マインドフルネスやってみた

瞑想で人生のレシピ作り

瞑想の効果は「自動的」にやって来る? 〜本質は言葉では語れない〜

いくつもの本にそうかかれている。

「気づきは自動的にやって来るから、自分から求めなくても良い」と。

 

だが反対に、マインドフルネスのテクニックでは、

積極的に成果を手に入れるための方法が紹介されている。

 

いったいどちらが正解なのだろう?

 

普通の言葉じゃ語れないもの

 

これは僕たちの「通常の言葉」では、かなり説明しづらい部分だと思う。

僕たちの意識や、脳の働きというのは、ほとんどがまだ科学的には解明されておらず、謎に包まれている。

 

つまり僕らが「普通の言葉」においては、お互いに反対のことを言っているようであっても、

それが同時に正解だという場合もあるし、両方が間違いだという場合もあるはずだ。

 

意図を持って任せる

 

僕の今の時点での答えはこうだ。

 

「意図を持つのは良い」

「意図を達成するためのプロセスは、無意識に委ねる」

 

という感じ。

 

「無意識に委ねる」の部分は、

「体に委ねる」とか「脳に委ねる」とかいう風に言い換えても良い。

 

たとえば瞑想で「すごく暖かい感覚を見つけたい」という意図があったとする。

だけどその意図だけは持ったままで、具体的なプロセスは、自動的なものに委ねてやる。

 

なるべく自分の思考が邪魔をしないようにする。

(「良いも働きの邪魔をしない」というのは、瞑想の大事なエッセンスだ)

 

戦略と戦術の違いだとでも言おうか。

たとえば司令官は部下に対して、あまり事細か過ぎる指示は出さない。

いったん指示を出したら、あとは部下を信頼して任せる。そんな感じ。

 

目的と意図は微妙に違う

これは両方、同時に成り立つものだと感じている。

 

もちろん「目的を持たずに瞑想をする」という「意図」を持ったって良い。

「目的を持たずに、ただ座る」というのだって、立派な「意図」だ。

 

どちらにしても、僕らが意図なしに何らかの行動をするということはないのだから。

つまりは意図のない瞑想も、この世界には存在しない。

 

おすすめの本

マインドフルネスの名著「サーチインサイドユアセルフ」では、

「瞑想の前には期待して、瞑想中には何も期待しない」というような言葉が紹介されている。

 

まさに瞑想は「通常の言葉」では相反するようなことが、矛盾なく起こる世界だと思う。

矛盾しているように思えるのは、単に僕らが思考の言葉遊びに慣れすぎているせいだ。

 

世界には、言葉が先にあるわけではない。

本質のほうが先にある。

 

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瞑想は体で感じるもの

瞑想を続けるほど、体の重要性が分かってくる気がする。

 

たとえば「今の瞬間に存在する」を実践しようとするとき、

いちばん大事なのは、自分の体の存在に気付くことだ。

 

たとえば座っている時の、重力の感覚。

手と手を結んだときに生まれる、集中力のようなもの。

肌で感じる風や、気温の違い、心地よい部分に気付くこと。

 

自分の体に気付くのは「今の瞬間に存在する」こと。本質そのものだ。

 

最初、瞑想というと「心に働きかけるもの」というイメージを持っていたが、むしろ逆だ。

心や思考というものがいかに体をベースにしているかということに、段々と気付いていく。

そして、だんだんと「首なし」の状態から「体がある」状態を取り戻していく。

 

体に神秘は宿っている。

 

ただ厳密に言うと、これは単に「体」ではないのかもしれない。

ただ「体」というイメージが最もふさわしいように感じるので、この言葉を使っているだけで。

 

本当は、心や体というものを分ける必要さえないのかもしれない。

あるひとつのエネルギーがあり、感覚があって、それを人は「心だ」「いや体だ」と呼ぶのだけど、これは究極的には、どっちか分からないし、分かる必要もないものなのかもしれない。

 

名前のつけられないもの。

強いて言えば「エネルギー」とか「知覚」とかいう言葉が近いだろうか。

 

 

1日30分以上の瞑想に効果はある?

