マインドフルネスやってみた

瞑想で人生のレシピ作り

ディフェンシブな瞑想 (アウェイではディフェンス重視)

複雑な状況では、シンプルな瞑想が役に立つ。

 

慣れないことをする時、慣れない場所に行く時。

心が雑然としていて、マインドフルネスが機能しにくいとき。

そんな時は欲張らずに、ディフェンシブな瞑想をしてみるのが良いだろう。

 

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たとえば僕の場合、市役所に行って手続きをするのが、すごく苦手だ。

誰だってそうかもしれない。だけど特に苦手意識を感じている。

役所に行って数十分を過ごすだけで、どっと疲れてしまう。

そういう時は、日頃から鍛えたマインドフルネスも影を薄める。

 

そんな時は、防衛的で、ミニマルな瞑想が役に立つ。

番号札をもらって順番待ちをする間、椅子で待つ間に、そっと目を閉じて、呼吸の数を数えてみる。

ただ目を閉じるだけで、ずいぶん自分の気分が変わる。

目を開いたり閉じたりすると、まるで世界が変わるように感じる。

 

今はディフェンスに徹する。

他に難しいことは何もしない。

「この瞬間をマインドフルに過ごしてみよう」なんて思わない。

そいつはマキシマルな瞑想だ。

オフェンスは、ゲームに余裕がある時にやれば良い。

 

慣れない場所にいる時、落ち着かない場所にいる時は、ただ目を閉じて、呼吸の数をカウントするだけだ。

スポーツの試合と同じで、状況が劣勢の時は、防衛的な試合運びをして、また次のチャンスをうかがう。

ディフェンスとオフェンスを上手に切り替えると表現しても良い。

 

目を閉じるのは、膨大な視覚情報を制限するため。

呼吸の数を数えるのは、シンプルな行為で心を落ち着かせるためだ。

 

こうしてみると、不思議と、普段ならばどうしようもなく落ち着かないはずの空間で、小さなオアシスを見つけられた感覚だった。

 

 

 

 

 

 

世界を理解する方法 ( 70億分の1の幸福感 )

僕は最近、世界をこう理解しつつある。

 

「自分の存在は、地球人口70億分の1の実験体だ」

「人類や生命は全て、幸福を探すための壮大な実験に参加している」

 

個人的に、この世界観は多くの問題を解決してくれそうだ。

信念の奥深いところにある「存在の否定」を消してくれそうな気がする。

 

この世界観によると、生きることはまったく罪ではない。無駄骨でもない。

なぜなら、僕らは実験に参加しているのだから、すべての実験結果は無駄にはならず、すべてがプラスのために使われる。

 

もちろん比喩ではあるのだが、そもそも僕ら生命が生まれた理由なんて、誰も知らないのだから、その理解の方法は自由だ。

僕には今、この理解が一番腑に落ちている。

 

ところで数は全く問題ではない。

「地球上」の「人間」という単位で見ることも、特に根拠はない。

(70億と書いたのは、単に最初にこの表現が浮かんできたからだ)

 

たとえこれが、80億だろうと90億だろうと、遠く地球の星のものであろうと、生命というものが続く限り、この実験は続いていく。

そんなイメージを描いている。

実験の特徴

「実験」というものの特徴はなんだろう。

 

それは、

 

  • ひとつの経験、結果が次の実験に活かされる
  • 1個が全体に寄与し、全体が1個に寄与する
  • すべてが記録されている
  • 実験そのものがエキサイティング

 

というようなことだと思う。

 

じゃあこう理解することの、一体何が良いのか?

それはマインドフルネスの観点から言うと、まさに「今を生きること」に価値があると、信念のレベルでそう思えることだ。

 

枝葉のレベルでは「いまを生きている」ようであっても、もしどっぷりとその幸福を楽しめないとしたら、それは信念のレベルで何らかのブロックが働いているのかもしれない。

 

 

問題は何だ?

