マインドフルネスやってみた

瞑想で人生のレシピ作り

じぶんのもちもの、ぼくのもの

「これは、僕のものだ」っていうものって、ある?

「これは僕のものだから、人にはさわらせない」っていうもの。

 

それは、おもちゃかもしれない。

家かもしれない。

お母さんかもしれない。

 

だけど、ちょっと思い出してみよう。

そって、一体いつから「僕のもの」だと思ったんだろう。

 

もしかして「僕のもの」だと思っているものは、

一番最初は、誰のものでもなかったんじゃないかな。

 

たとえば、おもちゃだったら、お母さんに買ってもらったのかもしれない。

 

たとえば家だったら、お父さんが買ったものなのかもしれない。

だけどそのお父さんも、最初は家を持っていなかったのかもしれない。

 

お母さんだって、そのまたお母さんが生んでくれたから、生まれてきたんだ。

 

 

大人の世界でも、子供の世界でも、誰かが「これは、A君のもの」「これは、B君のもの」って決めているけれど、

本当は、最初は、そんなルールは無かったんだと思うんだよね。

 

別に「僕のものだ」って思うこと自体は悪くないけど、

僕のものだ」っていう気持ちが強すぎると、ケンカになったり、苦しい気持ちになったりすることが多くないかな。

 

 

だから、人に貸してあげてもいいし、もし飽きたら、あげてしまってもいいかもしれない。(お母さんは、人にはあげられないけれど)

借りているものなら、いつかは返すのも、悪くないよね。

 

そういう気持ちでいると、毎日は、ちょっとだけ楽しい気持ちで過ごせると思うんだ。

 

 

 

ピーク理論 〜メリーゴーランド方式のトレーニング〜

いつ瞑想を追えたら良いのか。

僕は「ピークに到達して、下降線を辿り始めたら」だと思っている。

 

 

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問題

瞑想のトレーニングを続けていると、

「一体、いつ終えたら良いのか」というのが問題になってくるかもしれない。

 

いつまででも続けられそうな気もするし、いつまででも頑張れそうな気もする。

そんな時は「ピーク」を理解すると良い。

 

どんなトレーニングにもピークがある

 

だけどたとえば、集中系のトレーニングをする時。

 

最初は集中力が低い状態から始まって、それがだんだんと高まってくる。

そしてある部分で、ピークを迎える。

いちどピークに到達すると、もうそのまま頑張りを続けても、一番高い集中力を取り戻すことは出来ない。

だんだんと、ゆるやかに下降線をたどることになる。

 

たとえば、心地良さを感じるトレーニングにも、ピークがある。

いちど心地良さのピークに到達すると、どんなに工夫をこらしても、同じ心地良さを取り戻すことは難しい。

 

ピークを過ぎているのにも関わらず、それを理解せずに頑張り続けるのは、エネルギーの空費だ。

上昇、ピーク、下降

どんなタイプの瞑想でも、この現象は現れる。

 

  • 上昇現象
  • ピークへの到達
  • 下降現象

 

の三段階に分かれるのだ。

 

だからたとえば、集中力が下降線を辿っていることに気付いたら、そろそろ終わりのサインだと考えても良いかもしれない。

 

 

全てのものには終わりがある

始まりあるものには全て終わりがある。

 

集中のトレーニングを始めて「これなら、無限に集中を深められそうだ」と思えても、

自分の想定よりも圧倒的に早く、集中力のピークが訪れ、そして下降に入ったりすることがある。

 

だけどこういった「ゆらぎ」は、人間の心にとっても当然のものなのだ。

 

「ゆらぎなんて存在しない」「俺は無限に集中力を高められるんだ」という人は、それで良いかもしれない。

だけど僕の場合は、ピークを意識してトレーニングをした方が、うまくいくように感じられる。

 

メリーゴーランド方式のトレーニング

 

じゃあ、いつトレーニングを再開すれば良いのか。

 

「ひとつの要素」(たとえば集中力)がピークを迎えたら、集中力が充分に回復した後に、集中のトレーニングを再開する

 

これはシンプルな理論だ。

 

