オレオの「クッキー」と「クリーム」を区別できない話 ( あるいは妄想に溺れるドン・キホーテの話 )
森永のオレオは「クッキー」と「クリーム」に分かれている。
だけど実は僕らは、それが区別できていない。
ぐちゃっと、あいまいもこに判別している。
これはお菓子の世界じゃなく、心の世界の話だ。
ちなみにクッキーが「情報」で、クリームが「経験」だ。
(別に、どちらがどちらでも良いんだけど)
僕らは全員ドン・キホーテ
ところで、情報は情報にすぎない。
だが僕らは情報を、まるで本物のように扱う習慣がある。
そして、もはや「情報こそが本物だ」という感覚さえ持ってると思う。
まるで、この世界には情報しか存在しないかのように。
「情報ではないもの」を見つけることさえ難しくなっていると思う。
かつて布袋寅泰が「コンピューターとギターがあるだけでいい」と歌ったように、情報空間だけに住むのも、もしかしたら素敵なことなのかもしれない。
だけど大きな問題は、僕らが「情報=経験」「情報=本物」だと、1日に1万回も取り違えているということだ。(本当に、1日に1万回以上だ)
だけどマインドフルネスの世界では、情報と本物を区別できることが重要だ。
なぜなら情報というのは、あっという間に心を妄想でいっぱいにして、オーバーフローしてしまうから。
訓練されていない心の世界では、誰しもドン・キホーテだ。
だけど僕らは、僕らがドン・キホーテであるということにさえ気付いていない。
本物の経験って何?
本物というのは、僕らがしている「経験」のことだ。
たとえば雑誌で、老後の不安を煽るような記事を読んで、不安になったとする。
だけど「老後」というのは、現時点では情報に過ぎない。
だけどまるで「本物の経験」であるかのように、僕らには感じられる。
だけど、こうやって僕らが「情報」に対してあくせくして、反応している間に、
「経験」は、惜しくも次々に流れてゆくのだ。
ディズニーランドに行って、ひたすら待ち時間のことだけを気にしながら、1日を過ごすようなものだ。
ミッキーマウスも涙する話。
情報と経験をはっきりと区別できることは、脳の高次な働きだと思う。
そうすると、だんだんと素晴らしい世界が見えてくる。
世界がこんなに甘美なものだったんだな、ということに気付き始める。
そしてその習慣は、訓練次第で身につけられる。
区別すればするほど、区別するのがうまくなるし、
経験だと錯覚していたものが、実は情報だった、ということにも気付きやすくなる。
本物の経験を見つけるトレーニング
たとえば今、僕はカフェで読書をしている。
そこで、情報と経験を区別する訓練をしてみる。
情報
- 本を読みながら、頭の中に浮かんでくる思考
- 読書に何時間を費やしたかという事実 ( 時間は情報だ )
- 「いま、何の本を読んでいるのか」という種類
- 「いま、この本を読んでいるけれど、別の本を読んだほうが有益なんじゃないだろうか」という思考
- スマートフォンが気になり、次に、LINEの返信が気になること
- この後に会う人との、待ち合わせ時間について考えること
このようなものが情報(あるいは思考)に分類される。
経験
- 本のページをめくるときの触感や、紙に映る影
- 自分の呼吸の感覚や、スピードや、深さ
- 読書をしながらも、次々に、微妙に移り変わる体の感覚
- 他の人が席を立ったり、動いたり、話していたりすること
- 本を読んでいる自分を、一段階ズームアウトした視点から、眺めている、その視点
- 「カフェで本を読んでいる」という経験そのものの、統合的な質感 (クオリア)
もちろん、常にこの全てをいちどに認識するわけじゃない。
だけど訓練を続けていると、本を読み、なおかつ自分の思考や感覚を観察しながら、なおかつ周りの環境も意識するという、統合的な状態に近づくことが出来る。
(言葉で書くと難しそうに思えるが、これら全てを含めた、ひとつの統合的な「経験」をしている状態だと言える)