これはごく個人的な考えだが、

瞑想は1日に30分ほどやれば十分で、残りはおまけようなものだと思っている。

(30分というのはあくまで例えで、短い時間でも良いという意味)

 

たとえば運動でも、1日に30分ぐらいやれば十分な効果があるという話を聞く。

1日に一気に8時間も運動するより、毎日少しずつ運動をした方が体のコンディションが整う。

アスリートはもっと運動するだろうけれど、それは健康のためじゃなくて、挑戦の世界だ。

 

瞑想も同じで、1日中瞑想を続けたりするのは、趣味の世界だと思う。

つまり、好きだからやっているということ。

 

逆に言うと、もし好きでやりたいなら、どれぐらい瞑想をしたって良い。

僕は瞑想をしていると、とても心が落ち着く。

だから1日に数時間の瞑想をすることもある。

消極的な言い方をするなら、

「暇だし、他にすることもないし、瞑想でもするか」といった感じ。

思考はオムライスのケチャップみたいなもの

ケチャップが本当に大量に乗っていて、ぐちゃぐちゃなオムライスは、不味い。

ちょうど良い量が使われていれば、美味しく食べられる。

 

ケチャップ」が引き立つのは、あくまでも「オムライス」という本体があってのこそ。

 

思考も言ってみれば「スパイス」みたいなもの。

 

100%がスパイスじゃ食べられないし、不味いし、健康に悪い。

だけどうまく使えば、料理を美味しく食べるには役に立つ。

 

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オムライスのイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや

「英語脳」みたいな「瞑想脳」を作ろう

たとえば英語を覚える時は、頭の中で「日本語」を通さずに、ダイレクトに英語を理解するのが良いという。

 

つまり、翻訳や変換のフィルタを無くしてしまうこと。

 

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英会話のイラスト(男性) | かわいいフリー素材集 いらすとや

 

瞑想脳

これは、瞑想でも同じだ。

 

瞑想では、頭の中の思考ではなくて、その裏側にある「感覚的なもの」にアクセスすることが出来る。

 

すると、瞑想をするのはグンと面白くなる。

たとえば、自動車を走らせるのに、今までは運転手に間接的な支持を出すしかなかった。

だけど、それが直接ハンドルを握れるようになる感じだ。

 

思考はフィルタにすぎない

ふだん僕らは、頭の中の「思考」を通して、感覚にアクセスしようとする。

むしろ1%の思考が、99%の感覚を覆い隠してしまっているような状態だ。

 

だけど瞑想の技術が磨かれてくると、この「思考」というフィルタなしで、ダイレクトに「感覚」を扱えるようになるかもしれない。

 

その感覚を見つけたら、大事に覚えておこう。

それは僕らがハンドルを握れるチャンスかもしれない。

 

「ランナーズ・ハイ」のような「メディテーション・ハイ」は存在するか?

「BORN TO RUN」を読みながら今日、そんなことを考えていた。

ちゃんと書き方を揃えるなら「メディテーショナーズ・ハイ」だろうか。

 

僕は、理論的には存在すると思っている。

 

なぜなら、ランナーズハイは、もう肉体が「ダメだ」「限界だ」という領域を乗り越えた時に発生するものらしい。

そして、瞑想で感じる「苦しさ」「限界」も、本質的に肉体的なものだから。

 

 

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長時間の瞑想のために

たとえば、長時間瞑想をする時に、「ランナーズハイ」という考え方は役に立つと思った。

 

なぜなら、瞑想をしていて「苦しくなってきた」「限界が近いかもしれない」と感じた時にも

「もうひと息、頑張ってみよう」

というアクションを取りやすくなるからだ。

 

ただひたすら「つらさ」と戦うのではなくて、「肉体のつらい感覚」を冷静に観察すること。

さらには、その向こうに「ハイ」が待っているかもしれないと、楽しむことすら出来るかもしれない。

 

「つらさ」を楽しむ余裕

自分の限界を押し広げるトレーニングで、

「燃え尽きる」と「燃え尽きない」の命運を分けるのは、何と言っても観察力だと思う。

 

「つらさ」を冷静に観察できている間、むしろ楽しめている間は、きっと大丈夫だ。

逆に「つらさ」の中に溺れてしまうと、それは限界を伸ばすのではなく、単に苦痛を増しているだけで、次に瞑想をするのが嫌になるだろう。

 

おそらく前者は「肉体的なつらさ」と「冷静な呼吸」のミックス。

そして後者は「肉体的なつらさ」と「浅い呼吸」のミックスだ。

 

どこまで「笑顔」でつらさを楽しむことが出来るか。

これも瞑想のトレーニングになりそうだ。

 

もし瞑想での「ランナーズ・ハイ」のようなものを見つけた時は、またこのブログでお知らせしたいと思う。

 

 

GO WILDと瞑想の関係 ( あるいは野生とマインドフルネスの関係 )

最近僕は、瞑想とあわせて、少しばかり GO WILDを実践している。

 

  • 糖質制限。ナッツや肉や野菜を主食にすること。
  • たとえば夜は部屋を暗くする。室内でも外界の明るさを再現する。
  • 昼に短時間眠る。エネルギーのゆらぎを重視する。
  • エネルギーの回復のために歩く。歩き方を工夫するウォーキング。
  • 錆びついた体を動かす。肉体の俊敏さを取り戻すための筋力トレーニング。
  • ミニマリズム。なるべく物を持たないこと。
  • 人工的なものよりも、自然のゆらぎを楽しむ習慣。

 

これらはひとえに「野生に戻る」という一貫したコンセプトで理解できる。

とてもシンプルで、素晴らしく、そしておそらく真実に誓いであろうモデルだ。

  

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瞑想は GO WILD なのか?

