GO WILDと瞑想の関係 ( あるいは野生とマインドフルネスの関係 )

最近僕は、瞑想とあわせて、少しばかり GO WILDを実践している。

 

  • 糖質制限。ナッツや肉や野菜を主食にすること。
  • たとえば夜は部屋を暗くする。室内でも外界の明るさを再現する。
  • 昼に短時間眠る。エネルギーのゆらぎを重視する。
  • エネルギーの回復のために歩く。歩き方を工夫するウォーキング。
  • 錆びついた体を動かす。肉体の俊敏さを取り戻すための筋力トレーニング。
  • ミニマリズム。なるべく物を持たないこと。
  • 人工的なものよりも、自然のゆらぎを楽しむ習慣。

 

これらはひとえに「野生に戻る」という一貫したコンセプトで理解できる。

とてもシンプルで、素晴らしく、そしておそらく真実に誓いであろうモデルだ。

  

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瞑想は GO WILD なのか?

ひとつ思うのは、瞑想も GO WILD の一種類なのか? という疑問だ。

確かに瞑想は、僕らが失った 野生を取り戻すための、大きな助けになる。

たとえば「肉体に対する洞察力」とか「感覚性」といったものを。

  

だけれど、それならば、瞑想は心理面に属するのだろうか、それとも肉体面に属する行為なのだろうか。

 

「心」と「肉体」がとても近いものだということは理解しているけれど、

それならば瞑想は、単に「肉体」や「感覚」を変えるだけのものなのだろうか。

 

僕はこれは半分は正解で、半分は間違えのような気がしている。

 

なぜなら人間の「愛」や「経験」といったものは、単に肉体面の現象としてだけでは、説明できないものだからだ。

肉体 VS 心理

こんにち、肉体と心理は、昔思われていたよりもずっと、別け隔てのないものだと理解されている。

でも、だからと言って、全く同一のものというわけでもない気がしている。

 

 

たとえばブッダが肉体的に優れたアスリートだったという話は聞かない。

キリストがムキムキのボディビルダーだったという説も聞いたことがない。

 

僕らの根本には、確かに野生が重要な位置を占めている。

だけど、人間として生まれてきた限りは「心理」にも大きな価値があるはずだ。

(知性や精神と呼んでも良い。ここでは同じ意味として扱う)

 

瞑想と肉体の関係

この心理と肉体の関係について、まだ僕は、うまく理解できていない。

納得のいくようなモデルを描けていない。

なんとなく「どっちも大事」とか「重要なのは、お互いのミックスインだ」とか、そういう曖昧な理解しか出来ていない。

 

たとえば、いったん体を動かしてから瞑想をすると、とてもスッキリした気分で集中できる。

この減少を考えると、肉体面が心理面に影響を与えていることは確実だ。

 

だけど同時に「瞑想は心理面のトレーニングじゃなかったの?」というような、どこかモヤっとした気持ちになる。

「それなら、体だけ動かしていれば良いんじゃない?」と少し思ってしまう。

 

瞑想とGO WILDの整合性

だが「瞑想もGO WILDの一種」だと理解した方が、少なくとも今の僕にとっては、非常に都合が良い。

なぜなら、そうすれば単一のモデルで世界を理解できるからだ。

 

お互いに独立した、しかも矛盾したモデルを描きながら、適切な方向に進むことは出来ない。

人間の脳は恐らく、そんなに器用には出来ていない。

 

二つの矛盾したモデルを描いたままだと、必ずどちらかが勝って、どちらかが負けることになる。

なので、今の僕にとって重要なのは「瞑想とGO WILDの間に、整合性を見つけること」なのだ。

瞑想は高次元の GO WILD (仮説)

いま僕が仮説として描いているモデルは、

「瞑想は高次元のGO WILDじゃないか」ということだ。

 

仮にこの世界の「意識」というものの由来が、我々の肉体よりも、もっと由来の古いものだとすれば。

瞑想は肉体面での「原始性」を越えて、意識における「原始性」へ向かうものだと理解できる。

 

肉体面での GO WILD は、僕らが肉体的に「中心」に戻るためのものだ。

そして瞑想のトレーニングも、僕らの精神が「中心」に戻るためのものだ。

(途中で肉体を媒介とするかもしれないが)

 

この両者が、どちらも「中心」に戻るためのものなのだとすれば、二つは全く矛盾していないことになる。

GO WILD とは、人間があらゆる面で「中心」に戻るためのコンセプトだ、と理解することが出来る。

 

中心って何?

