瞑想は体で感じるもの
瞑想を続けるほど、体の重要性が分かってくる気がする。
たとえば「今の瞬間に存在する」を実践しようとするとき、
いちばん大事なのは、自分の体の存在に気付くことだ。
たとえば座っている時の、重力の感覚。
手と手を結んだときに生まれる、集中力のようなもの。
肌で感じる風や、気温の違い、心地よい部分に気付くこと。
自分の体に気付くのは「今の瞬間に存在する」こと。本質そのものだ。
最初、瞑想というと「心に働きかけるもの」というイメージを持っていたが、むしろ逆だ。
心や思考というものがいかに体をベースにしているかということに、段々と気付いていく。
そして、だんだんと「首なし」の状態から「体がある」状態を取り戻していく。
体に神秘は宿っている。
ただ厳密に言うと、これは単に「体」ではないのかもしれない。
ただ「体」というイメージが最もふさわしいように感じるので、この言葉を使っているだけで。
本当は、心や体というものを分ける必要さえないのかもしれない。
あるひとつのエネルギーがあり、感覚があって、それを人は「心だ」「いや体だ」と呼ぶのだけど、これは究極的には、どっちか分からないし、分かる必要もないものなのかもしれない。
名前のつけられないもの。
強いて言えば「エネルギー」とか「知覚」とかいう言葉が近いだろうか。