呼吸のクオリア 〜ビギナーズマインドを取り戻す〜
呼吸には質がある。
「マインドフルな呼吸」。
「心地良い呼吸」。
質感とか、クオリアとでも言えば良いだろうか。
「スピード」や「量」だけでは測定できないもの。
呼吸の「ニュアンス」が存在する。
そしてどうやら、マインドフルな気持ちは、マインドフルな呼吸と、強く関係しているみたいだ。
呼吸が関係するのは、単に、体や心の状態だけじゃない。
心が感じ取る「質感」も、呼吸の「質感」と連動しているような気がした。
マインドフルネスの質感
「マインドフルネスな質感」は、存在するものだった。
ビギナーズラックとでも言うんだろうか。
トレーニングを始めたばかりの頃、偶然にも僕は、マインドフルネスの最も素晴らしい部分と出会えていたのだ。
マインドフルネスを始めたばかりで、驚きが心を満たしていただけだ、と思い込んでいたけれど。
その質感は、しばらくの間、なかなか現れずに、まるで消えたのようだった。
なのでその間、僕はトレーニングで、他の心の能力を鍛えていった。
(たとえば基本的な集中力とか、自己観察力とか)
そして1年が経ち、初心者の頃に感じた「最も素晴らしい部分」を、取り戻そうとしている。
しかも今度は偶然じゃなく、呼吸によって再現できる、より明確なものとして。
ビギナーズマインド
マインドフルネスの世界では「初心者の心=ビギナーズマインド」が重要だと言われる。
僕はこのことを、今回改めて実感した。
そしてこの「ビギナーズマインド」さえも、恐らく僕らは、トレーニングによって身につけることが出来る。
なぜならマインドフルネスのトレーニングの本質そのものが、まさに、初心に戻るということなのだから。
『喜びも幸福感もなしに「喜びを経験しながら、息を吸う」と唱えても意味がありません』
(テイク・ナット・ハン「リトリート」より)
まさにマインドフルネスは「実感」のトレーニングなのだと思う。
言葉は、実感のトリガーにはなる。だけど実感そのものではない。
実感こそが本質だ。
だけど言葉をうまく使えば、より簡単に実感を扱えるようになる。
言葉は調理具で、心は食材だ。
この二つで「実感」という美味しい料理を作ることが出来る。
心のスピード / 心のバリエーション
心に起こることには、本当に色々なバリエーションがある。
たとえば、ものすごいスピードで流れていく、レベルの強いもの。
速いスピードで流れていく、中ぐらいのレベルのもの。
スピードが低くて、手に取りやすいもの。
スピードは速いけど、ものすごく微妙で、分かりづらいもの。
だけど確かに存在するもの。
これはよく手にとって、観察してみなければ分からない。
心の現象が、それぞれ作用しあっているのに気付く。
これが法則を理解すること。
自分はブラックボックス
僕らは「自分で自分を理解している」と思い込んでいるけど、案外、理解してない。
たぶん僕らが思うよりも、1%ぐらいしか理解していない。
「自分」っていう名前がついているけど、よく分からない、直接コントロールの出来ないブラックボックスみたいなものだと思う。
だからこいつを理解するには、とりあえず実験が必要だ。
ブラックボックスにひとつのものを入れたら、何かが反応として返ってくる。
だけど、何が出てくるかを予想するのは、わりと難しい。
別のものを入れたら、違うものが出てくる。
だけど同じものを入れたはずなのに、違うものが出てくるパターンもある。
組み合わせによっても、反応は変わったりする。
組み合わせが同じでも、分量が違うというパターンもある。
なのでまず「自分はブラックボックスだ」「反応が予測できない」という前提に立って、色々な実験をしてみる。
そしてなんとなく、だんだん、全体の法則性のようなものが分かってくる。
これが「実験」「観察」「ルールの理解」というプロセスなのだと思う。
Q.なぜ本を読むのか? A.読書の本質はマッピング
今日考えたこと。
読書は「地図を描く行為」だと思う。
知識を積み上げる?