これもまた、僕がほんのうっすらとしか理解できていないテーマだ。

 

  • 「中心とは何なのか」
  • 「ただ中心に戻るだけなんて、ファンタジーがなくて、退屈すぎる」
  • 「ロジックとして、自分から見ると、いつでも自分は中心にいるような気がする」
  • 「自分が中心にいるというのは錯覚で、本当の中心にたどり着いた時に、分かるものなのかもしれない」
  • 「中心に戻るというモデルの描き方は、そもそも適切なのだろうか」

 

いくつもの疑問が浮かんでくる。

 

この未解決の問題に対して、それなりの答えが出るのは、まだ先のことなのかもしれない。

 

それはまた、別の話で。

 

 

いちご大福と子供と大人

僕らは一番最初、ピカピカの苺として生まれてくる。

 

やがて、成長する。

そして、いちご大福になる。

 

大人になるということは、いちご大福になるということだ。

自然の苺よりも、もっと甘くて美味しいお菓子になる。

 

ただひとつ、大きな落とし穴がある。

それは、僕らが大人として成長する間に、最も大事なはずの「苺」自体が腐ってしまうということだ。

 

 

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いちご大福のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや )

 

ピカピカの苺を取り戻す

マインドフルネスのトレーニングは、何かを積み上げるためのものじゃない。

僕らがすっかり失っている「中心」を取り戻し、錆びついた感覚や、原始性、創造性を磨き戻すためのものなのだ。

 

積み上げるのではなく、輝ける中心を取り戻すための行為。

それがマインドフルネスの本質だと思う。

 

大人と子供

それなら、子供は完全に大人よりも優れていて、僕らはただ子供に戻るだけで良いのだろうか?

それならば、僕らが大人として成長したことには、何の意味があるのだろう。

 

ところで、子供はピカピカの苺だけれど、大福がない。

つまり大人のように豊富な経験や、社会的な役割があるわけではない。

 

だけど僕ら大人が苺の新鮮さを取り戻したら、

ピカピカの新鮮な苺が入った、美味しいイチゴ大福になることが出来る。

 

つまり、この社会の中にいながら、最も重要な「中心」を取り戻して生きること。

それには大きな意義があると思う。

 

疑問

マインドフルネスが「生まれた時の状態」を取り戻すものだということは、薄々気付いていた。(多くの本にもそう説かれている)

 

だけどそれなら、僕らは「間違って歩いてきた道」を「ただ元に戻る」だけなのだろうか。

そんな大きな疑問があった。

 

そこで思いついたのが、この例えだった。

 

仮に、たとえマインドフルネスが「間違いを正すだけのもの」だとしても、間違って歩いた道を戻るという、その行為自体に、意義や、物語としての意味があるのだと思う。

僕らはその「道なり」を知っているわけだし「どこに落とし穴があるか」も覚えているのだから。

 

 

厳密に言うと

ブッダが大人になってから、長い瞑想の後に悟りを開いたように。

ピカソが大人になってから、長い年月をかけて「子供のような絵」が描けるようになったように。

 

大人になってから、訓練によって「中心」を取り戻すということは、子供が無意識にそれをおこなうよりも、ずっと再現性が高く、レベルが深いものだと思う。

(僕の語彙も理解も足りなくて、すごく抽象的な表現になってしまうけれど)

 

