体は頭より100倍賢い

たとえば瞑想中に

「手放していく」

という言葉を、心の中で唱えてみる。

そして、体の反応を確かめてみる。

 

次に

「付け足していく」

という言葉を、心の中で唱えてみる。

そして、体の反応を確かめてみる。

 

すると、自分自身に起こる反応がまったく違うことが分かる。

 

理論的に考えると、言葉なんて、根本的には文字の羅列にすぎないはずなのだけれど、何度試してみても、本当に反応が変わるから不思議だ。

おそらく今まで人生の中で、膨大なイメージがその「言葉」に蓄積されていて、自然に脳が反応するのだろう。

 

これは本当に不思議な現象に思える。

脳の裏側で、どんなプロセスが働いているのか、頭で考えても全容が全く分からないし、腑に落ちない。

だけど体は現実に、言葉に応じた反応を見せる。

 

頭で理解できなくても

僕らは例えば「言葉が肉体に与える影響」や「脳科学的なプロセス」の全てを、頭で理解できるわけじゃない。

 

だけど体に起きていることは現実だ。

いくら頭で考えて理解できなくても、実際に起きていることが真実だ。

 

もちろん、心や体に起こるプロセスを、頭で明確に理解できていた方が重宝するだろう。

だけど「頭での理解」にはそもそも、限界があると考えたい。

 

瞑想をしながら「頭では理解できない現象」に出会っても、

理解できないからといって否定したり、全てを理解しようとしたりせず、「自分」よりももっと賢い「体」に判断を委ねても良いのかなと思う。

 

大勢の科学者が技術の粋を集めても、まだ解明できない部分が多いのが、人間の脳や体の仕組みなのだから。

 

 

 

 

 

幸福になりたいなら科学的な本を読みなさい

今まで科学というものは「人間理解」に関して、ほとんどエネルギーを割いて来なかった。

だから現状、僕らの人間理解は浅く、エラーだらけだと考えて間違いない。

 

世の中に広く行き渡っている常識は有害であり、僕らの幸福を邪魔している。

 

科学の世界では、急速に「人間理解」に対しての扉が開かれている。

今まで文明がものすごい勢いで間違ってきた方向に対して、すごいスピードでの修正が進んでいるようだ。

 

そして今までの常識を覆すような本が、数多く出版され始めている。

 

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人間理解の過渡期

 

今の時代は、ちょうど過渡期なのではないかと思う。

より正しい人間理解は、少しずつ世間に浸透していくことだろう。

 

だけどそのスピードはものすごく遅いかもしれない。

いちど広まってしまった常識というものは、かなり根強いものだからだ。

 

僕らの人生の時間は待っていてはくれない。

20年、30年後に真実に気付くよりも、いま気付いた方が良いに決まっている。

 

今のタイミングで情報収集をして、人間の本質について理解しておくことは、非常に意味のあることだと思う。

 

間違った地図

大前提。

 

  1. 僕らは間違った地図を持っている。
  2. 僕らは自分たちが、間違った地図を持っていることに気付いていない。
  3. 僕らは、間違った地図によって引き起こされている弊害を理解していない。

 

 

新しい地図を持った時にはじめて「古い地図が間違っていたこと」に気付くものだ。 

 

たとえば知性に関して。

「頭が良い人間と、頭が悪い人間の二種類がいる」という理解をしていると、他人も自分も、そのどちらかに分類することになる。

多岐多様に渡る知性のタイプを、一辺倒に無視することになるだろう。

これでは自分たちの知性をうまく活かすことは出来ない。

 

たとえばエネルギーに関して。

「休憩を取らずにひたすら頑張る方が生産性が高い」という理解をしていると、疲労のスパイラルに陥って、結局は大きな赤字を背負うことになる。

仕事自体も過酷になるし、成果も挙げづらくなるだろう。

 

勉強は投資

こういった勉強は、理解するのは一瞬だ。

だけどいったん正しい地図さえ持ってしまえば、生涯に渡って、人生の問題を軽くすることになる。

 

勉強はなるべく早いうちにした方が良い。

勉強は人生に対する投資だ。

 

 

幸福感は皮膚感覚の中に

瞑想をしていると、とても心地良い幸福感がやってくる時がある。

自分から積極的に、幸福感を感じ取ることも出来る。

 

だけど「注意を向ける位置」が間違っていると、なかなかうまくいきづらいみたいだ。

 

たとえば僕の場合「胸のあたり」に注意を向けると、幸福感を得ることが出来ないみたいだ。

胸のあたりには、何か苦しい感覚がある。

 

「心」というと、どうしても「胸のあたり」をイメージしてしまっていたのだけれど。

そもそも「心が胸のあたりにある」「自分は胸のあたりにいる」という無意識の感覚が、良い瞑想の邪魔をしていたみたいだ。

 

だけど最近、どうやら幸福感というのは、別の部分から生まれているらしいということを感じていた。

そしてその正体が「皮膚感覚」じゃないかということに気付いた。

 

それまで僕はきっと、皮膚に感覚があるということさえ忘れていた。

安心感

この話は、あくまで僕個人の感想なのだけど、わりと真実を突いてる部分もあるんじゃないかと思う。

 

たとえば

「母親の胎内にいたときの安心感」

「猫が親猫に毛づくろいされるような、あたたかい感じ」

岩盤浴をしているときの、リラックスした感じ」

 