こう理解するまでは、読書は「積み上げ型の行為」だというイメージを描いていた。
自分は読書での勉強が好きだと自認しているが、
自分のKindleライブラリなんかを見ると、なんだか虚しく感じることがあった。
「こいつは、これだけ知識を積み上げて、一体何がしたいんだろう」って。
ただ、ちょっとした幸福が欲しいだけなのに、こんなにも膨大なコストをかけて、勉強しなくちゃいけない。
これが、のすごく大変なことに思えた。
なので、勉強することがワクワクすることもあるけれど、
逆にすごく大変で、虚しく感じられることもあった。
1枚の地図を描く
だけど読書というのは、知識を積み上げるのではなく、1枚の地図を描く行為だ。
読書によって僕らは、物事に対する心的イメージを作り、世界観の地図を描いていく。
こう理解すると、本を読むということは、この地図を継ぎ足したり、書き換えたりしていくということだ。
足りない部分は継ぎ足せば良いし、間違っている部分は書き換えれば良い。
そして僕らは、より適切で、解像度の高い地図を描こうとする。
マッピングを続けることで、まだ自分の地図にない、外側の空白地帯にも気付くかもしれない。
本同士は補い合う
こう理解すると、それぞれの本同士は、決して打ち消し合うものではない。
単純に「これが正解」「これが間違い」というものではない。 ひとつの本の中には、正解も間違いも同時に含まれているはずだ。
なので本ごとにマルバツを付けるのは適切じゃない。
そうではなくて、本同士はお互いに補完しあっている。
どの本も「より適切な地図を描くためのピース」として働くことが出来る。
僕の今までの、読書に対する心的イメージは、どこかが間違っていると薄々感じていた。
だけど読書が「地図を描く行為だ」と理解することで、この問題はある程度、解決したように思う。
重要なのは、適切な地図を描けるかどうかであって、ただ多くの本を読んだり、知識量を増やすことではない。
マッピングを基準にした読書法
たとえば心の地図がある程度、完成していると思う部分なら、あえて同じジャンルの本は読まなくても良いかもしれない。
たとえば心の地図がある程度、完成していると思う部分なら、あえて似たジャンルの本は読まなくても良いかもしれない。
もし心的イメージが失われかけている部分があれば、また必要な本を読み直せば良い。
「旅したことのない、より外側の世界を知るため」に、新しいジャンルを読んでも良い。
こう理解すると、今までよりもずっと適切な本の選び方、読み方が出来そうな気がしてきた。
知識に溺れることも少なくなり、ある日は感動的に読めた本が、別の日にはそうじゃない理由も納得がいくだろう。
これから、僕はより適切な地図を描くために、本を選び、読みたいと思う。
究極の疲労回復方法「シリコンバレー式 よい休息」
「エネルギー状態が高い」ということは、人間にとって最大にも近い喜びだと思う。
- 幸福感を感じながら、色々な物事がうまくいく
- 仕事などで、パフォーマンスの高まりを感じる
- 周囲の状況がよりクリアに、よく観察できるようになる
- クリエイティビティが高まり、コミュニケーションの機転が効くようになる
- 他の人にも、自分にも優しく接することが出来る
- 人生を十分に満喫している実感を得られる
だけど僕らは「最高のエネルギー状態」というものを、一体、いつ最後に経験しただろう。
工夫次第で、この喜びにアクセスできることが出来るはずなのに。
疲労の悩み
僕の場合、仕事が終わった時、疲れ果てて帰る日と、むしろエネルギーを感じながら帰れる日がある。
日によって、まったく逆のエネルギー状態で、仕事を終えるのだ。
この違いの理由が、全く分からなかった。
「体調にはそもそもコントロールできない部分があるのかもしれない」
「人体の不思議だ」と思って、なかば諦めていた。
なぜなら、
睡眠のせいだけじゃない。
食事のせいだけじゃない。
心理状態のせいだけじゃない。
仕事の難易度のせいだけじゃない。
全ての条件が良くても、なぜか疲れる時がある。
