瞑想に限界はあるのか? 成長曲線と幸福度のモデルを考える
瞑想に限界はあるのだろうか。
それとも、瞑想で無限に幸福になることが出来るのだろうか。
あらゆる技術は、最初がぐんと伸びて、だんだんと成長曲線がゆるやかになっていくものだという。
だけどそう考えると、仮に瞑想に1万時間を費やしたとしても、コストに見合うだけの幸福は得られなさそうに思えてくる。
(「サーチ・インサイド・ユアセルフ」や「ジョイ・オン・デマンド」を読むと、瞑想の達人は果てしなく幸福そうに見えるけれど)
成長曲線と幸福度(1)
成長曲線がそのまま「幸福度」と比例すると考えるのは、単純過ぎるモデルだと思う。
(そもそも、幸福というのは最も「グラフ」に描きにくい、世界で最も微妙なものだと思うけれど)
たとえば替わりに、こういうモデルを描くことも出来る。
「幸福」というのは、成果だと。
「幸福」という成果を出すには、ある程度、技術的な習熟が必要になる。
つまり「及第点」に達する必要がある。
こう考えると、たとえ成長曲線が鈍化したとしても、時間をかけて努力することは報われるように思える。
成長曲線と幸福度(2)
「技術的な成長曲線は、時間に比例して鈍化する」。
「だが幸福度は、gy買うに純化する」考えることも出来る。
こういうグラフだって描ける。
成長曲線と幸福度(3)
ところで、瞑想は単一のスキルじゃない。
心全般を扱う技術なだけに、多岐にわたるスキルがある。
もし幸福が「全て必要なものが揃った時に、スイッチが付くみたいに得られるもの」だとすれば、そもそも技術的な習熟度に対して、平面的なグラフを描くことは、そもそも不適切だ。
- スキルA (たとえば呼吸に集中するスキル)
- スキルB (たとえば心身を観察するスキル)
- スキルC (たとえば今を体験するスキル)
このスキル同士の重なりが「幸福」を生む、というモデルを描くことも出来る。
こう考えた場合、それぞれ必要なスキルに対して練習時間を割り振り、「円の重なりを大きくする」ことには大きな意味がある。
どんなモデルを描く?
モデルはあくまで、世界を単純化したものだ。
なのでどんなモデルを描いても間違っているとも言えるし、ある部分は正しいとも言える。
だが幸福について書かれた本などを読むと、最後のモデルで示したように、
どうやら幸福は「種々の条件が揃った時に生まれる、総合的な感覚」であるように思える。
(僕自身の実感としても、これは当たっている気がする)