奇跡はいつも僕らの横を通り過ぎている
僕たちが気付くか、気付かないかの違いがあるだけだ。
- 1日を終えて家に帰る途中、見える景色に対しての、1秒ごとの認識
- 街をゆく人たちや、変わる信号や、通り過ぎる車の、二度と同じになることはない組み合わせ
- エレベーターの階数表示が変わる瞬間
実は、すべての場所に奇跡が存在している。 誰でも、人生で最も輝かしい瞬間を思い出せば、そこに奇跡があったことが思い出せるはずだ。
だが僕たちは、99.999%の時間において、間近で起きている奇跡を見逃している。 そもそも、その粒子のつかまえ方が分からない。
思考は体験ではない
ひとつ重要な事実がある。 それは「奇跡は、決して思考では捕まえられない」ということだ。
なので「よし、今日から奇跡に気付いた生き方をしよう」と思っても無駄だ。 僕たちが例え100万年、頭だけで考え続けたとしても、奇跡を見つけることは出来ない。
なぜなら奇跡は、決して思考の中には存在しない。 「経験の中」にしか存在しないものだからだ。
「奇跡はどこにある?」と、そう頭が考えた瞬間、僕たちの焦点は、経験ではなく思考へとすり替わってしまう。 なので「奇跡に気付こう」といくら考えても、思考を掘り下げても、奇跡に気付くことは出来ない。
では、どうすれば良いのか。 答えは非常にシンプルだ。
僕たちにできることは、ただひたすら、目の前の経験に集中すること。 目に見えるもの、耳に聞こえる音、今という瞬間に注意を向け続けることだ。
思考や、自分の感覚に汚されていないピュアな部分に、奇跡に気付くという経験がある。
なぜ、そうするのか
僕たちがいちど、奇跡に気づき始めたとき。 「なぜ、奇跡に気づく必要があるのか」と、頭はまた考え始める。 だが思考では、この理由にもまた、たどり着くことは決してない。 (古今東西、様々な賢人たちが「生きる理由」について思考してきたが、言葉は遂に理由にはたどり着けないままだ)
世の中には、答えの出るタイプの問いと、答えの出ないタイプの問いがある。 「なぜ生きているのか」「何故、マインドフルネスが必要なのか」「なぜ、体験に気づく必要があるのか」 このたぐいの本質的な問には、論理的な答えができることはないだろう。
この性質の問には、論理を越えた答えが必要だ。 日本人は無宗教だが、 たとえば「神が、奇跡を経験するために、この世に生をつかわした」と考えてみるのも良い。
生きる理由
今日、僕は「生きる理由は、世界の美しさを感じるためだ」と、明確にそう思った。 言葉を変えるならば「生きる理由は、世界の完璧さを経験するためだ」と理解した。
これは頭でそう考えたからではない。 思考でも、感覚でもない「経験」の実体が教えてくれたこと。それを言葉にしたものだ。
だがしかし、僕は今日から、世界の美しさをあえて探したりはしないだろう。 「これは美しいだろうか」「あれは美しいだろうか」と、評価を始めたりはしないだろう。 なぜならば「世界の美しさを探す」という行為が、既に思考と、そして意図に汚されているからだ。
- 目的がAである
- Aを求める
この二つは因果関係があるようであって、直接的にはつながっていない。
靴紐を結ぶ瞬間のマインドフルネス
例えばその横に生える雑草にも、マインドフルネスを感じることは出来る。
そして、その次の瞬間から、
- 「雑草に美しさを感じるなんて、バカみたいだ」
- 「こんなことをしていないで、会社に急がなければ」
と思考はめぐり始める。
だから、また思考を観察し、自分の感覚を観察し続ける。 マインドフルネスはこのプロセスの繰り返した。