「うまい棒」は存在する? 存在しない?
僕は1年瞑想を続けている。
そしてだんだんと「自分」という意識が薄くなってきたと感じている。
これは個人的には好ましいことだ。
なぜなら「自分」というものが薄ければ薄いほど、そのぶん悩みや苦しみも減るからだ。
(自我が薄くなってきたのにも関わらず「僕にとって嬉しい」なんて、矛盾した言い方だと思うけれど)
瞑想で自我が薄まる理由
その理由は。
心が意識のプロセスを理解するたびに、自我を構成している要素の儚さを、直感的に理解して行くからだと思う。
人によっては別の現象が起こるかもしれない。
だが自分の場合は、自我の薄まりを感じた。
そして不思議なことは、自我が薄くなったからといって、喜びの感覚までも減ったわけではないということだ。
むしろ自我が薄まることで、以前よりももっと、体験に感動しやすくなり、世界の美しさに気付くようになった。
もちろん「社会的な自分」がたびたび戻ってきては「自分の存在」というものを主張し始める。
だけどその強さや回数は、以前よりもかなり減ってきたように思う。
私は存在する VS 私は存在しない
果たして私は存在するのか、存在しないのか。
どちらが真実であるかは、単に物の見方、理解の視点によるものだと思う。
「私は存在する」と考えても良いし、
「私は存在しない」と考えても良い。
どちらで考えても正解だと思う。
「私は存在する」と思う人にとって、私は存在するし、
「私は存在しない」と思う人にとっては、私は存在しない。
うまい棒は存在する VS うまい棒は存在しない
たとえば「うまい棒」を顕微鏡で細かく見ていくと、うまい棒はどこにも存在せず、ただの原子の集まりであることが分かる。
ある倍率においては。
その時、うまい棒は単なる原子の集まりに過ぎないのだろうか?
それとも、うまい棒は現実的に存在するのだろうか?
これは物の視点の話だ。
「うまい棒は存在する」と考えても良いし「うまい棒は存在しない」と考えても良い。
あるレベルでは存在すると言えるし、あるレベルでは存在しないと言える。
「私」の話も同じだろう。
科学の話
ちなみに科学においては、実は人間の「意図」というものが、我々が思うよりも儚くて、
多くの錯覚にあふれていることが証明されてきているらしい。
つまり、意識というものを顕微鏡で見ていくと、「私」なんてものはどこにもなかった、あるいはものすごく希薄なものだった、という話だ。
これもまた、物事を見る倍率の話だと思う。
もう十数年前のものだが、今日はこんな本を読んだ。
そして「意識のプロセス」「自我の成り立ち」を理解するのに、ものすごく役立つ本だと感じた。
正直、瞑想関係の本や、昔からの教えというものは圧倒的に「舌っ足らず」な部分がある。
科学的な説明の方がしっくり来る人は、瞑想の助けとして、科学系の本を読んでみても良いかもしれない。
( 脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫) )
真実はどちらでも良い
ひとつ重要な事実は、
「私が存在する」ということが真実であったとしても、
「私が存在しない」ということが真実であったとしても、
どちらにしても、僕たちは意図的な訓練によって、
心のプロセスに影響を与えられるということだ。
そして悩みや苦しみを減らし、あるいは上手に受け入れられるようになり、
世界に対する体験を深めたり、喜びを深めたりすることが出来る。
(それが「自分の意思」なのか「自分の意思だという錯覚」なのかは、重要ではないように思う)
たとえば、
「うまい棒が存在する」にしても、
「うまい棒が本当は存在しない」にしても、
どちらにしても、うまい棒を食べることは出来るし、美味いと感じることも出来るのと同じことだ。
どうせ真実はひとつなのだから。
どちらの考え方をしても良い。
それでは、良い瞑想を。