無為に耐える瞑想
2017年末は、箕面まで歩きに行った。
途中の道が封鎖されており、滝までは行けなかった。
そこでベンチに座りながら、1時間ほどを過ごした。
目的地にたどり着くまでの、とても中途半端な場所。
ここは、まったく心地良い空間ではない。
目の前に自然はあるけれど、どっぷりとその美しさにひたれる場所でもない。
なんとなく落ち着かない、
決して居心地が良いようには作られていない。
瞑想をしていなければ、その無為さに我慢ならなくなりそうな場所。
そこで僕は呼吸の数を1から数えて、自分の心の働きを見つめた。
目は閉じなかったし、座禅も組まなかったけれど。
最初は周りの静けさや、川の音に耳を澄ましていると、
だけど時間が経つと、それも心地良い刺激だとは感じられなくなってきた。
そして「無為」が、より明確に顔を出してきた。
僕らは普段あまりにも、エンターテインメントや刺激に慣れすぎている。
だから自然に触れ合うことが、時には必要だ。
だけど考えてみたい。
確かに自然の中を歩くことは、街中の刺激よりもおごそかではあるけれど、それでも刺激であることに変わりはない。
人が楽しむために作られた自然とは、そんなものだ。
だけどこの場所には、ほとんど何もない。
「何もないシンプルな部屋」よりも、何もない。
ただ大きな無為がある。
きっと僕らは普段、無為さと向き合うことなんて、ほとんどない。
全てのものに意味があり、そして、意味を見つけずにはいられないからだ。