それは自分の原始性や、意識というものに対して、良い付き合い方を覚えるということなのだ。きっと。

瞑想が天国だとイメージしてみる

今日、瞑想をしていたら、うとうと眠くなった。

そして30分間、眠った。

(30分のうたた寝は、体には最高らしい)

 

そして起きたら、体はふわっとした心地良い感じに包まれていた。

そしてそのふわふわした感じのまま、さらに30分の瞑想を続けた。

 

そこで僕は、天国を見つけたような気がした。

これが瞑想の専門用語で「スッカ」と呼ばれるものかもしれないと思った。

 

それまで、普段の瞑想は、僕にとって集中力を要するものだった。

呼吸に集中する。体の感覚に注意を向ける。

退屈を感じたら、また注意を戻す。

ある時は、ぐるぐると回る思考を整理する。

だけどリラックスすると、10分程で眠くなったりして、そのまま眠りにつく。

 

しかし今日は「リラックスの先にあるエリア」を見ることが出来たように思う。

 

はじめて、自転車に乗れた時の気持ち。

まだいつ倒れるか分からない。

ドキドキしながら、なるべく長い距離を走ってみようとする。

5分ぐらいは足をつかずに走れたような気がする。

 

は絶妙なタイミングで、ある程度の時間、瞑想を続けたおかげで、脳が自動的に「天国」を見つけてくれたのかもしれない。

あるいは僕が、意識的に「天国」を見つけようとしたせいなのかもしれない。

おそらくその両方が理由なのだろう。

 

だが今日僕が意識したことは、

「天国にいるみたいに、瞑想してみよう」というイメージを描いたこと。

すると、脳の中で「別のレベルの感覚」が動き出した。

どうやらふだん、僕がイメージを描いていたような「リラックスの延長線上」とは、まったく別のレベルに、天国は存在するようだ。

 

天国の扉を叩くためには、天国行きのチケットがなければいけない。

それは普通のチケットとは全く違う色をしていて、かなり違う形をしている。

たとえるなら、そんな感じ。

 

もし瞑想が天国なら、瞑想をすることは生活よりも楽しくて、いつまでだって続けたいと思うはずだ。

もし瞑想が天国なら、何度だってその天国に行きたいと思うはずだ。

 

 

要するに「楽しいことはやりたくなるし、続けたくなるし、上達する」ってこと。

 

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天国のイラスト(背景素材) | かわいいフリー素材集 いらすとや

 

 

まとめ

  • 良好なコンディションで、まとまった時間の瞑想をしてみる
  • 「もし瞑想が天国なら」というイメージを描いてみる
  • 「自転車に乗れた」と思ったら、なるべく長く、その自転車で走ってみる

 

 

 

 

人の批判に強くなるイメージの描き方

人間は社会的動物なので、基本的に「批判」や「人の意見」にはすごく弱く出来ている。

なので「批判」や「意見」の付き合い方は、かなり重要だ。

 

たとえ強靭な肉体を持つアスリートだって、人の批判には弱いかもしれない。
だからこそメンタル面を鍛えることが重要だと言われるし、心理的なクリアリングのうまい選手が優秀な成績を残すんだろう。

 

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矢印の方向

 

よく言われることは、人の批判を「個人的攻撃」だと受け止めるのは、良い習慣ではない。

こういうモデルを描いていると、心身はダメージを受けやすい。

 

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矢印がどこに向いていると理解するか。

 

「自分」ではなく、

「物事」に対して矢印が伸びていると理解すること。

これが批判に強くなるための最初の一歩だ

 

「物事」は「自分自身」ではないし、
「矢印」も「自分自身」ではない。

 

このモデルを描くことは、人の意見を冷静に受け止める上での、大前提だと思う。

 

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まあ、これこそ「頭では分かっていても難しい」という話ではあると思うのだけど。

それぐらい「人の意見」との付き合い方は、そもそも難易度が高いからなのだと思う。

 