  • 集中力を鍛えるトレーニング
  • ボーっとするトレーニング
  • 心地良さを感じるトレーニング
  • 心地悪さ受容するトレーニング
  • 歩きながらのトレーニング
  • 人の幸福を願うトレーニング

 

全部やる必要はないけれど、手札は多いほうが良いだろう。

 

いくらでもバリエーションを作ることは出来るので、ぐるぐると回転木馬みたいに、脳の色々な部位を働かせっていったら良いと思う。

(脳のひとつの部位を働かせるということは、他の部位を休ませるということだから)

 

想定外 

マインドフルネスのトレーニングって万能じゃなかったんだろうか?

期待と違って残念かもしれない。

 

だけどピークがあるというのは、逆にこれはラッキーなことでもある。

なぜなら、もし僕らが無限に集中力を深められるなら、いつ食事をしたり、トイレに立ったりすれば良いんだろう。

 

始まりと終わりを見つけるのも、トレーニングの大事なポイントの一つだ。

 おすすめの本

これは革命的な本なので読んでみてほしい。

 

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心の99%を僕らは理解していない

あなたは自分の心を、どれぐらい自分で理解しているだろうか。

 

  • 自分の心の理解度 = 100%
  • 自分の心の理解度 = 80% ぐらい
  • 自分の心の理解度 = 50% ぐらい

 

どれぐらいのイメージだろう?

 

僕は「1% ぐらい」だと思っている。(0.1%と言っても、言い過ぎじゃない)

つまり、自分の心でも99%のことは分かっていないんじゃないだろうか。

 

そう思うことが最近、特に多い。 

意識は意外と傍観者

「自分の心は自分で分かる」というのが、昔の定説だった。

「ある程度、分からない部分もある」という考え方も、最近では、たぶん浸透してきた。

そして科学は「意識は意外と傍観者」ということを解明し始めている。

 

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瞑想は心の理解度を上げる

 

瞑想をすると、それ以前よりも心のプロセスをよく理解できるようになるだろう。

マインドフルネスのトレーニングは、人間の幸福には、かなり役に立つ。

どんどんレベルを上げて行くことが出来る。

 

だけどそれでも、心には、理解できない部分のほうが圧倒的に多い。

仮に人類で最高の瞑想をしたとしても、生涯をかけたって、たった10%も理解できないかもしれない。

 

唐突だが、

  • たとえばお祭りに行くと、なぜ心が安らぐのか。
  • たとえばひとりで自分の部屋にいると、なぜ閉塞を感じるのか。(人によっては、何故安らぎを感じるのか)
  • たとえばひとつの感覚に注意を向けると、なぜそれが拡大したり、縮小したりするのか。

 

僕らにはそれが分からない。

 

たとえば「歩く」という行為は一見単純だけれど、その裏では、驚くべきほど複雑な脳や筋肉のプロセスが関わっている。

心でも、恐らくそれは同じだ。

 

理解と仮説

 ただ、完全に理解はしていなくても、ある程度、有用な仮説を立てることはできる。

 

たとえば「お祭りに行くと心が安らぐのは、木の質感とか、和太鼓の音とか、人が皆優しい感じがするからかもしれない」と、ざっくりと考えることは出来る。

「人間本来の性質に合った、音や、景色や、雰囲気があるのかもしれない」と。

 

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実践と学習

そう思うと、瞑想の実践や、本での学習は、

「何ひとつ理解していない僕らが、少しでも心や身体の理解度を上げて、幸福の可能性を積み立てるプロセス」だと言える。

 

そう考えると、学習や実践にはなにひとつ無駄なものはない。

そして「もうだいたい理解しきった」と言って、幸福の可能性を狭めてしまうこともないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

昔夢中になったおもちゃ

子供の頃、夢中になったものがないだろうか。

たとえば、ひとつのゲームにはまって、寝ても覚めてもそのゲームの事しか考えられなくなったようなことが。

 

そのゲームに費やす時間以外は、全て無駄なことのように思える。

このまま世界が終わるまで、ずっとそのゲームを続けたい、と思ったことが。

 