 

僕は問題を感じていた。

常に、ことあるごとに、幸福をブロックしにくるものがある。

何回でも、何百回でも、何万回でもそいつがやってきて「幸福なんかに意味はない」と囁く。

 

世界や、自分の存在に対する、根本的な信念。否定的な価値観。

根の深いところに、大きな問題が横たわっている。

 

たとえ僕が今日、幸福を感じたとしても、それは消えてしまう。

幸福感はどこにもアップロードできないし、ソーシャルサービスにも載せられない。

そんなものの、一体どこに意味があるのか?

誰も見ていないのに、どこにもアクセスできないのに。

 

たとえこの人生で、どんなに上手な生き方を覚えても、どんなに勉強をして幸福に近づいても、

いずれは僕というものは死んで、なくなってしまう。

それならば、そんなものに一体、何の意味があるのか?

 

こうやって、虚無について考えるのが僕の無意識の習慣であり、信念だった。

 

幸福感はアクセスする

だけどマインドフルネスのトレーニングを続けていて思うのは、

自分が幸福感を感じている時には、何らかのエネルギーに「アクセスしている感じ」がするということだ。

 

たとえネットにつながっていなくても、友達と一緒に居なくても、ひとりきりでも、とびきり豊かなネットワークに「アクセスしている感じ」がある。

宗教的に言うならば「神とつながっている」感じとでも言うのだろうか。

脳が豊富な情報量を受け取って、シナプスがつながっていくかんじとでも言うのだろうか。

 

頭で考える VS 実感を感じる

 

つまり、幸福感を感じることには、重要な意味がある。

身体レベルで「意味」を感じるもの。それが幸福感だ。

 

だけど、頭で考える限り、幸福感はやがて消えてしまうものだから「意味はない」ことになる。

頭だけで考えて、幸福感に意味を見出すことは、とても難しいことだ。

(なぜなら、幸福について頭で考えるという行為は、肝心の幸福感を消してしまう作用がある)

 

思考と実感に整合性がない。矛盾している。

矛盾している状態は、右足と左足が逆方向に進むみたいで、歩きづらい。

幸福にとってはマイナスになる。

 

そして、この思考と実感に整合性が取れること。

「腑に落ちる」ということが、世界に対する信念を変えるということだ。

 

言語野は解決したい

そして、僕の言語野は考えた。

 

もし自分の感じる幸福感というものが、どこかに「アップロード」されているのだとしたら?

自分が経験しているすべてが、何らかのサーバーに送られているのだとしたら?

 

仮に、もしそうなのだとしたら、自分が経験するすべて、幸福感を感じる経験すべてが、無駄ではなく、価値を持っていることになる。

たとえ僕の命が尽きたとしても、その幸福感や、経験のクオリアは、永久にどこかの場所に保存されて、役立つことになる。

 

たとえばコーヒーを飲む時、温かさをうっとりと味わう、美しい体験。

たとえばひんやりとした部屋の中で、ただ静寂を味わっている時の、心地良さ。

たとえば家族のことを思ったり、人生について考えている時の、なんとも言えない質感。

 

そういった経験のすべてが、やがて自我の中で消えるだけではなく、僕らの見えない場所にシェアされる。

そういう説明。

これは幸福を感じている時の「身体感覚」とも、まったく矛盾しない説明だ。

 

僕の思考が生み出した、矛盾のない、整合性の取れた理解。

それが「生命は実験である」という世界観だ。

 

 

おさらい

何が起こったのか。この話のエッセンスは何だろう。

ここではおそらく、次のようなプロセスが辿られた。

  • 実感が変わる
  • 思考と実感が矛盾を起こす
  • 実感が勝ち、思考が変わる
  • 思考と実感の整合性が取れる

 

いちど分離して、そのあとに融合が起こっているのが分かる。

この場合でいうと、二つが矛盾した時に、思考ではなく実感が勝った例だと言えるだろう。

 

(多くの場合は古くからの思考が勝ち、信念の書き換えがおこなわれない場合も多いはずだ。なぜなら、変わりにくいものこそが「信念」なのだから)

 

 

 

 

「自分は一人」「自分は二人」 どっちが正解? (人間理解と幸福の関係)

真実は「自分は二人いる」だ。

 

