瞑想をすると死ぬのが怖くなくなる
瞑想を続けていると
「私は存在しない」という感覚が生まれる場合がある。
逆の言い方をすると、
「私は存在する」という感覚が、解体されて、希薄になってゆくことがある。
(こちらの方がより正確な表現だ)
実はこれは、脳科学的に見ても、真実に近いんじゃないかという理解を、僕はしている。
三段階の状態
僕は、死に対する人の状のには、三つの状態があると思う。
- 1. 死を意識していない状態 (たとえば、日々の忙しさに追われていて、考える暇もない状態)
- 2. 死を意識して、怖がる状態
- 3. 死を意識して、なおかつ、怖がらない状態
僕はこの中で、三番目が、もっとも平穏な状態だと思っている。
なぜなら、たとえ普段、僕ら死について全く考えない生活を送っていても、いつかは必ず、対面しなければいけない時期がやって来るからだ。
(親しい人の死や、ニュースや、自分自身の老齢などによって)
それならば、早めに準備をして、なるべく早めに平穏な心を作っておいたほうが良い。
いきなり死に迫られて、慌てないように。
なぜ死が恐いんだろう
なんで、死ぬのが恐いと思うんだろう。
それは、なかなか言葉では表現しきれないかもしれない。
死は「私が存在しなくなる」ことだ。
いま存在し、いままでも存在してきたものが、ある日、存在をやめてしまう。
「私」というストーリーが終わる。
ストーリーどころか、作者も読者もまるでいなくなってしまう。
暗闇の中に消えてゆくどころか、暗ささえも知覚出来なくなる。
無限に思えたものの、有限な終わり。
想像を広げるほどに、こんなに恐ろしいことはない。
(と「存在する私」は考える)
「私」を所有しない
だけど、死が恐いのは
「あるものが、失われる」と考えるからだ。
僕らというものは、
- 私の意識は、私のものだ
- 私の記憶は、私のものだ
- 私の生命は、私のものだ
- 私のストーリーは、私のものだ
という考えを、無意識に持っている。
だけど、瞑想的な世界では「そもそも何も所有していない」と理解する。
- 私の意識は、私のものではない
- 私の記憶は、私のものではない
- 私の生命は、私のものではない
- 私のストーリーは、私のものではない
「死が恐い」と思う心の裏側には、必ず「所有している」という感覚がある。
「所有している」という感覚は、
「失いたくない」という強烈な欲望を引き起こす。
逆に言えば「所有の感覚」を消すことで「死の恐怖」を消すことが出来る。
私というストーリーの終わり
たとえ「私」が死んでも、それは、
ひとつの小説が終わるように、ひとつのストーリーが終わるだけだ。
そして「私というストーリー」はそもそも「私の所有物」でさえない。
あくまでも、ストーリーが生まれる場所から、借り出されているだけのものだ。
「私」は「私というストーリー」を眺めているけれど、
いつかはこのストーリーを読み終えて、そして、返却しなけばいけない。
ストーリーというものは、誰も所有できないし、固定しておくことは出来ない。
たとえば、小説を読んでみよう
ストーリーには、終わりがある。
小説は「私というストーリー」も、多くの物語のひとつに過ぎず、いつか終わりがあるものなのだと、そう理解させてくれる。