だけどいつか、そのゲームへの熱も冷めて、ゲームは世界の全てじゃなくなった。

 

 

あるいは別の話。

 

ショッピングで、生活を劇的に変えてくれそうな、素晴らしいアイテムを見つけた時。

そのことが頭から離れず、毎日そればかりのことを考えていた。

生涯をそのアイテムと、どうやって過ごそうかなんてことまで、妄想を膨らませた。

だけど1週間も経つと、まるで必要ないもののように感じられたことが。

 

 

どんな熱も、いつかは覚めるものだ。

どんな必要性も、時間が経てば、不思議なほどに、必要度が低下する。

(なぜ、あんなに夢中になっていたんだろう?)

 

 

命も同じようなものじゃないだろうか。

 

生きている間は「切実に必要なもの」かのように思える。

喉から手が出るほど欲しい、絶対に減らしたくないリソースだ。

 

だけど僕らが死ぬ頃には、役目を終えて、思ったよりも、それほど必要なくなっているものなのかもしれない。

 

 

今、自分にとって、重要度が最高のアイテム。

たとえ、どんなにあっても足りないと思うような、人生のリソース。

 

だけど、やがて時間が経てば「必要ない」と思っている可能性の方が高い。

 

つまり、今、自分の命がどんなに切実に必要に思えても、それは大した問題じゃない。

どんなものでも時間が経てば、必要じゃなくなるということを、僕らは知っているのだから。

 

このリソースが役目を終えて、やがて死が訪れても、その時は今よりもきっと「手放す心構え」が整っているはずだ。

 

 

脳は賢いが思考は馬鹿

大前提

  • 僕たちは自分自身を、ほとんど正確に理解できていない。
  • 僕たちは自分自身を、正確に理解できていると、思い込んでいる。

この二つの法則がある

 

イメージ

95%理解できてる (思い込み)

 

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95%理解できてない (真実)

 

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エピソード1

 

たとえば「なんか汚いな」と感じる場所に行った時。

どこを見ても、目立つほど変な部分は見当たらない。

 

理由が分からないので、いろいろなところに目線を移して

「自分がどこに汚さを感じているか」を感じようとしてみるけど、ぜんぜん分からない。

 

10分考えても分からない。

だけどある時「視覚じゃなくて、嗅覚のせいじゃないだろうか?」という仮説が浮かぶ。

そして実験に鼻をつまんでみると、不思議と「汚さ」を感じなくなっていることに気付く。

 

視覚じゃなくて嗅覚が理由だった。

 

これだけ考えてようやく分かるなんて。

脳は感じているのに、思考は馬鹿だ。

 

エピソード2

 

つくってから5日経ったポップコーンを食べさせる実験で分かった。シカゴ郊外の映画館で、気の抜けたポップコーンを無料で提供した。ある人たちには中くらいのサイズを、別の人たちには大きなサイズのカップを渡した。映画が終わったとき、残ったポップコーンを量った。大きなカップを受けとった人は、53%多く食べていた。

わざとまずくしたポップコーンをLサイズ無料なら、食べてしまう…映画館なら|食べる喜び 食べる楽しさを 健康とともに!(change!change!change!を改めました)

 

この実験で被験者に「カップのサイズのせいで食べすぎたんじゃないか」ということを聞いたところ、誰ひとりそう思った人はいなかったそうな。

 

やっぱり思考は馬鹿だ。

 

なぜか不思議と起こること

 

  • 瞑想でEQが高まる理由
  • 良いイメージを描くと、良い瞑想が出来る理由
  • 「瞑想は回復だ」「瞑想は消費だ」という、どちらの信念も、自己予言的に成立する理由

 

あるものは科学で解明されていたり、いなかったりする。

だけど僕らはこういった理由を、完全に正しくは理解できていない。

多くの現象は「なぜか、不思議と起こること」なのだ。

 

(瞑想を続けていると、自己観察力が高まるので、以前よりはるかに適切なモデルを描くことは出来る)

 

思考は馬鹿だと理解する

 

 

大前提として「思考は馬鹿だ」と理解しておくのが良いと思う。

なぜなら、本当にそうなのだから。

 

