GO WILDと瞑想の関係 ( あるいは野生とマインドフルネスの関係 )

最近僕は、瞑想とあわせて、少しばかり GO WILDを実践している。

 

  • 糖質制限。ナッツや肉や野菜を主食にすること。
  • たとえば夜は部屋を暗くする。室内でも外界の明るさを再現する。
  • 昼に短時間眠る。エネルギーのゆらぎを重視する。
  • エネルギーの回復のために歩く。歩き方を工夫するウォーキング。
  • 錆びついた体を動かす。肉体の俊敏さを取り戻すための筋力トレーニング。
  • ミニマリズム。なるべく物を持たないこと。
  • 人工的なものよりも、自然のゆらぎを楽しむ習慣。

 

これらはひとえに「野生に戻る」という一貫したコンセプトで理解できる。

とてもシンプルで、素晴らしく、そしておそらく真実に誓いであろうモデルだ。

  

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瞑想は GO WILD なのか?

ひとつ思うのは、瞑想も GO WILD の一種類なのか? という疑問だ。

確かに瞑想は、僕らが失った 野生を取り戻すための、大きな助けになる。

たとえば「肉体に対する洞察力」とか「感覚性」といったものを。

  

だけれど、それならば、瞑想は心理面に属するのだろうか、それとも肉体面に属する行為なのだろうか。

 

「心」と「肉体」がとても近いものだということは理解しているけれど、

それならば瞑想は、単に「肉体」や「感覚」を変えるだけのものなのだろうか。

 

僕はこれは半分は正解で、半分は間違えのような気がしている。

 

なぜなら人間の「愛」や「経験」といったものは、単に肉体面の現象としてだけでは、説明できないものだからだ。

肉体 VS 心理

こんにち、肉体と心理は、昔思われていたよりもずっと、別け隔てのないものだと理解されている。

でも、だからと言って、全く同一のものというわけでもない気がしている。

 

 

たとえばブッダが肉体的に優れたアスリートだったという話は聞かない。

キリストがムキムキのボディビルダーだったという説も聞いたことがない。

 

僕らの根本には、確かに野生が重要な位置を占めている。

だけど、人間として生まれてきた限りは「心理」にも大きな価値があるはずだ。

(知性や精神と呼んでも良い。ここでは同じ意味として扱う)

 

瞑想と肉体の関係

この心理と肉体の関係について、まだ僕は、うまく理解できていない。

納得のいくようなモデルを描けていない。

なんとなく「どっちも大事」とか「重要なのは、お互いのミックスインだ」とか、そういう曖昧な理解しか出来ていない。

 

たとえば、いったん体を動かしてから瞑想をすると、とてもスッキリした気分で集中できる。

この減少を考えると、肉体面が心理面に影響を与えていることは確実だ。

 

だけど同時に「瞑想は心理面のトレーニングじゃなかったの?」というような、どこかモヤっとした気持ちになる。

「それなら、体だけ動かしていれば良いんじゃない?」と少し思ってしまう。

 

瞑想とGO WILDの整合性

だが「瞑想もGO WILDの一種」だと理解した方が、少なくとも今の僕にとっては、非常に都合が良い。

なぜなら、そうすれば単一のモデルで世界を理解できるからだ。

 

お互いに独立した、しかも矛盾したモデルを描きながら、適切な方向に進むことは出来ない。

人間の脳は恐らく、そんなに器用には出来ていない。

 

二つの矛盾したモデルを描いたままだと、必ずどちらかが勝って、どちらかが負けることになる。

なので、今の僕にとって重要なのは「瞑想とGO WILDの間に、整合性を見つけること」なのだ。

瞑想は高次元の GO WILD (仮説)

いま僕が仮説として描いているモデルは、

「瞑想は高次元のGO WILDじゃないか」ということだ。

 

仮にこの世界の「意識」というものの由来が、我々の肉体よりも、もっと由来の古いものだとすれば。

瞑想は肉体面での「原始性」を越えて、意識における「原始性」へ向かうものだと理解できる。

 

肉体面での GO WILD は、僕らが肉体的に「中心」に戻るためのものだ。

そして瞑想のトレーニングも、僕らの精神が「中心」に戻るためのものだ。

(途中で肉体を媒介とするかもしれないが)

 

この両者が、どちらも「中心」に戻るためのものなのだとすれば、二つは全く矛盾していないことになる。

GO WILD とは、人間があらゆる面で「中心」に戻るためのコンセプトだ、と理解することが出来る。

 

中心って何?

これもまた、僕がほんのうっすらとしか理解できていないテーマだ。

 

  • 「中心とは何なのか」
  • 「ただ中心に戻るだけなんて、ファンタジーがなくて、退屈すぎる」
  • 「ロジックとして、自分から見ると、いつでも自分は中心にいるような気がする」
  • 「自分が中心にいるというのは錯覚で、本当の中心にたどり着いた時に、分かるものなのかもしれない」
  • 「中心に戻るというモデルの描き方は、そもそも適切なのだろうか」

 

いくつもの疑問が浮かんでくる。

 

この未解決の問題に対して、それなりの答えが出るのは、まだ先のことなのかもしれない。

 

それはまた、別の話で。