瞑想のトレーニングで寒さに強くなる (暑さにも)
僕はもともと、寒さや暑さには強い方だったのだが、瞑想のトレーニングを初めて、さらに強くなった。
たとえば冬なら、人からはたまに「その薄着で寒くない?」と言われるが、逆に「他の人は、なんでそんなに寒がりなのだろう?」と不思議に思っているぐらいだ。
(いや別に、Tシャツ1枚で過ごしているわけではないけれど)
なぜ瞑想をすると寒さに強くなるのだろうか。
それは次の理由があると思う。
刺激を外部化するのが得意になる
冷たさというのは、外からの刺激だ。
体が冷たさを感じた時も、自分の体が反応しているだけだということを理解して、刺激と反応を切り分けることが出来る。
(もちろん限度はあるけれど)
「痛みと苦しみは別」という言葉があるように、
「冷たさと寒さは別」という感覚だ。
寒さを心地良く感じられるようになる
冷たさの中には、実は心地良さも含まれている。
冷たさに抵抗するのではなくて、そのエネルギーをプラスに転換してあげる。
たとえば冷たさが肌をなでる感じに注意を向けると、その心地良さが分かる。
ひとつの温度を心地良く感じるか、心地悪く感じるかというのは、実は僕らの意識による部分が大きいのだ。
なぜならひとつの刺激に対して、体は様々なパターンで反応しており、心地良さも心地悪さも同居しているからだ。
そのどちらに意識を向けるかということで、感じ方はまるで変わってくる。
たとえば、僕らが北極から帰ってきたばかりだとする。
すると、日本の寒さなんかはまるで涼しいぐらいに感じられるだろう。
「もし自分が北極帰りだったら」というのを想像してみて、一瞬でも寒さがやわらぐようなら、それは僕らに「刺激の感じ方」を変える能力が眠っているということだ。
ちなみに夏の暑さだって、実は岩盤浴と同じようなものだ。
僕らはサウナや岩盤浴は心地良く思うけれど、夏の暑さは心地悪いと思っている。
これはひとえに「意識の感じ方」による。
具体的にどうやるの?
たとえば冷たさを感じたら、自分の体の反応を観察してみよう。
その冷たさを一部でも、体の中で心地良く感じている部分がないか、注意深く探してみよう。
たとえば肩の当たりは寒さを感じていても、脚は涼しさを感じているかもしれない。
体の中で意識を向ける「場所」によって、感じ方がまるで変わってしまうことを実感してみよう。
僕の休日の過ごし方 〜マインドフルなスケジュール〜
たとえばこんな感じ。
- フォーマルな瞑想をする (集中力のトレーニング)
- 歯を磨いたり、顔を洗ったりする瞑想をする (「準備を整えている」ことに幸福を感じる)
- 風呂に入る瞑想をする (シャワーの温かさや、体を洗う時の心地良さを感じる)
- ブログを書く瞑想をする (ノートPCの)
- 家を出て歩く瞑想をする (歩いていることに集中する)
- 綺麗な景色を探しに行って、自然と戯れる瞑想をする (自然で脳を癒す)
- カフェに行って、くつろぐ瞑想をする (人のざわめきの中で「アウェアネス」や、落ち着きを感じようとしてみる)
- 一杯のコーヒーを飲みながら、幸福感を感じる瞑想をする ( カフェインを摂らないようにデカフェを注文する )
- そのままカフェで読書の瞑想をする (「カフェという空間の中で、読書している自分」を意識する)
- 街で買い物に出かける瞑想をする (偶有性に任せて、新しいものとの出会いを探す)
- 家に帰って昼寝の瞑想をする (全身の体の感覚、心地良さに意識を向ける)
- 目覚めたらもういちど、フォーマルな瞑想をする
- 音楽をかけながら、脳の創造的な部分を働かせる瞑想をする
- 夜は友人と飲みに行って、人と接する瞑想のトレーニングをする
こうやって、脳の様々な領域を働かせていくのが良いんじゃないかと感じている。
え、全てに「瞑想」って名前をつけているだけだって?