たぶん意識や体のことを、5%も分かっていない。

 

 

逆に「思考は賢くて、95%のことを分かっている」という理解だと、罠にはまりやすいと思う。

 

  • たった10回の呼吸で、気分が落ち着くはずがない
  • たかがイメージで、瞑想の効果が変わるわけがない
  • 頭で理解出来ない現象は起こらないはずだ

 

と考えても、実際の現象は違ったりする。

 

起こったことが真実

 

だからこそ、なんでも実験してみたら良いと思う。

 

「頭で考えたことが真実」じゃなくて、

「起こったことが真実」だ。

 

 

瞑想は疲れる? 回復する?

すごく納得のいく理解を、本で見つけた。

 

瞑想などの精神的実践では、エネルギーの消費・回復が同時におこなわれる

 

(「メンタル・タフネス 成功と幸せのための4つのエネルギー管理術」より)

 

確かに瞑想をしていると、

「脳のある部分は働き」

「脳のある部分は休んでいる」

という感じがする。

 

(脳の部位は1種類じゃない)

 

たぶん重要なのは「瞑想は回復だ(回復でもある)」というイメージを、上手に描くことじゃないだろうか。

逆に「瞑想はエネルギーを消費する(消費しかしない)」というイメージが基礎にあると、たぶん、瞑想は自己予言的に、疲れるだけのものになってしまう気がする。

 

スポーツと同じで瞑想も「イメージを描いたとおりに心が動く」という性質がある気がした。

 

「これからは「時間管理術」より「エネルギー管理術」だ。その3 (世界を「ゆらぎモデル」で理解する)」

世界をどんなモデルで理解するかということは、僕らにとって大きな命題だ。
なぜなら、この世界のありとあらゆる物事は、実は、恐ろしいほどに複雑に出来ているからだ。

 

単純過ぎるモデル

たとえばの話。

「健康」という分野を考えてみよう。
サプリメントで特定の栄養を補給するだけでは、健康に離れない。

 

これは人体というものが、そもそも直線的には出来ていないし、僕らの想定よりも、恐らくはるかに複雑なプロセスで動いているせいだ。

(もし健康食品で全人類が健康になれるなら、今頃すべての健康問題は解決していたはず)

 

たとえば「この食品さえ食べれば90%の病気は治る!」というような宣伝が、世間にはあふれている。

だけどその食品を食べても、90%の病気は治らない。


これは分りやすい罠だと思うけれど、こういう単純なモデルに、多くの人がはまりこんでいる。


食品ならまだ分りやすいけれど、心やエネルギーの世界の話だと、話はもう少し複雑になる。


人は「よく分からないもの」「構造を理解していないもの」に対しては、単純過ぎるモデルを描きがちだ。

僕らは心やエネルギーの世界では「病気が90%治る食品」みたいなモデルを採用している。

 

世界をモデルで理解する

だけど逆に、あまりにも複雑なものを、複雑なまま理解するということもまた難しい。

僕らの脳は、世界を理解するのに、ある程度シンプルなモデルを必要とする。


そもそも僕自身「世界をモデルで理解する」という発想すら、最近まで持ち合わせていなかった。
だがたとえば、本を読むのも、瞑想で意識を観察するのも、頭で考えるのも、すべて「世界に対するモデルを作る行為」なのだと今では理解している。

(と理解するのも、モデリングの一つだ) 

音符と休符

僕が最近夢中になっているのは「ゆらぎ」というモデルの描き方、世界の理解の仕方だ。


たとえば自然の世界には、朝と夜があるように、潮には満ち干きがあるように、呼吸を吐いてから吸うように、人が死んで生まれるように、すべてのものには「ゆらぎ」がある。

 

音楽には、音符と休符がある。
これでこそ音楽だ。

(そして僕らの直線的な生活は、休符を忘れがちだ)

 

「音符」と「休符」があるということは、リズムが生まれるということ。
そしてゆらぎが発生するということだ。

 

僕らの日常生活や人生に対しても、この「ゆらぎ」の考え方を取り入れることで、
今までよりもずっと、世界を適切に理解し、本質を扱うことが出来るようになるだろう。

 

