか。
どちらが真実であるかは、単に物の見方、理解の視点によるものだと思う。
「私は存在する」と考えても良いし、
「私は存在しない」と考えても良い。
どちらで考えても正解だと思う。
「私は存在する」と思う人にとって、私は存在するし、
「私は存在しない」と思う人にとっては、私は存在しない。
うまい棒は存在する VS うまい棒は存在しない
たとえば「うまい棒」を顕微鏡で細かく見ていくと、うまい棒はどこにも存在せず、ただの原子の集まりであることが分かる。
ある倍率においては。
その時、うまい棒は単なる原子の集まりに過ぎないのだろうか?
それとも、うまい棒は現実的に存在するのだろうか?
これは物の視点の話だ。
「うまい棒は存在する」と考えても良いし「うまい棒は存在しない」と考えても良い。
あるレベルでは存在すると言えるし、あるレベルでは存在しないと言える。
「私」の話も同じだろう。
科学の話
ちなみに科学においては、実は人間の「意図」というものが、我々が思うよりも儚くて、
多くの錯覚にあふれていることが証明されてきているらしい。
つまり、意識というものを顕微鏡で見ていくと、「私」なんてものはどこにもなかった、あるいはものすごく希薄なものだった、という話だ。
これもまた、物事を見る倍率の話だと思う。
もう十数年前のものだが、今日はこんな本を読んだ。
そして「意識のプロセス」「自我の成り立ち」を理解するのに、ものすごく役立つ本だと感じた。
正直、瞑想関係の本や、昔からの教えというものは圧倒的に「舌っ足らず」な部分がある。
科学的な説明の方がしっくり来る人は、瞑想の助けとして、科学系の本を読んでみても良いかもしれない。
( 脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫) )
真実はどちらでも良い
ひとつ重要な事実は、
「私が存在する」ということが真実であったとしても、
「私が存在しない」ということが真実であったとしても、
どちらにしても、僕たちは意図的な訓練によって、
心のプロセスに影響を与えられるということだ。
そして悩みや苦しみを減らし、あるいは上手に受け入れられるようになり、
世界に対する体験を深めたり、喜びを深めたりすることが出来る。
(それが「自分の意思」なのか「自分の意思だという錯覚」なのかは、重要ではないように思う)
たとえば、
「うまい棒が存在する」にしても、
「うまい棒が本当は存在しない」にしても、
どちらにしても、うまい棒を食べることは出来るし、美味いと感じることも出来るのと同じことだ。
どうせ真実はひとつなのだから。
どちらの考え方をしても良い。
それでは、良い瞑想を。