そうかもしれない!
だけど、言葉というラベルは「意図」をふんだんに含んでおり、名前の付け方ひとつで、僕らの行動はまるで変わってしまう場合もある。
日常の様々な行動に対して「瞑想」とうラベルを付けてあげると、不思議とすべてがトレーニングとして働き始めるみたいだ。
今回の話では、それをさらに一歩進めて、むしろ瞑想のトレーニングを基準として、休日のスケジュールを組み立てている。
じゃあ、日常をただ過ごすのと、瞑想のトレーニングだと思って過ごすのでは、一体何が違うんだろう?
意図=瞑想
そもそも瞑想というのは、意図を生み出すことだ。
「ジョイ・オン・デマンド」でも、良い意図を生み出すことが、瞑想のファーストステップだと紹介している。
僕らの脳は、いったんターゲットをセットすると、あとは自動的に目標を探し求めるように出来ている。
つまり「瞑想のトレーニングをしよう」という意図だけで、トレーニングの半分は達成されているのと同然だ。
今に集中できる
僕らはだいたい、今に集中していない。
たとえば行動Aをしていても、行動Bのことを100回は思い浮かべる。
今後の計画Cや計画Dのことも頻繁に考えている。
これは瞑想のトレーニングにはならない。
逆に、行動Aをしている時は行動Aに集中するということが、トレーニングになる。
行動Aも行動Bも、タイプの違う瞑想のトレーニングだと理解することで、 すべてがプラスになる。
「無駄な行動」はないし「つなぎの行動」もない。
「行動Aより行動Bが良い」という序列もなくなる。
なぜなら重要なのは、脳の色々な領域を働かせるために、色々なタイプのトレーニングをすることだから。
こうすれば「今していること」を完全に肯定できる。
行動基準が変わる
瞑想を基準に日常を組み立てることで、より日常を楽しみやすくなる。
瞑想は日常にも取り入れることが出来る。
だけどいわゆる「いつでも集中」のトレーニングは、あくまでも日常を過ごしながら、それを「瞑想的なマインド」で取り扱う方法だ。
この考え方だと、日常がメインで、瞑想はあくまでも付随物にすぎない。
だけどこの立場を逆転させて、あくまでも瞑想のトレーニングを基準にしてみると、日常の過ごし方自体が変わる。
「瞑想のトレーニングに最適なのは何か?」という基準で、日々の行動を選ぶようになる。
ピークに敏感になる
たとえばカフェで過ごす瞑想をしていて、
「あ、いま幸福感のピークが終わったな」と思ったら、カフェを出ることが出来る。
そして次のタイプの瞑想をしてみれば良い。
僕らが思っているよりもずっと「ピークタイム」というのは短い。
たった5分間でも幸福を感じられるし、その質が高ければ、時間は短くても問題ない。
逆に5分前までは存在した幸福感を求めて、同じ場所にしがみついていても仕方がない。
「カフェで過ごすことこそが幸福なんだ」
「読書することこそが究極の過ごし方だ」
なんていう風に過ごし方を固定してしまって、実はまるで楽しめていないのに、同じ行動を続けることがなくなる。
つまり瞑想を行動基準にすることで、日常の過ごし方がぐんとうまくなる。
本質に気付く
たとえばブログを書いている時でも、
実は、大事なのはブログを書くこと自体ではなくて、
「ブログを書くという行為を楽しむこと」だと気付きやすくなる。
ブログを書きながら、キーボードを叩く音を楽しみ、マインドフルネスを楽しむこと。
これが本質。
マインドフルネスの習慣、瞑想のトレーニングを価値基準の中心に置くことで、逆説的に日常の行為の「エッセンス」を取り出すのがうまくなり、よりその味を楽しめるようになる。
ところで、マインドフルネスにも色々な味がある
仮に マインドフルネスの本質は一種類だとしても、その味わいには色々なものがある。
たとえばコーヒーという飲み物は一種類でも、アメリカンからエスプレッソまで、様々な飲み方があるように。