逆に条件が悪くても、エネルギーを感じる時もある。
何か、重要なポイントを見落としているような気がした。
これが最近の一番の悩みだった。
「よい休息」との出会い
そんな時、この本と出会った。
「よい休息」
これは本当にすごい本だ。
少なくとも、今の僕の状況に素晴らしくマッチした。
そしてこの本を参考に「休息のとり方」を工夫してみた。
すると
「完全に疲れ果てて帰る日」は減り、
「エネルギーを感じながら帰れる日」が、目に見えて増えてきた。
明らかに今までとは、肉体が「違うパターン」を描いているという実感がある。
玉石混交の数万冊の本の中から、輝く真珠を見つけた気分だ。
休息を工夫する
休息の工夫の仕方。
抽象的に言うと、
- 「回復に対する認識を、根本から改める」
- 「適切なタイミングで回復をおこなう」
- 「適切な種類の回復をおこなう」
- 「適切な時間、回復をおこなう」
というようなことを実践した。
具体的に言えば、
- 「自分の疲労度に対して、より意識的になる」
- 「疲労度に対しての否認をやめる」
- 「休息方法としてウォーキングを取り入れる」
- 「パフォーマンス状態が7ぐらいに落ちてきたら、何らかの休息をとる」(最悪を待たない)
- 「偉大なる昼寝の習慣をつける」(チャーチル大統領もやっていた!)
というような実践方法だ。
疲労の心理的否認
特に僕の場合
「疲労に対しての、心理的否認」が大きく、
これが疲労の一番の原因だということに気付いた。
たとえば
「疲れているように思えるけど、気のせいだ」
「パフォーマンスが落ちてきてきた気がするけど、まだ行けるはず」とか。
そんなことを繰り返して、疲労の崖を落ちていっていた。
合点が行った。
これじゃ「疲労の原因」が分からなくて当たり前だ。
なぜなら、自分自身で「疲労していること」さえも否定しているのだから。
まさにパラドックスだと思った。
そこで僕は「疲労を否認する習慣」を「疲労を回復する習慣」に取り替えることにした。
青信号・黄色信号・赤信号
重要なのは、自分のパフォーマンス状態を、心理的否認を起こさずに、観察すること。
そして適切な回復行動を取ることだ。
僕はパフォーマンス状態には、大きく三つのレベルがあると思う。
「青信号」「黄色信号」「赤信号」だ。
そして重要なのは、
この「青信号」と「黄色信号」の間で、安全にパフォーマンス管理をすることだと思う。
「赤信号」を通り過ぎてしまうと、もう、しばらくは帰ってくられない。
僕はこれを「疲労度の崖」だと思っている。
崖から這い上がるのは大変だ。
まずは「そこに落ちないこと」が重要になる。
陸地まで戻るのは大変だ。
「海に落ちる無謀さ」は要らない。
「陸地を慎重に進む勇気」が必要だ。
この二つは、まったく別のタイプの行動パターンだ。
だから、全く違った結果を生むと思う。
いや、この線の描き方は、誤解を招くかもしれないので少し訂正しよう。
実際には「エネルギーのゆらぎ」自体は、ダイナミズムを大きく取るのが良い。
「エネルギー消費」と「回復」のレンジは大きくて良い。
ただ同時に「赤信号までには達しない」というやり方が良いように思う。
自己観察力
ところで、パフォーマンス状態に対する「自己観察力」というものがあるとすれば、ここにもパラドックスがある。
「自己観察力」は、疲労度に応じて摩耗して、小さくなるということ。
つまり疲労度が「赤信号」レベルまで近づくと、そもそも心理的否認をしやすくなり、自分自身の状態を正確に把握できなくなるのだ。
言うなれば「自己測定不能ゾーン」に達してしまう。
これが「理由も分からず疲労する理由」だと思う。
だからこそ、
まだ自己観察力が残っている「黄色信号」のレベルで、
回復行動を取ることが必要なのだ。
つまりパフォーマンスの最高が10だとしたら、
1とか2まで疲労してから回復しようとするのではなく、
7か8ぐらいのところで、適切な休息をとるようにする。