だけど世間では「自分は一人だ」という信仰は根強い。

僕も気がづけば「自分は一人だ」という理解に基づいた考えをしてしまっていたりする。

 

だけど自分は二人いる。

いや、実際には二人だけではなく、もっと多くの働きがひしめきあっている。

 

何もこれは、二重人格の話じゃない。

脳の作りの話だ。

 

たとえば前頭葉。つまり人間的な脳。

たとえば大脳。つまり動物的な脳。

 

この二種類だけで、二人の自分が存在することになる。

 

「自分は一人だ」という間違った世界観は、人間理解の大きなボトルネックになると思う。

 

たとえば「自分は一人だ」という前提に立つと、

「自分の心に問いかける」とか、「自分に優しくする」という行動は成り立たない。

そもそも「客観視」という言葉自体も成り立たない。

 

そして、僕らは「自分へのご褒美」だなんて言ったりする。

「何々と思っている自分に気づいた」なんて表現をしたしする。

つまり、ある部分では「自分が二人以上いる」ということを認めているのだ。

 

おそらくコンテキストによって、

「自分は一人」と

「自分は二人」という人間感が

無意識にスイッチングしているのだろう。

 

それぐらい、僕らの人間理解というものはグレーゾーンにある。

 

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世界の理解

「自分は複数人いる」という前提に立って世界を理解すると、いったい何が良いのか。

それは「自分に対しての関係性」というものを認識できるようになることだ。

 

マインドフルネスの世界では、自分を他人のように扱うことは重要だ。

(というよりも、トレーニングを続けるうちに、自然にそういう感覚になってくるはず)

 

たとえば「自分」というものを、プログラムにおけるモジュールのようなものだと考える。

そうすれば、幸福に近づくには、このモジュールを適切に入れ替えれば良い話になる。

 

たとえば「自分」に湧き上がった思考は、どこかから自動的にやって来たものだと考える。

そうすれば「自分の思考」がどんなものであれ、それを外部化することが出来て、悩むことがなくなる。

 

「自分は複数いる」という理解に基づいた方が、自分というものに関するあらゆる話が分かりやすく、通りやすくなる気がする。

 

思考習慣

とは言っても、やはり「自分は一人」だと理解する習慣は根強い。

無意識に「自分は一人」という理解をしていた自分に気付くことも多い。

 

たとえば「自分に対して優しくする」ということを考えてみる。

目を閉じて「自分の頭をなでてやる」感覚を感じてみる。

 

そうしてみると、初めて「自分というものに対して、どれだけ厳しく接していたか」ということが理解できる。

目から鱗が落ちたようだった。

「自分への関係性」は、空気のようなもので、まるで目に見えなかった。

 

こうやって初めて「自分に対して、自分が関係していること」に、身体レベルで気付いた経験があった。

それまでは、無意識に「自分は一人だ」と思い込んでいたせいで、大きな盲点があったのだ。

 

目が覚めてはじめて分かることもある。

だからこそ、人生の幸福のためには、正しい人間理解が必要なのだ。

 

 

 

 

 

自己洞察力を高めると、人生は幸福に向かうはず。

自己洞察力を高めるのは、なんて素晴らしいんだろう。

僕は今日、スターバックスから自宅に帰る途中、冬の寒い道を歩きながら、そう思った。

 

でも、なんでそう感じたんだろう?

 

確かに自己洞察力が高まると、仕事で疲れる前に休憩を取れたり、自分のコンディションを整えやすかったりする。

だけど、何かもっと重要な要素が隠れているような気がした。

 

それはたぶん、こういうことじゃないだろうか。

 

人生の幸福は、究極的には「自分との関係のしかた」次第で決まる。

自分の脳とどう付き合うかということ、人間のあり方の全てを決めていると言っても過言じゃない。

他の人とうまく付き合うにしても、まずは自分自身とうまく付き合わなければいけない。

 

自己洞察力が高まるということは、自分との関係のしかたがうまくなるということ。

だから、それは自分の幸福に直結する。

 

たぶんそういうことなんだろう。

 

 