瞑想とスマホ断ちの関係
僕は最近、スマホ断ちをしていて、1日に10分程度しかスマホの電源を付けていない。
不必要な時にスマホを消すのではなく、必要なときにだけスマホを使う。
オプトアウトではなくてオプトイン形式だ。
僕は前、こう期待していた。
「瞑想のトレーニングを積めば、スマホを持ち歩いていても、意識を逸らされず済むのでは?」と。
だけど人間の無意識は、そんなに簡単なものじゃないようだ。
確かに瞑想のトレーニングのおかげで「スマホに病み付きになる」ということはなくなった。
以前よりはるかにスマホに縛られなくなった実感がある。
だけど完全にスマホから自由になれたかというと、そんなことはない。
いったんスマホを使えば、やはり意識はその中の様々なアプリケーションに引きずられる。
ほんの数秒前までは「スマホに魂を奪われない」と固く誓ったのに、もう目的とは別のアプリケーションを開いている自分に気づく。
スマホを閉じてからも、しばらくはその余韻が残る。
スマホをポケットに入れていると、それだけで常に、意識の数十パーセントはスマホのことを考えている。
(こうやって自分の無意識のプロセスが、今では意識でキャッチできるようになったのも、瞑想のおかげだと思うけど)
僕の理解はこうだ。
スマホというものは、人間の意識を引きつけるように「ものすごく上手」に作られている。
そして人間の意識は「ほとんど無意識」にスマホに引き寄せられてしまう。
(テレビもまたしかり)
「スマホを常用しながらマインドフルネスを保ちたい」というのは、
たとえばポテトチップスを頬張りながら「健康になりたい」と言うのと同じじゃないだろうか。
つまり、そもそも体に悪いものを食べていたら、どうやっても肉体は「低いレベル」に引きずられてしまう。
「スマホと賢く付き合う」その前に、まずは毒を抜いて、自分の意識がどれだけ軽くなるのかを確かめてみる。
そうしなければ、どのぐらいの毒が回っているのかさえわからないからだ。
背負った荷物の重さは、降ろしてみて初めて分かるものだ。
瞑想の時間 | 1日に何回、何分間すれば良い?
瞑想は1日に何回、何分間すれば良いのか?
僕個人的には、最近は、量よりも質を優先させたほうが良いんじゃないかと感じている。
なので「瞑想を始めて、集中力のピークが過ぎたらやめる」「これを1日になるべく多い回数、繰り返す」という方法を試しているところだ。
つまり、仮に自分の集中力が10分ぐらいでピークを迎えるとしたら、1回の瞑想は10分ほどで良い。
そして、回数は多ければ多いほど良い。
ただし、集中力が回復しきってから、次の瞑想をおこなう。
ということになる。
スポーツと同じように、瞑想でも、あまり強度の低いトレーニングを長時間続けても、効果が低いんじゃないだろうか。
「さあ、瞑想を2時間やろう」と思って座ると、どうしても、体はエネルギーを節約しはじめる。
高い集中力を避けようと、2時間のあいだでエネルギーを調整しようとするみたいだ。
いわばゆっくりとジョギングをしているような状態。
持久力を鍛えるには良いかもしれないけれど、筋力トレーニングのような、大きな爽快感は得られない。
それよりも「呼吸100回分だけ、心のこもった瞑想をしよう」と決めた方が、はるかに集中力の高まりを感じる気がした。
時間が限定されていると、人間の体は「自動的に」集中状態に入りやすいみたいだ。
(そういえば今までも、たとえば人との約束があって「10分しか瞑想できない」というような時に、時間を惜しみつつも、かなりの集中力の高まりを感じていた)
瞑想のプロが何時間も連続で座るのは、初心者よりはるかに長い時間、ちゃんと心を集中させていられるのかもしれない。
だけど初心者が彼らと同じ時間だけ座っても、それが良質なトレーニングになっているとは限らない。
