マインドフルネスやってみた

瞑想で人生のレシピ作り

思考はオムライスのケチャップみたいなもの

ケチャップが本当に大量に乗っていて、ぐちゃぐちゃなオムライスは、不味い。

ちょうど良い量が使われていれば、美味しく食べられる。

 

ケチャップ」が引き立つのは、あくまでも「オムライス」という本体があってのこそ。

 

思考も言ってみれば「スパイス」みたいなもの。

 

100%がスパイスじゃ食べられないし、不味いし、健康に悪い。

だけどうまく使えば、料理を美味しく食べるには役に立つ。

 

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オムライスのイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや

「英語脳」みたいな「瞑想脳」を作ろう

たとえば英語を覚える時は、頭の中で「日本語」を通さずに、ダイレクトに英語を理解するのが良いという。

 

つまり、翻訳や変換のフィルタを無くしてしまうこと。

 

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英会話のイラスト(男性) | かわいいフリー素材集 いらすとや

 

瞑想脳

これは、瞑想でも同じだ。

 

瞑想では、頭の中の思考ではなくて、その裏側にある「感覚的なもの」にアクセスすることが出来る。

 

すると、瞑想をするのはグンと面白くなる。

たとえば、自動車を走らせるのに、今までは運転手に間接的な支持を出すしかなかった。

だけど、それが直接ハンドルを握れるようになる感じだ。

 

思考はフィルタにすぎない

ふだん僕らは、頭の中の「思考」を通して、感覚にアクセスしようとする。

むしろ1%の思考が、99%の感覚を覆い隠してしまっているような状態だ。

 

だけど瞑想の技術が磨かれてくると、この「思考」というフィルタなしで、ダイレクトに「感覚」を扱えるようになるかもしれない。

 

その感覚を見つけたら、大事に覚えておこう。

それは僕らがハンドルを握れるチャンスかもしれない。

 

「ランナーズ・ハイ」のような「メディテーション・ハイ」は存在するか?

「BORN TO RUN」を読みながら今日、そんなことを考えていた。

ちゃんと書き方を揃えるなら「メディテーショナーズ・ハイ」だろうか。

 

僕は、理論的には存在すると思っている。

 

なぜなら、ランナーズハイは、もう肉体が「ダメだ」「限界だ」という領域を乗り越えた時に発生するものらしい。

そして、瞑想で感じる「苦しさ」「限界」も、本質的に肉体的なものだから。

 

 

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長時間の瞑想のために

たとえば、長時間瞑想をする時に、「ランナーズハイ」という考え方は役に立つと思った。

 

なぜなら、瞑想をしていて「苦しくなってきた」「限界が近いかもしれない」と感じた時にも

「もうひと息、頑張ってみよう」

というアクションを取りやすくなるからだ。

 

ただひたすら「つらさ」と戦うのではなくて、「肉体のつらい感覚」を冷静に観察すること。

さらには、その向こうに「ハイ」が待っているかもしれないと、楽しむことすら出来るかもしれない。

 

「つらさ」を楽しむ余裕

自分の限界を押し広げるトレーニングで、

「燃え尽きる」と「燃え尽きない」の命運を分けるのは、何と言っても観察力だと思う。

 

「つらさ」を冷静に観察できている間、むしろ楽しめている間は、きっと大丈夫だ。

逆に「つらさ」の中に溺れてしまうと、それは限界を伸ばすのではなく、単に苦痛を増しているだけで、次に瞑想をするのが嫌になるだろう。

 

おそらく前者は「肉体的なつらさ」と「冷静な呼吸」のミックス。

そして後者は「肉体的なつらさ」と「浅い呼吸」のミックスだ。

 

どこまで「笑顔」でつらさを楽しむことが出来るか。

これも瞑想のトレーニングになりそうだ。

 

もし瞑想での「ランナーズ・ハイ」のようなものを見つけた時は、またこのブログでお知らせしたいと思う。

 

 

GO WILDと瞑想の関係 ( あるいは野生とマインドフルネスの関係 )

最近僕は、瞑想とあわせて、少しばかり GO WILDを実践している。

 