ひとつ思うのは、瞑想も GO WILD の一種類なのか? という疑問だ。

確かに瞑想は、僕らが失った 野生を取り戻すための、大きな助けになる。

たとえば「肉体に対する洞察力」とか「感覚性」といったものを。

  

だけれど、それならば、瞑想は心理面に属するのだろうか、それとも肉体面に属する行為なのだろうか。

 

「心」と「肉体」がとても近いものだということは理解しているけれど、

それならば瞑想は、単に「肉体」や「感覚」を変えるだけのものなのだろうか。

 

僕はこれは半分は正解で、半分は間違えのような気がしている。

 

なぜなら人間の「愛」や「経験」といったものは、単に肉体面の現象としてだけでは、説明できないものだからだ。

肉体 VS 心理

こんにち、肉体と心理は、昔思われていたよりもずっと、別け隔てのないものだと理解されている。

でも、だからと言って、全く同一のものというわけでもない気がしている。

 

 

たとえばブッダが肉体的に優れたアスリートだったという話は聞かない。

キリストがムキムキのボディビルダーだったという説も聞いたことがない。

 

僕らの根本には、確かに野生が重要な位置を占めている。

だけど、人間として生まれてきた限りは「心理」にも大きな価値があるはずだ。

(知性や精神と呼んでも良い。ここでは同じ意味として扱う)

 

瞑想と肉体の関係

この心理と肉体の関係について、まだ僕は、うまく理解できていない。

納得のいくようなモデルを描けていない。

なんとなく「どっちも大事」とか「重要なのは、お互いのミックスインだ」とか、そういう曖昧な理解しか出来ていない。

 

たとえば、いったん体を動かしてから瞑想をすると、とてもスッキリした気分で集中できる。

この減少を考えると、肉体面が心理面に影響を与えていることは確実だ。

 

だけど同時に「瞑想は心理面のトレーニングじゃなかったの?」というような、どこかモヤっとした気持ちになる。

「それなら、体だけ動かしていれば良いんじゃない?」と少し思ってしまう。

 

瞑想とGO WILDの整合性

だが「瞑想もGO WILDの一種」だと理解した方が、少なくとも今の僕にとっては、非常に都合が良い。

なぜなら、そうすれば単一のモデルで世界を理解できるからだ。

 

お互いに独立した、しかも矛盾したモデルを描きながら、適切な方向に進むことは出来ない。

人間の脳は恐らく、そんなに器用には出来ていない。

 

二つの矛盾したモデルを描いたままだと、必ずどちらかが勝って、どちらかが負けることになる。

なので、今の僕にとって重要なのは「瞑想とGO WILDの間に、整合性を見つけること」なのだ。

瞑想は高次元の GO WILD (仮説)

いま僕が仮説として描いているモデルは、

「瞑想は高次元のGO WILDじゃないか」ということだ。

 

仮にこの世界の「意識」というものの由来が、我々の肉体よりも、もっと由来の古いものだとすれば。

瞑想は肉体面での「原始性」を越えて、意識における「原始性」へ向かうものだと理解できる。

 

肉体面での GO WILD は、僕らが肉体的に「中心」に戻るためのものだ。

そして瞑想のトレーニングも、僕らの精神が「中心」に戻るためのものだ。

(途中で肉体を媒介とするかもしれないが)

 

この両者が、どちらも「中心」に戻るためのものなのだとすれば、二つは全く矛盾していないことになる。

GO WILD とは、人間があらゆる面で「中心」に戻るためのコンセプトだ、と理解することが出来る。

 

中心って何?

これもまた、僕がほんのうっすらとしか理解できていないテーマだ。

 

  • 「中心とは何なのか」
  • 「ただ中心に戻るだけなんて、ファンタジーがなくて、退屈すぎる」
  • 「ロジックとして、自分から見ると、いつでも自分は中心にいるような気がする」
  • 「自分が中心にいるというのは錯覚で、本当の中心にたどり着いた時に、分かるものなのかもしれない」
  • 「中心に戻るというモデルの描き方は、そもそも適切なのだろうか」

 

いくつもの疑問が浮かんでくる。

 

この未解決の問題に対して、それなりの答えが出るのは、まだ先のことなのかもしれない。

 

それはまた、別の話で。