心の中は、のぞいてみなければ分からない。
無為に耐える瞑想
2017年末は、箕面まで歩きに行った。
途中の道が封鎖されており、滝までは行けなかった。
そこでベンチに座りながら、1時間ほどを過ごした。
目的地にたどり着くまでの、とても中途半端な場所。
ここは、まったく心地良い空間ではない。
目の前に自然はあるけれど、どっぷりとその美しさにひたれる場所でもない。
なんとなく落ち着かない、
決して居心地が良いようには作られていない。
瞑想をしていなければ、その無為さに我慢ならなくなりそうな場所。
そこで僕は呼吸の数を1から数えて、自分の心の働きを見つめた。
目は閉じなかったし、座禅も組まなかったけれど。
最初は周りの静けさや、川の音に耳を澄ましていると、
だけど時間が経つと、それも心地良い刺激だとは感じられなくなってきた。
そして「無為」が、より明確に顔を出してきた。
僕らは普段あまりにも、エンターテインメントや刺激に慣れすぎている。
だから自然に触れ合うことが、時には必要だ。
だけど考えてみたい。
確かに自然の中を歩くことは、街中の刺激よりもおごそかではあるけれど、それでも刺激であることに変わりはない。
人が楽しむために作られた自然とは、そんなものだ。
だけどこの場所には、ほとんど何もない。
「何もないシンプルな部屋」よりも、何もない。
ただ大きな無為がある。
きっと僕らは普段、無為さと向き合うことなんて、ほとんどない。
全てのものに意味があり、そして、意味を見つけずにはいられないからだ。
瞑想と初詣
お賽銭を入れて願掛けをするとき、何を願う?
今年は何も言葉が浮かばなかった。
たぶんそれは、今があまりに満たされているから。
幸福は願うものではなく、歩いて近づいていけるものだと理解しているから。
そんなことを実感する、瞑想1年半の年。
小さな習慣 〜モチベーションは役立たない〜
「小さな習慣」で著者は、
10年の間、「モチベーションを上げる方法」を試し続けて、習慣づくりに失敗してきたという。
習慣づくりのために、モチベーションは驚くほど役に立たない!
これはまったく同感だ。
( これは本当に偉大な本 )
モチベーションは麻薬
じゃあなぜ、世間では「モチベーションを高める方法」が信用されているのだろうか。
それはこういうことだと思う。
モチベーションを高める方法は、一時的に役立つ。
そして、モチベーションが高まっている時の高揚感、万能感はすごいものがある。
だから自分の気分が高まっているときは「モチベーションこそが万能薬」だという考えに、完全に支配される。
だからまた次にも、高いモチベーションを手に入れようとする。
でもこれはたとえば、麻薬常習者が次の麻薬を求めるのと全く同じことじゃないだろうか。
モチベーションは麻薬だ。
たとえば、英語を勉強する時
- 英語を学習できたら、どんなに人生に役立つか想像する
- 英語学習に関する本を読んで気分を高めようとする
- 「こう考えたら英語が楽しくなるんじゃないか」という考え方を何十個も発案する
- 「英語を勉強したくない理由」が頭に浮かぶたび、それに対して心で反論する
これは全てモチベーションを上げようとする行為だ。
だけど、そもそも根本的に目指す方向が間違っていた。
必要なのはモチベーションを上げることではなくて、上手に難易度設定された、最適な習慣を持つことだった。
戦略の失敗
ここで僕が思ったのは、人というものは、選択肢がひとつしかない時には、自分が「選んでいること」にすら気付かない。
別の方法があると理解してはじめて、自分がひとつの戦略で失敗し続けていたことに気付くのだ。
習慣化に関しても、僕が取っていたほとんどの戦略は「モチベーションを上げること」だったと、この本を読んではじめて気付いた。