(この数字に関してはあくまで例なので、実践する時は、最も良いレベルやタイミングを、色々と試してみるのが良いと思う)
回復は技術
そしてもうひとつ、重要な事実は「回復は技術」だということだ。
もし回復行動をとっても、うまく回復できないとしたら、
それは回復の種類や、タイミングが間違っていたり、回復のクオリティが低いせいかもしれない。
僕の場合は
- 「ウォーキング」(肉体的な回復)
- 「目を閉じての瞑想」(心理的な回復)
- 「昼寝」(睡眠的な回復)
の三つを、回復行動の主軸にしている。
これだけ書くと取るに足らない行動のように思えるのが、もっと重要なのは、前述のとおり「タイミング」や「量」や「回数」や「回復行動の質」だ。
特にこのうち最初の二個は、技術的にも磨いていけるものだと思う。
パフォーマンス低下のサインにも注意を払っている。
- 「仕事が堂々巡りを繰り返している」
- 「最高状態のパフォーマンスではない」
- 「心が、疲労を心理的否認しようとしている」
こういう時に回復行動をとると、「自分の予想もつかない効果」が起こり、頭がクリアになり、仕事が快適に進む。
頭では「これぐらい回復するかも」「まったく意味がないんじゃないか」という予測を立てても、体は予測通りには反応しない。
「全く無駄に思える5分のウォーキング」が、時には奇跡だとも思えるパフォーマンス回復をもたらしてくれるのだ。
このように、上手な回復行動を身につけると、自分自身の仕事での幸福にもつながるし、仕事でもパフォーマンスが上がる。
「嘘だろ、こんな世界が広がっていたんだ」という感じだ。
回復の革命
僕らは恐らく、回復に対する心的イメージを、ベースから変えてしまった方が良いのだ。
人間の動物的なリズムは、工業製品のように直線的には出来ていない。
(昼休みが「決められた1時間」なんて、まったく生体を無視したシステムだと思う)
だから個人個人で工夫して「人間の動物的なリズム」や「自然なゆらぎ」を取り戻していく必要がある。
- ひとつは、夜には疲れ果てて、次の日も辛さを感じ、毎日、いつ終わるかを待つような働き方。他の人にも、自分にも厳しくなるやり方。
- ひとつは、常にエネルギーを感じて、幸福で、パフォーマンスも上がる働き方。他の人にも、自分にも優しくなれるやり方。
僕は後者を選びたい。
マインドフルネスのトレーニング
ところ、マインドフルネスの練習を積んでいると、三つの良いことがある。
- 「自己観察力」が高まるので、パフォーマンス低下のサインに気付きやすいこと。
- 常に平静な呼吸を心がけることで、エネルギーの消費を最小に抑えることが出来ること。
- それぞれの回復行動のクオリティを高められること。たとえばウォーキングする時も、最もリラックスできる歩き方を工夫しながら、頭をぼーっとさせることも出来る。
なんとも素晴らしい。
是非「マインドフルネスの技術」を「休息の技術」と組み合わせて使ってみよう。
マインドマップよりずっと強力な、自分で出来る「モデルの描き方」
マインドマップというのは、物事を整理して理解するための、有名な手法だ。
だけど僕は、なんかしっくり来ない。
「役に立つのは分かるけど、なんか自分の肌には合わないな」といった感じ。
だけど、最近気付いたのは、マインドマップよりもずっと強力で、原始的な手法があるということだ。
(ちなみにここでいう「原始的」というのは褒め言葉だ)
マインドマップというのは、図の描き方の、1種類のフォーマットにすぎない。
あまりに限定的なやり方だと思う。
だから役に立つこともあれば、立たないこともあるし、フォーマット特有の限界もある。
モデルは自分で描ける
だけどもっとプリミティブなのは、
「絵を描く」「モデルを描く」という行為そのものだ。
僕が思うに「フリーフォーマットで、絵を描けるようになる」のが、一番強い。
「自分で出来るようになる」のが最強で、最も応用が効くし、なおかつシンプルだ。
たとえば芸術家が、白紙のキャンバスに絵を描いていくように。