幸福感や、安心感というのは、実はいつも『皮膚感覚」の近くになかっただろうか。 

 

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軽さ

これは瞑想で大事な「軽さ」とも関係しているように思う。

 

たとえば「体の中心のあたり」に注意を向けると、自分というものが重く感じられる。

だけど「体の表面」に注意を向けると、とても軽やかに感じられてくる。

 

皮膚というものはとても薄くて、とても軽い。

だから皮膚に注意を向けてみると、自分自身も軽く感じられるみたいだ。

 

GO WILD 

僕らがほとんど忘れてしまった、数々の原始的な感覚。

その中でかなり重要な部分を占めるのが「皮膚感覚」なんじゃないだろうか。

 

 

 

心ここにあらず = 体ここにあらず

「心」を「今現在」に持ってこようとしても、なかなか難しい。

なぜなら「心」自体が何なのかよく分からない。曖昧だからだ。

 

「心」ではなくて「体」を「今現在」に取り戻すことの方が簡単だ。

たとえば風がそよいでいる感覚、歩きながら足裏に感じる感覚など、心地良いものに注意を向けるだけで良い。

 

瞑想のトレーニングを続けていると「心と体は同一のもの」という確信が、どんどん深まっていく。

「心ここにあらず」というのは、すなわち「体ここにあらず」だ。

そして扉は、だいたい僕らが想像する「心」のようなものではなくて、もっと身近な「体」にある。

 

だから僕は、自分の心がさまよっていると気付いた時には、

まずは「肌の感覚」に注意を向けることに決めている。

 

これがなかなか、うまくいくみたいだ。

 

 

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準備運動のイラスト(脚) | かわいいフリー素材集 いらすとや

瞑想の指導者がそれぞれバラバラなことを言う理由

瞑想の指導者も人間だ。

他の人の体を借りて瞑想するということは出来ないし、他の人の人生を体験することも出来ない。

 

瞑想を実践するのは「自分の体」であり「自分の心」でしかない。

だから必然的に、その教えも個人の色を強く反映することになる。かなりのばらつきが生まれても当然だ。 

 

だからたとえば瞑想関係の本で、指導者が「絶対にこうしなさい」と書いていても、あまり気にする必要はないと思う。

指導者であるにも関わらず、いや、指導者だからこそ「自分の体験」という罠にはまりこんでいるかもしれないのだから。

 

「平均的な人間」は存在しない。

 

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科学によって瞑想のベールが剥がされたとはいえ、それぞれ個人にとって何が最適な瞑想なのかという測定は難しい。

 

だから瞑想のやり方は、自分が気に入る方法でやろう。

料理の味付けを、自分で決めて良いのと同じように。

 

「最も優れたものは、自分の体が知っている」

最高の瞑想場所はお寺じゃなくて自室

環境によると思うが、特に一人暮らしの人なんかにとっては、自宅は最高の環境になるかもしれない。

 

重要なのは、

 

  • 集中しやすい場所であること(静かであったり、適度な室温であったり、人によって条件は違うと思う)
  • 気軽に、繰り返しトレーニング出来ること

の二点だ。

 

座禅や瞑想というと一般的には「お寺でしてるんですか?」というイメージみたいだ。

だけど、いくらお寺が集中するのに向いているからといって、毎日お寺に出かけていくわけには行かない。

住職の息子でもない限りは。

 

瞑想で大事なのは「繰り返しトレーニングすること」だ。

自室はそれにはうってつけだ。

もしくは、集中できるお気に入りの場所を見つけるのが良いだろう。

 

瞑想はトレーニングなので、習慣的に練習時間を取る方が良いに決まっている。 

 

たとえば、スタジオ練習だけで上手くなるバンドがいるだろうか。

試合に出たときにだけバットを振る野球選手がいるだろうか。

フルマラソンの時以外は走らないランナーがいるだろうか。

 

瞑想もまた、練習がすべての世界だと言える。

 

 

瞑想は航海術、肉体は船

残念ながら瞑想は、食事のかわりにはならない。

残念ながら瞑想は、睡眠のかわりにはならない。

残念ながら瞑想は、運動のかわりにはならない。

 

瞑想で出来ることは、瞑想で出来ることの全てだ。

その他のものではない。

 

瞑想にはエネルギーが必要だ。

エネルギーがなくては瞑想は出来ない。

そのエネルギー源は肉体にある。

だから睡眠や食事や運動は、瞑想のためのエネルギーを供給してくれる。

 

僕らが乗っているのは肉体的資源という船だ。

僕らは船に乗りながら、その上で心の舵を取っている。

そして瞑想は、船の舵をとるトレーニングだと思う。

航海術だ。

 

船がなくては海を進むことは出来ないし、航海術がなければ、目的の場所にはたどり着けない。

 

だからたとえば

「瞑想と運動、どちらが良いの?」

と聞くのは、

「船と航海術、どちらが偉いの?」

と聞くみたいなもんだ。

 

どちらが偉いも、優れているわけでもない。

僕らは海を進んでいるのだから、船も航海術も両方が必要だ。

 

食事への投資、睡眠への投資、運動への投資は全て、瞑想の味方だ。

優れた航海士はオンボロの船でも海を渡れるかもしれないけれど、どうせならピカピカの船の方が良い。

そもそも優れた船乗りは、船のメンテナンスを怠ることはないだろう。

 

僕らは人生という旅を成功させるために、船自体に大いに投資して良いだろう。

 

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かわいい船のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや