心の99%を僕らは理解していない
あなたは自分の心を、どれぐらい自分で理解しているだろうか。
- 自分の心の理解度 = 100%
- 自分の心の理解度 = 80% ぐらい
- 自分の心の理解度 = 50% ぐらい
どれぐらいのイメージだろう?
僕は「1% ぐらい」だと思っている。(0.1%と言っても、言い過ぎじゃない)
つまり、自分の心でも99%のことは分かっていないんじゃないだろうか。
そう思うことが最近、特に多い。
意識は意外と傍観者
「自分の心は自分で分かる」というのが、昔の定説だった。
「ある程度、分からない部分もある」という考え方も、最近では、たぶん浸透してきた。
そして科学は「意識は意外と傍観者」ということを解明し始めている。
瞑想は心の理解度を上げる
瞑想をすると、それ以前よりも心のプロセスをよく理解できるようになるだろう。
マインドフルネスのトレーニングは、人間の幸福には、かなり役に立つ。
どんどんレベルを上げて行くことが出来る。
だけどそれでも、心には、理解できない部分のほうが圧倒的に多い。
仮に人類で最高の瞑想をしたとしても、生涯をかけたって、たった10%も理解できないかもしれない。
唐突だが、
- たとえばお祭りに行くと、なぜ心が安らぐのか。
- たとえばひとりで自分の部屋にいると、なぜ閉塞を感じるのか。(人によっては、何故安らぎを感じるのか)
- たとえばひとつの感覚に注意を向けると、なぜそれが拡大したり、縮小したりするのか。
僕らにはそれが分からない。
たとえば「歩く」という行為は一見単純だけれど、その裏では、驚くべきほど複雑な脳や筋肉のプロセスが関わっている。
心でも、恐らくそれは同じだ。
理解と仮説
ただ、完全に理解はしていなくても、ある程度、有用な仮説を立てることはできる。
たとえば「お祭りに行くと心が安らぐのは、木の質感とか、和太鼓の音とか、人が皆優しい感じがするからかもしれない」と、ざっくりと考えることは出来る。
「人間本来の性質に合った、音や、景色や、雰囲気があるのかもしれない」と。
実践と学習
そう思うと、瞑想の実践や、本での学習は、
「何ひとつ理解していない僕らが、少しでも心や身体の理解度を上げて、幸福の可能性を積み立てるプロセス」だと言える。
そう考えると、学習や実践にはなにひとつ無駄なものはない。
そして「もうだいたい理解しきった」と言って、幸福の可能性を狭めてしまうこともないのだ。