昔の人が「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ」と言ったように。
絵を描く技術。
モデルを描く技術。
この技術は、いったん身につければ、世界を理解するために、本当に役立つスキルだと感じている。
モデルと無意識
「モデルだって? 馬鹿らしい」
「絵を描くのは、自分には合っていない」
と、人によってはそう思うかもしれない。
だけど、事実は。
たとえふだん、意識していなくても僕らはイメージやモデルを使って世界を理解していることに代わりはない。
僕らが「モデルで世界を理解している」ということさえ気づいていないだけだ。
絵やイメージで世界を理解するということは、僕らが普段、日常的におこなっていることだ。
(その絵やイメージが間違っているか、適切であるかはさておいて)
間違ったモデル、適切なモデル
たとえば、具体的な例を出そう。
これはかなり古いモデルだが、今でも無意識に信じている人もいるかもしれない。
「お金があればあるほど、比例して幸福になれる」というモデル。
だけど事実としては、年収と幸福度は、ある一定のラインからは相関関係をなくすことが知られている。
これがより適切モデルであり、より現実を反映した理解だ。
たとえば別の例。
昔は精神と肉体が、完全に二つに分かれるものだと考えられていた。
だけど今では、科学的にも、心と体は分け隔てられない部分が多く、より曖昧模糊としたものだと考えられている。
(もしくは1個のものだと考えられている)
このように、僕らは無意識に何らかのモデルを描き、そのモデルをフィルタとして、世界を理解している。
あるモデルは学校で教えられたものかもしれない。
あるモデルは科学者が考えたものかもしれない。
あるモデルは個人が、人生の中で偶然身についたものかもしれない。
僕らが「モデル世界を理解している」ということは、隠された秘密なのだ。
モデルを描く技術
だけど、モデルというものは、そもそも間違っている場合がある。
間違ったモデルを描いたままだと、物事はなかなかうまく進まない。
(間違った地図で目的地にたどり着くのが難しいように)
なので「より適切なモデルで世界を理解すること」は、あらゆる物事において、間違いを避けたり、達成したりするために、大いに意味がある。
モデルの描き方がうまくなれば、僕らは歪んだ地図を修正できる。
そうすれば、自分が望む方向に、自分の足で歩いていけるようになるはずだ。
だけどひとつ問題がある。
それは、僕らはほとんどの場合、適切なモデルを描くための、適切な手段を持ち合わせていないということだ。
本とモデル
たとえば優れた本を読めば、絵や図として、何らかのモデルが描かれていることもあるだろう。
だけど文章が書かれているだけで、具体的なモデルが図示されない本のほうが一般的だ。
この場合、僕らは頭の中にモデルを描き出すしかない。
これがうまい人はうまくできるだろうが、下手な人は文章を頭に通過させるだけで終わってしまうかもしれない。
仮にこの世の中に
「自分が求めるような、適切なモデルが描かれた本」が存在するとしても、
いつでも適切な本に巡り会えるとは限らない。
その本に巡り合うまでに、膨大な時間がかかるかもしれない。
それに、もしかしたら、そんな本は世界に存在しないかもしれない。
それならば「自分自身でモデルを描いてしまう」方が手っ取り早いじゃないか。
人類はモデリングに長けている
このスキルは非常に強力だ。
そもそも自分が深い知識を持ち合わせていない分野にも、インスタントなモデルを描くことが出来る。
逆に、本などで読んだ情報を頼りに、それをイメージとして、より深い理解に落とし込むことも出来る。
いわば、サバイバル術だ。
日本人というものは特に、絵や図を描いてモデルで世界を理解するというプロセスが苦手だというイメージがある。
僕自身がまさにそうだった。
物事に対して平面的な理解をすることが多かった。
だけど人類の歴史でいうと、文章が生まれたよりも、ずっと昔に「絵を描く」という行為は存在したはずだ。
