瞑想すると「考えない人」になる? ~ 考える人 VS 考えない人 ~
最初に瞑想を始めた時、僕が怖かったのは自分が「考えない人」になってしまうのではないか、ということだった。
人類の叡智は、考えによって築き上げられたはずだ。 おおげさに言うのならば。
この素晴らしい「考え」を捨てるというのか?
たとえば僕らが仕事を出来るのも、人生設計を出来るのも、日常を暮らせるのも、ぜんぶ「考え」があるおかげだ。
考えを捨てたら、何もできなくなってしまうんじゃないだろうか。 考えていない間に、人生があっという間に過ぎてしまうんじゃないだろうか。 そう考えた。
だから僕はこの「考え」を手放すのが恐かった。 まるで浮き輪をせずに海に飛び込むような気持ちだった。
考えを手放した後、本当にそこに幸福はあるのだろうか?
海に溺れる
だけど本当は、僕はもう既に溺れていた。 思考という海に。
僕は「海に溺れないように、浮き輪を掴んでいる」つもりだった。 だけど「浮き輪を握りしめていることで、実は逆に、海に溺れていた」のだ。
僕は「溺れながら、溺れたくないと考えている人」だった。
考えること / 考え込むこと
この記事のタイトルには「考える人」と「考えない人」という副題を付けた。
けれど瞑想を実践するということは「考えない人」になるということではない。 「考え込まない人」になるということだ。
- 考えること
- 考え込むこと
は、実は全く違う。
- 思考すること
- 思考にはまり込むこと
の違いだと言っても良い。
この二つがまるで同じように見えるのは、僕らが心のプロセスを、とてもあいまいに認識しているからだ。
たとえば、
- カレーライスは「ルー」と「ライス」で出来ている。
- お寿司は「ネタ」と「シャリ」で出来ている。
このことは、僕らはよく分かっている。
だけど心に関しては、僕らは「ルー」と「ライス」の違いが分かっていないし、「ネタ」と「シャリ」の違いが分からない。そんな状態だ。
考える人
実は、考える事は止められない。 すなわち、「考える人」であることもやめられない。
なぜなら、考えは僕らの頭の中に、自動的に生まれてくるからだ。
それに、もし「考え」が止まったら、僕らはどうやって明日の計画を立てれば良いのだろう?
- 「そろそろ瞑想をやめて、仕事に行こう」と考えなければ、瞑想を始めたビジネスマンは全員、失職してしまう。
- 「そろそろ子どもに食事を出そう」と思考しなければ、瞑想を始めた親は全員、子どもを餓死させてしまう。
だから実は、考えは止めなくて良いのだ。
僕らが大好きな「考え」は、止めたくてもどうせ止まらない。だから安心してほしい。
僕らは「考えない人」になることは出来ない。 だけど「考え込まない人」になることは出来る。
考えこまない人
僕らは「考えることで、心が辛くなる」と思い込んでいる。 たまに「考えなければ、どんなに幸福だろう」と夢想したりする。
だけど実は僕らを辛く、しんどく、退屈にさせているのは「考え」ではなく「考え込むこと」なのだ。
- 「考え」は実は、まったくの無害だ。
- 「考え込むこと」は有害だ。(よほど幸せなタイプの考えでもなければ)
これは
考えは、最初は力を持たない。パワーゼロ。
- 「思考」にパワーを与えるのは「考え込む」という心のアクションだ。
- 「考え込む」という心の行動が「考え」にパワーを与えている。
考えに力を与えるか、与えないか。 それは考えが生まれた時の、僕らの心の関わり方次第だ。
解決策
具体的な解決策としては、瞑想によって心を観察するのが良い。
- 考えは、自動的に浮かんでくる、無害なものだ
- 考えには、実はパワーがない
- 考えにパワーを与えているものが、考え込むというプロセスだ
- 考え込んでいる自分に気づいたら、パワーを与えるのをやめてみる
このようなことを意識して、瞑想をしてみると良い。
軽く、ふわっと、力を入れずに「考え込むこと」を手放せるまで、焦らずに、ゆっくりとやってみよう。