  • 糖質制限。ナッツや肉や野菜を主食にすること。
  • たとえば夜は部屋を暗くする。室内でも外界の明るさを再現する。
  • 昼に短時間眠る。エネルギーのゆらぎを重視する。
  • エネルギーの回復のために歩く。歩き方を工夫するウォーキング。
  • 錆びついた体を動かす。肉体の俊敏さを取り戻すための筋力トレーニング。
  • ミニマリズム。なるべく物を持たないこと。
  • 人工的なものよりも、自然のゆらぎを楽しむ習慣。

 

これらはひとえに「野生に戻る」という一貫したコンセプトで理解できる。

とてもシンプルで、素晴らしく、そしておそらく真実に誓いであろうモデルだ。

  

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瞑想は GO WILD なのか?

ひとつ思うのは、瞑想も GO WILD の一種類なのか? という疑問だ。

確かに瞑想は、僕らが失った 野生を取り戻すための、大きな助けになる。

たとえば「肉体に対する洞察力」とか「感覚性」といったものを。

  

だけれど、それならば、瞑想は心理面に属するのだろうか、それとも肉体面に属する行為なのだろうか。

 

「心」と「肉体」がとても近いものだということは理解しているけれど、

それならば瞑想は、単に「肉体」や「感覚」を変えるだけのものなのだろうか。

 

僕はこれは半分は正解で、半分は間違えのような気がしている。

 

なぜなら人間の「愛」や「経験」といったものは、単に肉体面の現象としてだけでは、説明できないものだからだ。

肉体 VS 心理

こんにち、肉体と心理は、昔思われていたよりもずっと、別け隔てのないものだと理解されている。

でも、だからと言って、全く同一のものというわけでもない気がしている。

 

 

たとえばブッダが肉体的に優れたアスリートだったという話は聞かない。

キリストがムキムキのボディビルダーだったという説も聞いたことがない。

 

僕らの根本には、確かに野生が重要な位置を占めている。

だけど、人間として生まれてきた限りは「心理」にも大きな価値があるはずだ。

(知性や精神と呼んでも良い。ここでは同じ意味として扱う)

 

瞑想と肉体の関係

この心理と肉体の関係について、まだ僕は、うまく理解できていない。

納得のいくようなモデルを描けていない。

なんとなく「どっちも大事」とか「重要なのは、お互いのミックスインだ」とか、そういう曖昧な理解しか出来ていない。

 

たとえば、いったん体を動かしてから瞑想をすると、とてもスッキリした気分で集中できる。

この減少を考えると、肉体面が心理面に影響を与えていることは確実だ。

 

だけど同時に「瞑想は心理面のトレーニングじゃなかったの?」というような、どこかモヤっとした気持ちになる。

「それなら、体だけ動かしていれば良いんじゃない?」と少し思ってしまう。

 

瞑想とGO WILDの整合性

だが「瞑想もGO WILDの一種」だと理解した方が、少なくとも今の僕にとっては、非常に都合が良い。

なぜなら、そうすれば単一のモデルで世界を理解できるからだ。

 

お互いに独立した、しかも矛盾したモデルを描きながら、適切な方向に進むことは出来ない。

人間の脳は恐らく、そんなに器用には出来ていない。

 

二つの矛盾したモデルを描いたままだと、必ずどちらかが勝って、どちらかが負けることになる。

なので、今の僕にとって重要なのは「瞑想とGO WILDの間に、整合性を見つけること」なのだ。

瞑想は高次元の GO WILD (仮説)

いま僕が仮説として描いているモデルは、

「瞑想は高次元のGO WILDじゃないか」ということだ。

 

仮にこの世界の「意識」というものの由来が、我々の肉体よりも、もっと由来の古いものだとすれば。

瞑想は肉体面での「原始性」を越えて、意識における「原始性」へ向かうものだと理解できる。

 

肉体面での GO WILD は、僕らが肉体的に「中心」に戻るためのものだ。

そして瞑想のトレーニングも、僕らの精神が「中心」に戻るためのものだ。

(途中で肉体を媒介とするかもしれないが)

 

この両者が、どちらも「中心」に戻るためのものなのだとすれば、二つは全く矛盾していないことになる。

GO WILD とは、人間があらゆる面で「中心」に戻るためのコンセプトだ、と理解することが出来る。

 

中心って何?