個人のコンテキスト


もうひとつ重要なことは、

人がひとつの「物事」に対して話す時は、

それぞれ別々の道を歩いてきた人たちが、それぞれ別のコンテキストで、意見を言うということだ。

 

なので、意見や解釈が違って当たり前。
それぞれに「屈折率の違うレンズ」を、何層にも通した状態だと言えるだろう。

 

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色の違い

なので、ひとつの物事が、赤色なのか、緑色なのか、紫色なのか、と話していても、
だいたい、結論が出ることはない。



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誰かを議論で打ち負かしても、相手は納得はしないだろう。

自分の「色」を、相手に無理やり認めさせても、時間が経てば相手も、それぞれの「色」に戻っていくだけだ。

 

 

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なぜならほんの一時の他者との議論よりも、お互いの「通ってきた道」や「コンテキスト」の方が、はるかに大きくて地盤が強いのだから。

カチアkんは宝物に似ている

そして個人の価値観や意見というのは「宝物」みたいなもので、
「これだけは譲れない」っていう性質のものだ。

 

 

「俺の宝物がいちばん価値があるんだ!」
「いや、私の方が!」

と競い合っても、そもそも色が違うんだから、勝負する意味はそんなにないと思う。

 

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それよりも、お互いが「別々の色の宝物」を持っていると解釈した方が、人生はうまくいくんじゃないだろうか。

(「そんなこと分かってるよ!」と思った人はごめんなさい)

 

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世界が敵に見える現象

もう1点。

 

誰しもいちどは経験したことがあると思うけど、

人に批判されると「世界中が敵に見える現象」というのが起きやすい。

 

たとえば5人の人間から、立て続けに批判されたら、世界中の人から攻撃されているような感覚を覚えても不思議じゃない。

 

 

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自分以外の5人が全て、自分とは違う意見を持っている。

この計算で言うと、世界中の人すべてが、自分の敵であってもおかしくない。

 

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数人の意見 VS 世界中の意見


だけど実際には、たとえば地球上の70億人の中の、(日本人であれば)1億人ぐらいの国民の、100万人ぐらいの地域の中の、1万人ぐらいコミュニティの、さらに数人から意見をもらっているに過ぎない。

これはリアル社会においても、ネット社会でも言えることだ。

 

 

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僕らが接することが出来るのは、ごくごく限られた人の意見だけであって、
残りの99.999%の意見は、いわばブラックボックスの中にあると言えるだろう。

 

(「サイレントマジョリティ」という言葉もあるように「声が大きい人の意見」が、そのまま世間の意見だとは限らない)

 

 

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その内訳は、蓋を開けてみれば「自分と同意見」が圧倒的かもしれない。

 

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逆に「自分とは反対意見」が大多数かもしれない。

 

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だけど重要な事実は、僕らはこのブラックボックスの蓋を開けることは、どんなに頑張っても出来ないということだ。

70億人に意見を聞いて回るわけにはいかない。

 

なので「世間の人はどう考えるんだろう」と妄想を掻き立てることは、あまり意味がない、というのが僕の「意見」だ。 


たとえばYahoo知恵袋で「常識」について質問したって、
回答をもらえるのは「Yahoo知恵袋をよく使うユーザー数人の、ごく範囲の限られた意見」だけ。

 

それは量的にも質的にも、とても「常識」と言えるものではないし、世間一般を反映させているわけではない。

 

ロジックが味方になる時

 そして、もし仮に、多くの人が自分と反対意見だとしても、
自分自身の「論理」を持っており、その道筋が整っているなら、人の意見に揺らされずに、自信を持ちやすいだろう。

 

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人の意見を取り入れる

もし人の意見を聞いて納得した部分があれば、
それを「勝ち負け」で判断するのではなくて「今後の自分の行動」を修正すれば良い。

 

これも、人の意見を「個人攻撃」だと受け止めずに、冷静な心を保つからこそ出来る芸当だ。

 

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まとめ

最後にもう一度だけ思い出す。

人は基本的に、批判にすごく弱い。

 