自己洞察力を高める方法

瞑想のトレーニングを続けよう。

自分自身が何を感じているか、身体感覚に聞いてみよう。

分からないことがあったら、頭でも考えて、仮説を立ててみよう。

科学に基づいた本を読んで、人間理解を進めていこう。

 

時計時間から呼吸時間へ ( 瞑想で残り時間が気になる人へ )

時間を決めて瞑想をすると、残りの時間が気にならないだろうか。

たまに目を開いて、チラチラと時計を見てしまわないだろうか。

 

僕はそうだった。

だけど、これには瞑想らしい対策がある。

 

呼吸の回数を数える

それは時計を使うかわりに、呼吸の回数を数えるという方法だ。

この方法だと、目を閉じながらでも、どれぐらいの時間が経ったか把握できる。

 

たとえば僕の場合、30回の呼吸で5分ほど、100回の呼吸で15分ほど過ぎる。

いったんこのペースを把握してしまえば、もう時計やアラームなしで、安心して瞑想が出来る。

 

このやり方は、時間が限られている時に、特に役立つ。

たとえば「予定があって30分後には出かけなければいけない」という場合でも、呼吸の回数を決めて瞑想をすれば、予定に遅れることもない。

 

瞑想をすると同時に、スケジュールの管理もできる。

なかなか素晴らしい方法だと思う。

 

呼吸時間が主役に

僕の場合、今では、この「呼吸の回数」から「現実時間への換算」を、あまり意識的にはしなくなった。

「呼吸の回数」がメインの舞台に踊り出て、現実の時間はバックグラウンドに下がった感じだ。

 

つまり、瞑想をしている時の、時間の流れが変わった。

これがとても心地良い。

 

おそらく僕らが「時計時間」は人間が作り出したものだけれど、呼吸の回数はより自然に基づいたものだからだろう。

 

(だけど、いつでも呼吸の回数を現実時間に換算できるので、現実との接点を完全に忘れてしまうこともない)

 

瞑想で回復するコツ (「レスティング」の技術)

瞑想には、

という分類の仕方がある。

 

ざっくり言えば、集中度のレベルに応じて、段階がある。

  • アンカリング=集中する
  • レスティング=休憩する
  • ビーイング=頑張らずに、ただ存在する

 

といった感じだ。

 

(「ジョイ・オン・デマンド」を参照)

 

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僕は夜眠るときや、昼寝をする時は、意識的にこの二番目の「レスティング」の状態にひたることが多い。

寝ている姿勢は座っている姿勢とは違って、集中はしづらいけれど、逆に回復には適しているようだ。

 

具体的な方法

じゃあどうやって「レスティング」=「休息状態」に入れば良いんだろう。

鍵は「身体感覚」だ。

 

瞑想をしながら、自分の身体感覚に注意を向ける。

そして、その中で一番心地良い場所を探す。

「癒やし」が起こっている場所を見つけてみる。

 

癒やしは身体の中で必ず起こっているので、それを見つけるだけで良い。たとえ普段は気付きにくいものだとしても。

 

たとえば僕の場合は、手と手を繋いだ時の微細な感覚や、床に寝転んでいる背中の感覚や重力、皮膚が感じる暖かさや冷たさに、癒やしを感じることが多い。

 

お好みなら、何か美しい風景や、癒される光景をイメージしてみても良い。

「暖かいハワイの砂浜にいる」

「おごそかで静かな森の中にいる」

「赤ん坊の頃のように、頭をなでられている」

なんて想像してみても良いだろう。

 

重要なのは、身体感覚を忘れないということだ。

もし意識が身体から遊離してしまったら、何度も身体感覚に戻ってくるということだ。

 

イメージはあくまでも特定の身体感覚を呼び起こすための道具。

単にイメージ単体では、有効に機能しないようだ。

思考の世界に引きずられずに、いかにして身体感覚を呼び起こすかがキーポイントだ。

 

例えるなら

 

感覚としては、体の一部分ではなくて、どちらかというと体全体を意識しているような状態。

暖かさや、涼しさに包まれているような感覚。(温度は回復の大きな鍵)