これもまた、僕がほんのうっすらとしか理解できていないテーマだ。

 

  • 「中心とは何なのか」
  • 「ただ中心に戻るだけなんて、ファンタジーがなくて、退屈すぎる」
  • 「ロジックとして、自分から見ると、いつでも自分は中心にいるような気がする」
  • 「自分が中心にいるというのは錯覚で、本当の中心にたどり着いた時に、分かるものなのかもしれない」
  • 「中心に戻るというモデルの描き方は、そもそも適切なのだろうか」

 

いくつもの疑問が浮かんでくる。

 

この未解決の問題に対して、それなりの答えが出るのは、まだ先のことなのかもしれない。

 

それはまた、別の話で。

 

 

いちご大福と子供と大人

僕らは一番最初、ピカピカの苺として生まれてくる。

 

やがて、成長する。

そして、いちご大福になる。

 

大人になるということは、いちご大福になるということだ。

自然の苺よりも、もっと甘くて美味しいお菓子になる。

 

ただひとつ、大きな落とし穴がある。

それは、僕らが大人として成長する間に、最も大事なはずの「苺」自体が腐ってしまうということだ。

 

 

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いちご大福のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや )

 

ピカピカの苺を取り戻す

マインドフルネスのトレーニングは、何かを積み上げるためのものじゃない。

僕らがすっかり失っている「中心」を取り戻し、錆びついた感覚や、原始性、創造性を磨き戻すためのものなのだ。

 

積み上げるのではなく、輝ける中心を取り戻すための行為。

それがマインドフルネスの本質だと思う。

 

大人と子供

それなら、子供は完全に大人よりも優れていて、僕らはただ子供に戻るだけで良いのだろうか?

それならば、僕らが大人として成長したことには、何の意味があるのだろう。

 

ところで、子供はピカピカの苺だけれど、大福がない。

つまり大人のように豊富な経験や、社会的な役割があるわけではない。

 

だけど僕ら大人が苺の新鮮さを取り戻したら、

ピカピカの新鮮な苺が入った、美味しいイチゴ大福になることが出来る。

 

つまり、この社会の中にいながら、最も重要な「中心」を取り戻して生きること。

それには大きな意義があると思う。

 

疑問

マインドフルネスが「生まれた時の状態」を取り戻すものだということは、薄々気付いていた。(多くの本にもそう説かれている)

 

だけどそれなら、僕らは「間違って歩いてきた道」を「ただ元に戻る」だけなのだろうか。

そんな大きな疑問があった。

 

そこで思いついたのが、この例えだった。

 

仮に、たとえマインドフルネスが「間違いを正すだけのもの」だとしても、間違って歩いた道を戻るという、その行為自体に、意義や、物語としての意味があるのだと思う。

僕らはその「道なり」を知っているわけだし「どこに落とし穴があるか」も覚えているのだから。

 

 

厳密に言うと

ブッダが大人になってから、長い瞑想の後に悟りを開いたように。

ピカソが大人になってから、長い年月をかけて「子供のような絵」が描けるようになったように。

 

大人になってから、訓練によって「中心」を取り戻すということは、子供が無意識にそれをおこなうよりも、ずっと再現性が高く、レベルが深いものだと思う。

(僕の語彙も理解も足りなくて、すごく抽象的な表現になってしまうけれど)

 

それは自分の原始性や、意識というものに対して、良い付き合い方を覚えるということなのだ。きっと。

瞑想が天国だとイメージしてみる

今日、瞑想をしていたら、うとうと眠くなった。

そして30分間、眠った。

(30分のうたた寝は、体には最高らしい)

 

そして起きたら、体はふわっとした心地良い感じに包まれていた。

そしてそのふわふわした感じのまま、さらに30分の瞑想を続けた。

 

そこで僕は、天国を見つけたような気がした。

これが瞑想の専門用語で「スッカ」と呼ばれるものかもしれないと思った。

 