なのでここで紹介したようなモデルを、頭で何度描いたとしても、
すぐに批判や意見に強くなれるわけではないかもしれない。

 

だが「適切な地図」をよりどころとして、心の持ち方を工夫することなら出来るだろう。


 

基本的なモデルを理解して、心を平静に保ち、
他の人の「コンテキスト」や「意見」に対して、愛さえ感じられる状態。

 

これは人間として、そんなに悪くないものなんじゃないかと思う。

 

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マインドフルネス、やってみよう。

心を平静に保つなら、なんと言ってもマインドフルネスのトレーニングが有効だ。

 

「社会的不安を感じている自分」「人の批判に反応している心」を観察することで、それが「世界の縮図」ではなくて「ただの自分の反応」であることに気付けるかもしれない。

 

難易度が高いだけに、課題として取り組む価値は十分にある。

 

 

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なぜ運動が続く人と、続かない人がいるのか? 〜運動が好きになるためのコツ〜

なぜ運動が続く人と、続かない人がいるんだろう?

 

それはたぶん「運動を気持ち良く感じるか」「辛いと感じるか」の違いなんだろうと、薄々思っていた。

だけど具体的に、どうやって自分が「運動への感じ方を変えられるか」は、最近まで分からなかった。

消費と回復


運動というのは、エネルギーの消費と回復を、同時におこなうものだと思う。

 

 

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なので「気持ち良さ」(回復がおこなわれている実感)に注意を向けることも出来るし、

 

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「辛さ」(エネルギーが消費されている実感)だけに注意を向けることも出来ると思う。

 

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まったく同じ運動をしているようでも、この「注意の向け方」によって、まったく違う感覚が起こる。

 

運動が心地良いと、楽しくなる。
だから「運動の心地良さに注意する癖」がつけると、継続にものすごくプラスになる。

 

これはシンプルな原理だと思う。

適切な難易度調整をしよう

もうひとつのコツは「難易度の調整」だ。
運動を楽しく感じられるかどうかは、第二に、この難易度調整のうまさにかかっていると思う。 


「この難易度なら、運動が楽しい」っていうレベルを、うまく見つける感覚。

この感覚を磨いていくと、知らず知らずにレベルを上げすぎてしまったり、下げすぎる危険を減らすことが出来る。

 

 そもそも「難易度調整」という理解がないと、
運動というものを「寝ているか」「重いバーベルを持ち上げるか」ぐらいの、二段階ぐらいにイメージしているかもしれない。

 

「やるか」「やらないか」。
「ゼロ」か「100%か」。

これだと、運動のハードルは限りなく高い。

 

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だけど実は、運動の難易度は、ものすごく細かいレベルにまで分けることが出来る。

10段階にも、100段階にも。無限の段階にも。

 

そしてこの「難易度の最適ゾーン」というのは、わりと薄い層にあると思う。

 

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だからかなり注意を払って
「このレベルが、一番心地良く感じる」
というゾーンを見つけてあげる必要がある。

 

そして、この「難易度を見つける技術」「最適ゾーンを見つける能力」も、注意すればするほど上がっていくし、同時に自己洞察力も上がっていく。

 

この「難易度調整スキル」は運動を続けるための、大きな武器だ。

 

なぜなら、いかに「運動を心地良く感じよう」と意識していても、
そもそも運動の難易度が高すぎると、オーバーヒートしてしまうから。

 

この「難易度の調整」は、注意を払っても払い過ぎということはない、重要な技術だと思う。

 

ウォーキングの難易度調整

なので運動をする時は、自分の体に聞いてみて、適切な難易度調整をしてみよう。

 

たとえばウォーキングひとつでも、ちょっとした工夫で、自由に難易度は調整できる。

 

「遅めに歩く」
「普通のスピードで歩く」
「ちょっと速めに歩く」
「速めに歩いて、なおかつ、体全体を使う」

 

