メタ苦悩に対処する ( サーチ・インサイド・ユアセルフ )
「最初は分からなかったけど、本当は傷ついていたんだ」。
そう考えたことはないだろうか。 何かショッキングな出来事が起こった時、人はわりと、最初には何も感じないものだ。
- 「こんなにショッキングな出来事が起こったのに、割と平気なんだな」
- 「自分ってわりと強いもんだ」
と考えたことはないだろうか。
だけどおそらく、時間が経つにつれ、だんだんと心に影響が生まれてきた、ということがあるはずだ。
そして
- 「あれ、最初は平気なはずじゃなかっただろうか?」
- 「あれがショッキングな出来事のはずがない、だって最初は大丈夫だったから」
- 「自分の心は、こんなことでは折れるほど弱くはない」
と、自分を説得にかかるようになったという経験が。
だけど、ようやく最後には、心が抵抗できないことに気付き、自分がショックを受けていたということを認めたんじゃないだろうか。
こういった現象は恐らく、多くの人に経験があるものだと思う。
「本当は」って何?
だけどこれは正確には違うと、僕は考えている。
僕らの心がたどるプロセスは、こうではないだろうか。 「出来事の後で、心がショックを受けていたことに気付く」のではなく「出来事の後に、だんだんと心にショックを与えていく」のだ。
僕らは何か出来事が起こったとき、それをその後、何百回でも、何万回でも頭の中でリピートする場合がある。 そして、その出来事に対する「理解」や「位置づけ」をしようとする。
「ショッキングな出来事が起こったはずなのに、心は何も感じていない、どうしてだろう?」と考えること。 それ自体が既に、心に影響を与える行為なのだ。
出来事と心の違い
- 出来事がショッキングであること
- 心がショックを受けること
この二つ、実は全く別の現象であるにも関わらず、僕らの心には「出来事」の方に合わせて、心を動かそうとする働きがある。
- ショックを受けないのはおかしいんじゃないだろうか。
- 本当にショックを受けなくて良いのだろうか。
- あとでショックがじわじわとやって来るんじゃないだろうか。
- 出来事に関して、こんなにたくさん考えてしまうこと自体をやめたい。
- こんなに考えてしまう自分の心はおかしいんじゃないだろうか。
こんなことが頭をぐるぐると回り始めた時点で、心の感じ方が既に、少しずつ変わっていっているのだ。
僕らは、 「出来事の後から、実はショックを受けていたことに気付く」のではなくて、 「出来事の後で、少しずつ心に影響を与え続けたせいで、ショック状態になる」のではないかと、僕は考える。
少なくとも、頭の中でリピートする作業によって、ショックが本来の10倍にも100倍にも増幅されているのではないかと思う。 同じようなショッキングな出来事を経験したとしても、人によって立ち直り方に違いがあるのは、まさにこの心の習慣のせいだと理解している。
自動的な思考のリピート
頭の中で出来事をリピートしてしまうのは、ある意味、仕方ないことだ。 出来事自体がショッキングであればあるほど、頭はそれを「どうにか理解」しようとして、ぐるりぐるりと回り続けるはずだ。
思考で思考に対抗しようとしても無駄だ。 なぜなら出来事に対してぐるぐると思考を続けるという行為自体が、既に「出来事の理解」という罠にはまっているから。 (理解すること自体が悪いわけではない、まずいのは自動的に心を傷つけてしまうことだ)
だがこれは、僕らが心のトレーニングを積んでいない場合の話だ。
瞑想の習慣を身につけることによって、たとえ何らかの出来事が起こったとしても、自動的な思考のリピートを減らし、被害を最小限に抑えることが出来るようになるだろう。
メタ苦悩
ひとつだけ注意。 「考えてしまうこと」を「無理にやめよう」としない方が良い。
なぜなら「考えるのをやめたいのに、考えてしまう」「なぜ考えてしまうのだろう」と「考えること」が、既に「考えてしまう」の罠だからだ。
心の世界では、常にパラドックスが成り立つ。 「考えてしまうことを受け入れること」が、実は一番「考えに寄って悩まない方法」だったりする。
僕たちに必要なのはひとつの行為と、ひとつの心構えだ。
- 行為: 思考にはまり込んでいることに気付いたら、心をセンターに戻す (呼吸に意識を向けたりする)
- 心構え: 考えてしまうこと自体を受容する
ちなみに「メタ苦悩」とは
サーチ・インサイド・ユアセルフに書かれている表現のひとつ。
僕はこの言葉を気に入っている。 なぜなら心は常に、メタ的に働いているものだから。