それまで、普段の瞑想は、僕にとって集中力を要するものだった。

呼吸に集中する。体の感覚に注意を向ける。

退屈を感じたら、また注意を戻す。

ある時は、ぐるぐると回る思考を整理する。

だけどリラックスすると、10分程で眠くなったりして、そのまま眠りにつく。

 

しかし今日は「リラックスの先にあるエリア」を見ることが出来たように思う。

 

はじめて、自転車に乗れた時の気持ち。

まだいつ倒れるか分からない。

ドキドキしながら、なるべく長い距離を走ってみようとする。

5分ぐらいは足をつかずに走れたような気がする。

 

は絶妙なタイミングで、ある程度の時間、瞑想を続けたおかげで、脳が自動的に「天国」を見つけてくれたのかもしれない。

あるいは僕が、意識的に「天国」を見つけようとしたせいなのかもしれない。

おそらくその両方が理由なのだろう。

 

だが今日僕が意識したことは、

「天国にいるみたいに、瞑想してみよう」というイメージを描いたこと。

すると、脳の中で「別のレベルの感覚」が動き出した。

どうやらふだん、僕がイメージを描いていたような「リラックスの延長線上」とは、まったく別のレベルに、天国は存在するようだ。

 

天国の扉を叩くためには、天国行きのチケットがなければいけない。

それは普通のチケットとは全く違う色をしていて、かなり違う形をしている。

たとえるなら、そんな感じ。

 

もし瞑想が天国なら、瞑想をすることは生活よりも楽しくて、いつまでだって続けたいと思うはずだ。

もし瞑想が天国なら、何度だってその天国に行きたいと思うはずだ。

 

 

要するに「楽しいことはやりたくなるし、続けたくなるし、上達する」ってこと。

 

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天国のイラスト(背景素材) | かわいいフリー素材集 いらすとや

 

 

まとめ

  • 良好なコンディションで、まとまった時間の瞑想をしてみる
  • 「もし瞑想が天国なら」というイメージを描いてみる
  • 「自転車に乗れた」と思ったら、なるべく長く、その自転車で走ってみる

 

 

 

 

人の批判に強くなるイメージの描き方

人間は社会的動物なので、基本的に「批判」や「人の意見」にはすごく弱く出来ている。

なので「批判」や「意見」の付き合い方は、かなり重要だ。

 

たとえ強靭な肉体を持つアスリートだって、人の批判には弱いかもしれない。
だからこそメンタル面を鍛えることが重要だと言われるし、心理的なクリアリングのうまい選手が優秀な成績を残すんだろう。

 

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矢印の方向

 

よく言われることは、人の批判を「個人的攻撃」だと受け止めるのは、良い習慣ではない。

こういうモデルを描いていると、心身はダメージを受けやすい。

 

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矢印がどこに向いていると理解するか。

 

「自分」ではなく、

「物事」に対して矢印が伸びていると理解すること。

これが批判に強くなるための最初の一歩だ

 

「物事」は「自分自身」ではないし、
「矢印」も「自分自身」ではない。

 

このモデルを描くことは、人の意見を冷静に受け止める上での、大前提だと思う。

 

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まあ、これこそ「頭では分かっていても難しい」という話ではあると思うのだけど。

それぐらい「人の意見」との付き合い方は、そもそも難易度が高いからなのだと思う。

 

個人のコンテキスト


もうひとつ重要なことは、

人がひとつの「物事」に対して話す時は、

それぞれ別々の道を歩いてきた人たちが、それぞれ別のコンテキストで、意見を言うということだ。

 

なので、意見や解釈が違って当たり前。
それぞれに「屈折率の違うレンズ」を、何層にも通した状態だと言えるだろう。

 

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色の違い

なので、ひとつの物事が、赤色なのか、緑色なのか、紫色なのか、と話していても、
だいたい、結論が出ることはない。



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誰かを議論で打ち負かしても、相手は納得はしないだろう。

自分の「色」を、相手に無理やり認めさせても、時間が経てば相手も、それぞれの「色」に戻っていくだけだ。

 

 