とか。 

体の起動させるイメージ

他にも、最初は難易度の低い運動から初めて、体を「起動」させていく。

そして、少しずつ快適ゾーンを広げていって、運動の難易度も上げていくと、うまくいきやすい気がする。

 

 

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個人的な話

ちなみに僕の場合、10年以上、ほとんど運動をしていなかったので、
まだジョギングさえもハードルが高く感じている。

 

実を言うと、うまい歩き方さえ忘れていたような状態だ。

 

 

 

だけど最近では、歩き方を工夫できることに気付き、難易度を調整して「心地良い歩き方」を心がけている。

 

僕にとって、今までは最短距離で、なるべくエネルギーを消費せず目的地に辿りつくことが「歩くこと」の意味だった。

だけど今では、目的地付近に到着しても「もっと歩きたい」という衝動が沸くようになった。

 

そしてだんだんと、歩くだけでは物足りなくなり、階段を登るのが楽しくなってきた。

 

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だけど、いきなりここから「定期的なジョギング」などに手を出したりしない。

なぜなら、それがまだ僕にとって、最適なゾーンではないことを理解しているから。
いきなり難易度を上げたりせず、適切なゾーンの中で、調整をおこなっていく。

 

(ただ、このウォーキングの習慣だけで、期待する運動効果の50%ぐらいは満たされている気がするけど)

行動のハードルを低くする

あとは、行動のハードルも極限まで低くできるように、日常の行動に取り入れていくのが良いと思う。

 

オススメなのはなんと言っても「ウォーキング」だ。
なぜなら僕らが普段、出勤や通学などで自然におこなうことだから。

 

「歩くなんて、いつもやってるよ」と思うかもしれないけれど、
前述のとおり、歩き方を工夫するだけで、運動の難易度は自由に上げ下げ出来る。

 

この「歩き方を工夫できる」という発想だけで、かなり運動に対する世界観が変わると思う。
(少なくとも僕にとっては、大きな衝撃だった)

 

 

その他のコツ

他には

 

  • 「(自分の場合)歩く時の足裏の感覚が心地良いので、それに注意を向ける」
  • 「運動の効果は、運動中ではなく、運動後に起こると理解しておく」
  • 「運動した後、体の圧力の変化や、プラスの変化を感じてみる」
  • 「より意識的に階段を登る」

 

などなど。

 

「運動を心地良く感じる」という大きな基本が崩れない限り、自分で発見していけることはたくさんあると思う。

 

こんなことを自分で考えながら、久しぶりにこの本を読んだら、ものすごく納得できる部分が多くて、あながち自分の理解も間違っていないのだと思えた。

以前に読んだ時は「運動嫌い」だったので、ここに書いてあることが、実感として理解できなかったのだ。

 

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まとめ

 

「運動を心地良く感じる習慣」

「適切な難易度調整の方法」

 

これさえ身につけば、大きな快適さを感じながら、運動の恩恵に預かることが出来る。

まさにマジックだと思うし、このマジックを、途絶えさすことなく続けて行けるはずだ。

 

幸福感の育て方 〜最初は赤ん坊のように〜

人間のあらゆる感覚の中で、幸福感ほど繊細なものはないと覆う。

 

だけど、そもそも「幸福の本質」が「繊細で、気恥ずかしがり屋」なのだとすれば、

僕らはいつまでも「安定した、大きな幸福感」にはアクセスできないんじゃないだろうか。

 

もし幸福の本質が繊細なら、不幸に対しての武器にはならない。

「最高の環境」で「最小の幸福感」だけを得られても、環境の変化に弱くては、再現性がない。

 

僕もたまに「あ、これが幸福感だ」というものを見つけるけど、

それはあまりに微妙なもので、すぐに消えてしまう。

 

なんだか幸福というものは「すごく脆弱なもの」「安定度の低いもの」のように思える。

 

 

 

 

 

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これには二段階の理解をすることが出来ると思う。

幸福感は、見つけたばかりの頃は「赤ん坊」みたいなもの。

 

