「自分は一人」「自分は二人」 どっちが正解? (人間理解と幸福の関係)
真実は「自分は二人いる」だ。
だけど世間では「自分は一人だ」という信仰は根強い。
僕も気がづけば「自分は一人だ」という理解に基づいた考えをしてしまっていたりする。
だけど自分は二人いる。
いや、実際には二人だけではなく、もっと多くの働きがひしめきあっている。
何もこれは、二重人格の話じゃない。
脳の作りの話だ。
たとえば前頭葉。つまり人間的な脳。
たとえば大脳。つまり動物的な脳。
この二種類だけで、二人の自分が存在することになる。
「自分は一人だ」という間違った世界観は、人間理解の大きなボトルネックになると思う。
たとえば「自分は一人だ」という前提に立つと、
「自分の心に問いかける」とか、「自分に優しくする」という行動は成り立たない。
そもそも「客観視」という言葉自体も成り立たない。
そして、僕らは「自分へのご褒美」だなんて言ったりする。
「何々と思っている自分に気づいた」なんて表現をしたしする。
つまり、ある部分では「自分が二人以上いる」ということを認めているのだ。
おそらくコンテキストによって、
「自分は一人」と
「自分は二人」という人間感が
無意識にスイッチングしているのだろう。
それぐらい、僕らの人間理解というものはグレーゾーンにある。
世界の理解
「自分は複数人いる」という前提に立って世界を理解すると、いったい何が良いのか。
それは「自分に対しての関係性」というものを認識できるようになることだ。
マインドフルネスの世界では、自分を他人のように扱うことは重要だ。
(というよりも、トレーニングを続けるうちに、自然にそういう感覚になってくるはず)
たとえば「自分」というものを、プログラムにおけるモジュールのようなものだと考える。
そうすれば、幸福に近づくには、このモジュールを適切に入れ替えれば良い話になる。
たとえば「自分」に湧き上がった思考は、どこかから自動的にやって来たものだと考える。
そうすれば「自分の思考」がどんなものであれ、それを外部化することが出来て、悩むことがなくなる。
「自分は複数いる」という理解に基づいた方が、自分というものに関するあらゆる話が分かりやすく、通りやすくなる気がする。
思考習慣
とは言っても、やはり「自分は一人」だと理解する習慣は根強い。
無意識に「自分は一人」という理解をしていた自分に気付くことも多い。
たとえば「自分に対して優しくする」ということを考えてみる。
目を閉じて「自分の頭をなでてやる」感覚を感じてみる。
そうしてみると、初めて「自分というものに対して、どれだけ厳しく接していたか」ということが理解できる。
目から鱗が落ちたようだった。
「自分への関係性」は、空気のようなもので、まるで目に見えなかった。
こうやって初めて「自分に対して、自分が関係していること」に、身体レベルで気付いた経験があった。
それまでは、無意識に「自分は一人だ」と思い込んでいたせいで、大きな盲点があったのだ。
目が覚めてはじめて分かることもある。
だからこそ、人生の幸福のためには、正しい人間理解が必要なのだ。