つまり、モデリングは文章理解よりも、ずっとプリミティブな行為だ。
やってみよう
ところで、自分でモデルを描くための、具体的な方法。
僕らは普段、自分が無意識に描いているモデルを、世界そのものだと思い込んでいる。
まず、この心的イメージに気付くことが重要だ。
(間違いに気づいていないものは、意識的に修正できない)
だけどよく意識のプロセスを観察してみると、
それは自分が描いているイメージに過ぎず、世界をフィルタリングしているモデルにすぎないと分かる。
(「自分はどんなイメージで○○を理解しているだろう?」と問いかけてみると良いだろう)
次に、それに替わるモデルはないだろうかと、イメージしたり、考えてみる。
(本を読んだりして、情報収集をするのは大きな助けになる)
練習をしてないと、最初はうまく思いつかないかもしれない。
だが「今、自分が持っている課題」に関連する本を読んだり、
仮設を立ててみたり、心に問いかけたりすることで、新しいイメージが浮かぶこともあるだろう。
そして新しいモデルが気に入ったり、
それがより適切な世界を描いてくれていると思ったら、新しいものを採用すれば良い。
こうして僕らは「新しい世界の理解」を手にすることが出来るのだ。
課題解決とモデル
これは別に、なりふりかまわず、何に対してでもモデルを描いてみろ、という話ではない。
(そうしても良いだろうけど)
僕らがいま、問題意識を感じている事柄。
「試行錯誤しているけれど、どうもうまくいかないな」と感じている、根の深そうな課題。
その基礎には「間違った心的イメージ」「間違ったモデリング」が存在して、
それが課題解決の最大のネックになっていることが本当に多いと思う。
だから
「自分はどんなモデルを描いているだろう?」
「新しいモデルは描けないだろうか?」というアプローチを取ってみるのが良いと思うのだ。
これは問題解決の大きな武器になる。
手を動かしてみよう
ポイントは、実際に自分で絵を描いてみることだ。
ツールとしては、紙でも、タブレットでも、スマホでも良いと思う。
僕の場合はまず、頭だけでモデルを描いてみる。
今時分が感じている課題に対して「今僕は、どういう間違ったモデルで、それを理解しているだろう」と考えてみる。
(たとえばエネルギーについてとか、休息についてとか)
そして、自分が納得いくまでイメージを描いたり、仮説を立てて捨てたりする。
そしていったん
「これが正解かもしれない」というモデルをイメージできたら、それを実際の絵に落とし込んで見る。
(ちなみにiPad mini のMemopadというアプリを愛用している)
手で描いてみて、それを自分の目で見て、脳に染み込ませるイメージだ。
モデリングは超基礎スキル
学校では教えてくれない。
誰もやり方を教えてくれない。
世間で話題にものぼらない。
「自分でモデルを描く」という行為。
だけどこれは、人の意識が関わるものなら、あらゆる分野に応用できる超基礎スキルだ。
(人の意識に関わらない活動なんて、果たしてあるだろうか?)
ただし、モデルは戯画に過ぎない
ひとつ注意。
たとえ、どんなモデルを描いたとしても、
それは「この世界を理解するための、かなり単純化されたものに過ぎない」ということだ。
なので、どんなに良いモデルが描けたと思って、完全に正解というものはない。
どんなモデルでもある程度は間違っているし、ある程度は正解だと言える。
なので僕らに出来ることは
「適切なシンプルさを持った、最も有効に働くモデルを描くこと」なのだ。
(世界というものは、そのままでは複雑すぎて、理解することすら出来ないから)
ところで、マインドフルネスは
トレーニングを続けていると、心的イメージを描いたり、それに意識的にアクセスしたりするのがうまくなる気がする。
マインドフルネスは心的なもの全般に対するトレーニングなので、当たり前と言えば当たり前かもしれない。
ストレスが減って、しかも世界をより良く理解できるようになるなんて、やっぱりマインドフルネスは悪くないやつだ。