生まれたての赤ん坊は、とても繊細で、弱い。

だから、僕らが守って、育ててあげなければいけない。

 

だけどすくすくと育てば、強くなるし、多少のことではビクともしなくなる。

 

 

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順調に育てていけば、やがては太陽のように、強いエネルギーを持った、安定した幸福感を得られるようになるかもしれない。

 

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この理解では

「最初は、繊細で弱いもの」

「育てて、大きく出来るもの」

ということが両立する。

 

大事なキーワードは「育てる」だ。

 

これは幸福感に限らず、あらゆる心の要素に言えることだと思う。

 

「自分が育てたい能力」があるとして、それは最初は、赤ん坊みたいに繊細なものだ。

ほとんど見つからなかったり、すごく小さいエネルギーに思える。

何度も見つけるなんて不可能だとさえ思えるかもしれない。

 

だけどそのエネルギーは、今後もずっと同じ状態にとどまるとは限らない。

より安定度の高い、アクセスしやすいものに変わる可能性があるのだ。

 

なので、幸福感などのエネルギーがいかに「繊細で微妙なもの」に思えても、

それを「脆弱さ」だと理解せずに、何度でも集中して、アクセスを繰り返すのが良いと思う。

 

なぜなら、たとえどんなに繊細な感覚でも、何度も顔を合わせて、通り道が出来るほどに、会いにいける回数は増えるはずだからだ。

 

 

 

コンビニ瞑想のススメ

コンビニで、マインドフルネスのトレーニングが出来る。

 

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問題

僕はコンビニが苦手だ。

レジの前に立つのが嫌いだ。

 

店員さんが無作法な態度だと、わりと気分が悪くなる。

逆に愛想の良い店員さんが相手だと、なんだか眩しくて、気恥ずかしくなる。

 

だけど最近は、これをトレーニングのチャンスにしている。

やってみよう

コンビニのレジに立つ時、店員さんの幸福を祈る。

「この人が幸福でありますように」とひそかに祈りながらお会計をする。

 

ただ、これだけ。

 

「幸福」という言葉がピンとこないなら、

「この人にラッキーがありますように」とか、

「この人の1日が平和でありますように」とか、なんでも良いと思う。

 

この瞑想をすると、レジに立つ時の緊張が減るだけでなく、相手の表情もよく見えてくる気がする。

他者を、より「物」目線から、「人」目線で見られるようになると思う。

 

ところで、変な客にならないように、見つめすぎてはいけない。

態度を変えず、気取られないように、ひそかに幸福を願うのだ。

(でも祈りがうまくいけば、「なんだか幸せそうな雰囲気」は相手に伝わってしまうかもしれない)

 

リプレイスの法則

「緊張」に対して抵抗するのではなく、

「緊張」を「祈り」に置き換えてしまう。

 

これはあらゆる場面で有効に使える。

 

僕の場合、たとえどんな人と接するときでも

「緊張を抑えよう」と思うのではなく

「この人に幸福がありますように」と祈ることが、

一番、緊張感を減らせる方法みたいだ。

疑問

誰に言われたわけでもないのに、僕はこんな思考が浮かんできた。

 

「見知らぬ他人に祈るぐらいなら、家族や友達に祈ったほうが良いんじゃないか」

「家族にもうまく祈れないのに、なんで見知らぬ他人に対して祈るのか」

 

その理由は、こうだ。

 

ひとつは、今目の前にいない家族友達に祈るよりも、目の前にいる人に祈りを向けることには、意味があること。

 

もうひとつは、実は家族友人よりも、見知らぬ他人に対して祈る方が、難易度は低いということだ。

なぜなら家族友人との関係性は「より込み入った事情」があったりするから。

「近い関係」ほど、祈りは難しかったりする。

 

だけど、難易度の低い場面で成功するということは、難易度の高い場面でも、成功する可能性があるということだ。

なので僕は、コンビニの店員さんに祈りながら、家族友人に対しての、祈りの種を植えていることにもなる。