瞑想家は無がお好き
最近、感じていたこと。
自分には、生きることに対して、根本的な部分でのNO(否定)が存在する。
だから、生きることに対して積極的になれない。
人生に対して、なにかひとつの物事を進めよう思っても、根本的な部分でモチベーションが持てない。
たとえば仕事で成果を上げることや、勉強して成長することや、人間関係を作ることに対しても。
「どうせ良くやっても、最後には死ぬんでしょ?」と考えてしまう。
とっさに、それもほとんど無意識に、体が反応していることに気付く。
たとえば自分を幸福にするチャンスがあっても、「自分が幸福になって良いんだろうか?」という根本的な疑問が横たわっている。
これはたぶん、ずっと昔からの癖だと思う。
瞑想をすることで、以前よりもはっきりと、このNOが見えるようになってきた。
だから、このNOをどうにかYESに変えたいと思っていた。
無を見つけた時
だけど今日さらに、改めて気付いたことがある。
僕は「無」がとても好きだ。
瞑想しながら無のことを考えると、とても心が落ち着くことに。
人は生まれて、いずれは無に返る。
その途中でどんなものを勝ち得ても、最後には手放さなければいけない。
無は僕らがいずれは辿り着く場所。
だから、無は究極にシンプルな状態だ。
無のことを考えていると、物事をプラスにするための、複雑な手順なんかとは無関係でいられる。
このことに気付くまで、自分が無が好きだとは思わなかった。
無は、瞑想のトレーニングをして、頑張ってたどり着くものだと思っていた。
だけどどうやら僕の場合、生きることには積極的になれなくても、無に対しては「積極的」になれるようだ。
これは瞑想をする時に、大きな武器になると思った。
なぜなら自分の「好き」を理解している状態だからだ。
瞑想の世界では、自分や世界に対しての否定さえも、必ずしも悪いものじゃない。
コインの裏表みたいに、マイナスがプラスにも変わる。
そんなことを思った日だった。
ところで
僕はシンプルなものが好きだ。
断捨離も好きで、部屋には物がとても少ない。
こういった部分でも「無」に対しての好みが出てくるのかもしれない。
追記: 無はホームグラウンド
無を愛することが出来て、はじめて有も愛することが出来るような気がした。
今まで僕の心にあったのは、無に対する嫌悪感だったのかもしれない。
無とは家。ホームグラウンドみたいなものだ。
たとえば旅行をする時も、帰る家があるからこそ、旅を楽しむことが出来る。
そんな感覚だ。
人生はひとときの旅であり、僕らはやがて家にかえる。
だけど旅も家も、どちらも悪いものではない。愛すべきものなのだと。