獲物を追い求めるモードとは、真逆にある脳の状態。

 

例えるなら、岩盤浴でゆっくりしているような感覚。

例えるなら、心地良いスポーツを終えて眠る時の感覚。

例えるなら、脳の裏側が癒やされていくような感覚。

 

僕らは、よく知っているその感覚を、ただ再現して、そしてひたってみれば良い。

もし難しいようなら、自分が一番リラックスできる場所に行ってみて、「癒やされている感覚」を感じ取れるかどうか、試してみると良いだろう。

 

はじめて自転車に乗る時のように、ちょっとしたコツさえ掴めれば、きっと「休息状態」にアクセスできるはずだ。

 

自然の回復能力

ところで、人間にはそもそも回復能力が備わっている。

もしそうでなければ、今頃は消費するばかりで、既に死にいたっているだろう。

 

瞑想のトレーニングを積むと、僕らは自然の回復能力に意識を向けて、それを増幅してやることが出来る。

 (単に呼吸だけではなく、回復能力そのものに意識を向けて、増幅できるなんて、瞑想はすごい)

 

そもそも「意識の向け方」次第で回復能力が変わってくるというのが驚きだが、どうやら、人間の体はそのように作られているみたいだ。

(逆に言うと、普段は僕らの意識の向け方が不適切な分、本来の回復能力を失っているという言い方も出来る)

 

習慣作り | 「習慣にする理由」は忘れてしまっても良い

今日僕は、部屋の布団をたたみながら思った。

「僕はなんで、布団をきちんとたたむことを、習慣にしようとしてるんだっけ?」

 

だけど、理由を思い出す前に、布団をたたんだ。

理由は思い出さなくて良いと思ったし、放っておいても、いずれ未来の自分が思い出すだろう。

 

そこで気付いたのは、新しい習慣作りをするにあたっては、「そもそもの理由」なんて忘れてしまっても良いということだ。

理由を考える必要はなくて、ただ単におこなえば良い。

ただ淡々と。

 

ふだん、僕らが習慣作りを諦めてしまうのは、だいたい「やる理由を忘れてしまうから」「動機を忘れてしまうから」「モチベーションが下がってしまうから」じゃないだろうか。

だけどそもそも、やる理由、動機は思い出さなくて良いし、モチベーションも上げなくて良い。

 

理由、動機、モチベーションに依存するのは危険だ。

そうではなく、ただ「過去の自分」がやると決めたことを、「今の自分」は理由も考えずに、おこなえば良い。

もし「やる気」が必要とされるような習慣なら、行動のハードルをぐんと下げたり、タイミングを工夫すれば良い。

 

僕たちはよく考えすぎる。

でも「行動には必ず理由が必要だ」と考えるのは、とても損だ。

なぜなら、膨大な回数「考えるコスト」が発生するからだ。

 

塵も積もれば山となる。

「理由を考える」たびに、その習慣作りをやめる機会が発生する。

 

でも、モチベーションにも頼らず、理由を思い出す必要もないとしたら。

こんなにスムーズな話はないと思う。

 

このように理由を考えずに行動するのは、本当に良いことだろうか?

 

もちろん。

 

むしろ、感覚としての「動機」を忘れてしまうぐらいが、習慣化が適切に進んでいる証拠だ。

なぜなら最終的には「何も考えなくてもやってしまう」のが、習慣というものなのだから。

 

このように、あくまでも習慣作りをしている段階においては、理由や動機というものを思い出す必要はない。

きっとそれは「過去の自分」が、理由があって決めたことなのだから。

習慣作りがうまく進んできた頃に、またその理由は自動的に思い出せるはずだ。

そうしたら、「未来の自分」がきっと喜んでくれるだろう。

 

ところで

実は、定期的に自分の習慣を見直すことも大事だ。

だけどそれは「習慣作りをしている最中に、毎回理由を思い出さなければいけない」ということではなくて、ちゃんと時間を取って、習慣を見直す機会を作れば良い。

 

決して「習慣作りの最中に、理由を思い出して疑念にかられる」ということとは違う。