僕の休日の過ごし方 〜マインドフルなスケジュール〜
たとえばこんな感じ。
- フォーマルな瞑想をする (集中力のトレーニング)
- 歯を磨いたり、顔を洗ったりする瞑想をする (「準備を整えている」ことに幸福を感じる)
- 風呂に入る瞑想をする (シャワーの温かさや、体を洗う時の心地良さを感じる)
- ブログを書く瞑想をする (ノートPCの)
- 家を出て歩く瞑想をする (歩いていることに集中する)
- 綺麗な景色を探しに行って、自然と戯れる瞑想をする (自然で脳を癒す)
- カフェに行って、くつろぐ瞑想をする (人のざわめきの中で「アウェアネス」や、落ち着きを感じようとしてみる)
- 一杯のコーヒーを飲みながら、幸福感を感じる瞑想をする ( カフェインを摂らないようにデカフェを注文する )
- そのままカフェで読書の瞑想をする (「カフェという空間の中で、読書している自分」を意識する)
- 街で買い物に出かける瞑想をする (偶有性に任せて、新しいものとの出会いを探す)
- 家に帰って昼寝の瞑想をする (全身の体の感覚、心地良さに意識を向ける)
- 目覚めたらもういちど、フォーマルな瞑想をする
- 音楽をかけながら、脳の創造的な部分を働かせる瞑想をする
- 夜は友人と飲みに行って、人と接する瞑想のトレーニングをする
こうやって、脳の様々な領域を働かせていくのが良いんじゃないかと感じている。
え、全てに「瞑想」って名前をつけているだけだって?
そうかもしれない!
だけど、言葉というラベルは「意図」をふんだんに含んでおり、名前の付け方ひとつで、僕らの行動はまるで変わってしまう場合もある。
日常の様々な行動に対して「瞑想」とうラベルを付けてあげると、不思議とすべてがトレーニングとして働き始めるみたいだ。
今回の話では、それをさらに一歩進めて、むしろ瞑想のトレーニングを基準として、休日のスケジュールを組み立てている。
じゃあ、日常をただ過ごすのと、瞑想のトレーニングだと思って過ごすのでは、一体何が違うんだろう?
意図=瞑想
そもそも瞑想というのは、意図を生み出すことだ。
「ジョイ・オン・デマンド」でも、良い意図を生み出すことが、瞑想のファーストステップだと紹介している。
僕らの脳は、いったんターゲットをセットすると、あとは自動的に目標を探し求めるように出来ている。
つまり「瞑想のトレーニングをしよう」という意図だけで、トレーニングの半分は達成されているのと同然だ。
今に集中できる
僕らはだいたい、今に集中していない。
たとえば行動Aをしていても、行動Bのことを100回は思い浮かべる。
今後の計画Cや計画Dのことも頻繁に考えている。
これは瞑想のトレーニングにはならない。
逆に、行動Aをしている時は行動Aに集中するということが、トレーニングになる。
行動Aも行動Bも、タイプの違う瞑想のトレーニングだと理解することで、 すべてがプラスになる。
「無駄な行動」はないし「つなぎの行動」もない。
「行動Aより行動Bが良い」という序列もなくなる。
なぜなら重要なのは、脳の色々な領域を働かせるために、色々なタイプのトレーニングをすることだから。
こうすれば「今していること」を完全に肯定できる。
行動基準が変わる
瞑想を基準に日常を組み立てることで、より日常を楽しみやすくなる。
瞑想は日常にも取り入れることが出来る。
だけどいわゆる「いつでも集中」のトレーニングは、あくまでも日常を過ごしながら、それを「瞑想的なマインド」で取り扱う方法だ。
この考え方だと、日常がメインで、瞑想はあくまでも付随物にすぎない。
だけどこの立場を逆転させて、あくまでも瞑想のトレーニングを基準にしてみると、日常の過ごし方自体が変わる。
「瞑想のトレーニングに最適なのは何か?」という基準で、日々の行動を選ぶようになる。
ピークに敏感になる
たとえばカフェで過ごす瞑想をしていて、
「あ、いま幸福感のピークが終わったな」と思ったら、カフェを出ることが出来る。
そして次のタイプの瞑想をしてみれば良い。
僕らが思っているよりもずっと「ピークタイム」というのは短い。
たった5分間でも幸福を感じられるし、その質が高ければ、時間は短くても問題ない。
逆に5分前までは存在した幸福感を求めて、同じ場所にしがみついていても仕方がない。
「カフェで過ごすことこそが幸福なんだ」
「読書することこそが究極の過ごし方だ」
なんていう風に過ごし方を固定してしまって、実はまるで楽しめていないのに、同じ行動を続けることがなくなる。
つまり瞑想を行動基準にすることで、日常の過ごし方がぐんとうまくなる。
本質に気付く
たとえばブログを書いている時でも、
実は、大事なのはブログを書くこと自体ではなくて、
「ブログを書くという行為を楽しむこと」だと気付きやすくなる。
ブログを書きながら、キーボードを叩く音を楽しみ、マインドフルネスを楽しむこと。
これが本質。
マインドフルネスの習慣、瞑想のトレーニングを価値基準の中心に置くことで、逆説的に日常の行為の「エッセンス」を取り出すのがうまくなり、よりその味を楽しめるようになる。
ところで、マインドフルネスにも色々な味がある
仮に マインドフルネスの本質は一種類だとしても、その味わいには色々なものがある。
たとえばコーヒーという飲み物は一種類でも、アメリカンからエスプレッソまで、様々な飲み方があるように。