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なぜならほんの一時の他者との議論よりも、お互いの「通ってきた道」や「コンテキスト」の方が、はるかに大きくて地盤が強いのだから。

カチアkんは宝物に似ている

そして個人の価値観や意見というのは「宝物」みたいなもので、
「これだけは譲れない」っていう性質のものだ。

 

 

「俺の宝物がいちばん価値があるんだ!」
「いや、私の方が!」

と競い合っても、そもそも色が違うんだから、勝負する意味はそんなにないと思う。

 

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それよりも、お互いが「別々の色の宝物」を持っていると解釈した方が、人生はうまくいくんじゃないだろうか。

(「そんなこと分かってるよ!」と思った人はごめんなさい)

 

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世界が敵に見える現象

もう1点。

 

誰しもいちどは経験したことがあると思うけど、

人に批判されると「世界中が敵に見える現象」というのが起きやすい。

 

たとえば5人の人間から、立て続けに批判されたら、世界中の人から攻撃されているような感覚を覚えても不思議じゃない。

 

 

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自分以外の5人が全て、自分とは違う意見を持っている。

この計算で言うと、世界中の人すべてが、自分の敵であってもおかしくない。

 

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数人の意見 VS 世界中の意見


だけど実際には、たとえば地球上の70億人の中の、(日本人であれば)1億人ぐらいの国民の、100万人ぐらいの地域の中の、1万人ぐらいコミュニティの、さらに数人から意見をもらっているに過ぎない。

これはリアル社会においても、ネット社会でも言えることだ。

 

 

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僕らが接することが出来るのは、ごくごく限られた人の意見だけであって、
残りの99.999%の意見は、いわばブラックボックスの中にあると言えるだろう。

 

(「サイレントマジョリティ」という言葉もあるように「声が大きい人の意見」が、そのまま世間の意見だとは限らない)

 

 

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その内訳は、蓋を開けてみれば「自分と同意見」が圧倒的かもしれない。

 

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逆に「自分とは反対意見」が大多数かもしれない。

 

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だけど重要な事実は、僕らはこのブラックボックスの蓋を開けることは、どんなに頑張っても出来ないということだ。

70億人に意見を聞いて回るわけにはいかない。

 

なので「世間の人はどう考えるんだろう」と妄想を掻き立てることは、あまり意味がない、というのが僕の「意見」だ。 


たとえばYahoo知恵袋で「常識」について質問したって、
回答をもらえるのは「Yahoo知恵袋をよく使うユーザー数人の、ごく範囲の限られた意見」だけ。

 

それは量的にも質的にも、とても「常識」と言えるものではないし、世間一般を反映させているわけではない。

 

ロジックが味方になる時

 そして、もし仮に、多くの人が自分と反対意見だとしても、
自分自身の「論理」を持っており、その道筋が整っているなら、人の意見に揺らされずに、自信を持ちやすいだろう。

 

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人の意見を取り入れる

もし人の意見を聞いて納得した部分があれば、
それを「勝ち負け」で判断するのではなくて「今後の自分の行動」を修正すれば良い。

 

これも、人の意見を「個人攻撃」だと受け止めずに、冷静な心を保つからこそ出来る芸当だ。

 

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まとめ

最後にもう一度だけ思い出す。

人は基本的に、批判にすごく弱い。

 

なのでここで紹介したようなモデルを、頭で何度描いたとしても、
すぐに批判や意見に強くなれるわけではないかもしれない。

 

だが「適切な地図」をよりどころとして、心の持ち方を工夫することなら出来るだろう。


 

基本的なモデルを理解して、心を平静に保ち、
他の人の「コンテキスト」や「意見」に対して、愛さえ感じられる状態。

 

これは人間として、そんなに悪くないものなんじゃないかと思う。

 

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マインドフルネス、やってみよう。

心を平静に保つなら、なんと言ってもマインドフルネスのトレーニングが有効だ。

 

「社会的不安を感じている自分」「人の批判に反応している心」を観察することで、それが「世界の縮図」ではなくて「ただの自分の反応」であることに気付けるかもしれない。

 

難易度が高いだけに、課題として取り組む価値は十分にある。

 

 

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