「生きることに意味はあるのか?」という評価から自由になる
僕には、つい意味を問いかけてしまう癖がある。
たとえば、
「瞑想をして幸福になることに、意味はあるのか?」
「読書をして勉強をすることに、意味はあるのか?」
「そもそも生きることに意味はあるのか?」
とか。
こういった疑いが、ほぼ瞬時に流れてきて、せっかくの幸福感を消してしまう。
生きることの充実感や、暖かさ、質感を体から奪ってしまう。
さっきまでここにあったものが、今はもうない。
そうやって頭で考える時は、マインドフルネスの灯は消えている。
心の灯が消えた状態で何を探しても、暖かさはどこにも見つからない。
言ってみれば、当たり前の話だ。
(だけど、この事実に気付くのにも時間がかかった)
今日気付いたことは、
「何の意味があるのか?」と頭で考えることは、
「評価」の一種類じゃないかということだ。
僕は今までマインドフルネスを実践して、自分や人に対して評価を下す回数はグンと減ったように思う。
(もしくは評価に踊らされなくなったと思う)
だけど思わぬところに「評価」は潜んでいるみたいだ。
自分自身という人間に対しては評価を下さずとも、自分の「行為」や「目的」に対して、すぐ懐疑的になってしまう癖がある。
それは、ひとつの行為が「良いことなのか」「悪いことなのか」「価値があるのか」「ないのか」ということを、絶えず頭の中で、頻繁に評価し続けているからじゃないだろうかと思った。
ところで僕はそもそも、これを評価だと理解していなかった。
評価だと理解していなかったから、避け方が分からなかった。
いわば「信念」のようなものだと思っていた。
いや、それも当たっている。
おそらくこの場合、何度も何度も無意識に繰り返される「評価」が、信念と言えるまでに成長していた。
そして、その大本にあるのが「評価」だということさえ分からなくなっていた。
隠されていたのだと思う。
またひとつ見つけた。
おそらく世の中では、あらゆる種類の評価が、あらゆる種類の不都合を生み出している。
たとえば、本当にやりたいことがあっても、評価や、そしてその集合体と言える信念が、無意識に、自分の行動をブロックしてしまうことがある。
この心理的なブロッキングは、意識の様々な場面でおこなわれている。
評価の苦しみから逃れるためには、まずはそもそも自分が「評価をおこなっていること」に気づかなければいけない。
自分の行動がブロックされてしまう場面を見つけたら「この根本にあるのは、評価ではないか?」と疑ってみるのが良いかもしれない。