マインドフルネスやってみた

瞑想と人生のレシピ作り

世界を理解する方法 ( 70億分の1の幸福感 )

僕は最近、世界をこう理解しつつある。

 

「自分の存在は、地球人口70億分の1の実験体だ」

「人類や生命は全て、幸福を探すための壮大な実験に参加している」

 

個人的に、この世界観は多くの問題を解決してくれそうだ。

信念の奥深いところにある「存在の否定」を消してくれそうな気がする。

 

この世界観によると、生きることはまったく罪ではない。無駄骨でもない。

なぜなら、僕らは実験に参加しているのだから、すべての実験結果は無駄にはならず、すべてがプラスのために使われる。

 

もちろん比喩ではあるのだが、そもそも僕ら生命が生まれた理由なんて、誰も知らないのだから、その理解の方法は自由だ。

僕には今、この理解が一番腑に落ちている。

 

ところで数は全く問題ではない。

「地球上」の「人間」という単位で見ることも、特に根拠はない。

(70億と書いたのは、単に最初にこの表現が浮かんできたからだ)

 

たとえこれが、80億だろうと90億だろうと、遠く地球の星のものであろうと、生命というものが続く限り、この実験は続いていく。

そんなイメージを描いている。

実験の特徴

「実験」というものの特徴はなんだろう。

 

それは、

 

  • ひとつの経験、結果が次の実験に活かされる
  • 1個が全体に寄与し、全体が1個に寄与する
  • すべてが記録されている
  • 実験そのものがエキサイティング

 

というようなことだと思う。

 

じゃあこう理解することの、一体何が良いのか?

それはマインドフルネスの観点から言うと、まさに「今を生きること」に価値があると、信念のレベルでそう思えることだ。

 

枝葉のレベルでは「いまを生きている」ようであっても、もしどっぷりとその幸福を楽しめないとしたら、それは信念のレベルで何らかのブロックが働いているのかもしれない。

 

 

問題は何だ?

 

僕は問題を感じていた。

常に、ことあるごとに、幸福をブロックしにくるものがある。

何回でも、何百回でも、何万回でもそいつがやってきて「幸福なんかに意味はない」と囁く。

 

世界や、自分の存在に対する、根本的な信念。否定的な価値観。

根の深いところに、大きな問題が横たわっている。

 

たとえ僕が今日、幸福を感じたとしても、それは消えてしまう。

幸福感はどこにもアップロードできないし、ソーシャルサービスにも載せられない。

そんなものの、一体どこに意味があるのか?

誰も見ていないのに、どこにもアクセスできないのに。

 

たとえこの人生で、どんなに上手な生き方を覚えても、どんなに勉強をして幸福に近づいても、

いずれは僕というものは死んで、なくなってしまう。

それならば、そんなものに一体、何の意味があるのか?

 

こうやって、虚無について考えるのが僕の無意識の習慣であり、信念だった。

 

幸福感はアクセスする

だけどマインドフルネスのトレーニングを続けていて思うのは、

自分が幸福感を感じている時には、何らかのエネルギーに「アクセスしている感じ」がするということだ。

 

たとえネットにつながっていなくても、友達と一緒に居なくても、ひとりきりでも、とびきり豊かなネットワークに「アクセスしている感じ」がある。

宗教的に言うならば「神とつながっている」感じとでも言うのだろうか。

脳が豊富な情報量を受け取って、シナプスがつながっていくかんじとでも言うのだろうか。

 

頭で考える VS 実感を感じる

 

つまり、幸福感を感じることには、重要な意味がある。

身体レベルで「意味」を感じるもの。それが幸福感だ。

 

だけど、頭で考える限り、幸福感はやがて消えてしまうものだから「意味はない」ことになる。

頭だけで考えて、幸福感に意味を見出すことは、とても難しいことだ。

(なぜなら、幸福について頭で考えるという行為は、肝心の幸福感を消してしまう作用がある)

 

思考と実感に整合性がない。矛盾している。

矛盾している状態は、右足と左足が逆方向に進むみたいで、歩きづらい。

幸福にとってはマイナスになる。

 

そして、この思考と実感に整合性が取れること。

「腑に落ちる」ということが、世界に対する信念を変えるということだ。

 

言語野は解決したい

そして、僕の言語野は考えた。

 

もし自分の感じる幸福感というものが、どこかに「アップロード」されているのだとしたら?

自分が経験しているすべてが、何らかのサーバーに送られているのだとしたら?

 

仮に、もしそうなのだとしたら、自分が経験するすべて、幸福感を感じる経験すべてが、無駄ではなく、価値を持っていることになる。

たとえ僕の命が尽きたとしても、その幸福感や、経験のクオリアは、永久にどこかの場所に保存されて、役立つことになる。

 

たとえばコーヒーを飲む時、温かさをうっとりと味わう、美しい体験。

たとえばひんやりとした部屋の中で、ただ静寂を味わっている時の、心地良さ。

たとえば家族のことを思ったり、人生について考えている時の、なんとも言えない質感。

 

そういった経験のすべてが、やがて自我の中で消えるだけではなく、僕らの見えない場所にシェアされる。

そういう説明。

これは幸福を感じている時の「身体感覚」とも、まったく矛盾しない説明だ。

 

僕の思考が生み出した、矛盾のない、整合性の取れた理解。

それが「生命は実験である」という世界観だ。

 

 

おさらい

何が起こったのか。この話のエッセンスは何だろう。

ここではおそらく、次のようなプロセスが辿られた。

  • 実感が変わる
  • 思考と実感が矛盾を起こす
  • 実感が勝ち、思考が変わる
  • 思考と実感の整合性が取れる

 

いちど分離して、そのあとに融合が起こっているのが分かる。

この場合でいうと、二つが矛盾した時に、思考ではなく実感が勝った例だと言えるだろう。

 

(多くの場合は古くからの思考が勝ち、信念の書き換えがおこなわれない場合も多いはずだ。なぜなら、変わりにくいものこそが「信念」なのだから)