幸福感は皮膚感覚の中に
瞑想をしていると、とても心地良い幸福感がやってくる時がある。
自分から積極的に、幸福感を感じ取ることも出来る。
だけど「注意を向ける位置」が間違っていると、なかなかうまくいきづらいみたいだ。
たとえば僕の場合「胸のあたり」に注意を向けると、幸福感を得ることが出来ないみたいだ。
胸のあたりには、何か苦しい感覚がある。
「心」というと、どうしても「胸のあたり」をイメージしてしまっていたのだけれど。
そもそも「心が胸のあたりにある」「自分は胸のあたりにいる」という無意識の感覚が、良い瞑想の邪魔をしていたみたいだ。
だけど最近、どうやら幸福感というのは、別の部分から生まれているらしいということを感じていた。
そしてその正体が「皮膚感覚」じゃないかということに気付いた。
それまで僕はきっと、皮膚に感覚があるということさえ忘れていた。
安心感
この話は、あくまで僕個人の感想なのだけど、わりと真実を突いてる部分もあるんじゃないかと思う。
たとえば
「母親の胎内にいたときの安心感」
「猫が親猫に毛づくろいされるような、あたたかい感じ」
「岩盤浴をしているときの、リラックスした感じ」
幸福感や、安心感というのは、実はいつも『皮膚感覚」の近くになかっただろうか。
軽さ
これは瞑想で大事な「軽さ」とも関係しているように思う。
たとえば「体の中心のあたり」に注意を向けると、自分というものが重く感じられる。
だけど「体の表面」に注意を向けると、とても軽やかに感じられてくる。
皮膚というものはとても薄くて、とても軽い。
だから皮膚に注意を向けてみると、自分自身も軽く感じられるみたいだ。
GO WILD
僕らがほとんど忘れてしまった、数々の原始的な感覚。
その中でかなり重要な部分を占めるのが「皮膚感覚」なんじゃないだろうか。