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直線的なモデル

たとえばの話をしよう。
僕はエネルギー管理について、本を通して学んだ。

 

なので「読書は素晴らしいものだ」と考える。
今まで理解していなかったことが理解でき、世界に対するモデルを書き換えることが出来る。

 

だがしかし。

 

たとえ、読書がいくら素晴らしいものだとしても、
「読書だけで成長しよう」と、方法を固定してしまうとすれば、それはあまりに直線的で、硬直したやり方だ。

 

「読書こそが全て」
「読書すればするほど成長できる」
「だから読書に最大の時間を使おう」

 

という風に直線的なモデルを描いた場合。

たとえば読書以外のもの、他の人と関わることは、成長の邪魔にすら思えてくる。

 

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だけどいったん本を閉じて「人と関わること」は、全体として見れば、重要な休符として働くかもしれない。
頭脳を回復させ、読書の質を一層高めてくれるかもしれない。

 

これが「ゆらぎ」の考え方だ。

(逆に「人と関わること」に対しての休符が「読書」だという理解も出来るだろう)

 

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これは直線的なモデルよりも、ずっと強力なモデルだ。

たとえばカフェでゆっくりしたり、睡眠をとったり、自然の中を歩いたり、読書をしたり、瞑想で心のトレーニングをしたり、運動をしたりということは、
お互いに影響をしあって「ゆらぎ」を生み出すことが出来る。

 

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これは色々なものをつまみ食いするのとは違う。
なぜなら、ひとつひとつの要素に没頭しなければ「ゆらぎ」は生まれないからだ。

 

 

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ゆらぎモデル


「ゆらぎ」は新しいモデルになる。

 

たとえば
「読書よりも運動が優れている」
「食事よりも睡眠が優れている」
というような理解ではなく、

 

「ゆらぎがあること」が「自然」で「より優れている」と理解するからだ。

 
たとえば、休日にどこかの場所で過ごす時にも、なるべく「固定」を避ける。
「お気に入りの場所を一箇所見つけて、ひたすらそこで過ごす」やり方では、だんだんと喜びのレベルは目減りしていくだろう。

そこには、ゆらぎがないからだ。

 


たとえば、暖かい場所と、ひんやりした場所で、交互に過ごす。
たとえば、賑やかな場所と、静かな場所で、交互に過ごす。

 

ひたすら読書をするのではなくて、頭を使ったら体を動かしてみる。
意識を働かせすぎたら、ぼーっとしてみる。

 

これが「ゆらぎ」を作り出すライフスタイルだと理解できる。

 

そしてこの「ゆらぎ」は、あくまで自分が心地良く感じる範囲で、大きい方が良いように思う。

片側から片側に振れる幅が大きいほど、ダイナミズムを生み出すことになるからだ。

 

こう考えると、たとえばデジタル機器との付き合い方も、何が適切かが理解できる。

 

だが世界を「ゆらぎ」を理解した場合。

デスクワークとか、ブログを書くとか、デジタル機器にはまりこんで、没頭するのも「良いこと」だ。
逆に、デジタル機器のことを全く忘れて、自然にふれあったり、散歩をしたりするのも「良いこと」だ。

 

これを交互におこなってゆらぎを作り出すのが「良いこと」だ。

 

このように「ゆらぎ」という理解は、
単に「自然な方が良い」という理解よりも、強力だ。

 

ゆらぎを作る技術

 そして、もうひとつ重要なこと。
ゆらぎは基本的には、心地良いものだということ。

 

なので、心地良く感じないなら、きっと何かが間違っているのだ。

僕らが頭で考えた「ゆらぎ」が、そのまま人体の正解だとは限らない。

 

たとえば僕は、ずっと読書を続けていて、
その次に頭を休ませようと「漫画」を読んでみたけれど、あまり休息にはならなかった。

 

たとえば、ものすごく眠い時のに、歩くことで体を癒そうとしても、逆効果かもしれない。

ゆらぎを作るにしても、それは「適切なゆらぎ」である必要がある。

 

頭で考えるだけじゃなかなか分からないから、実際にやってみて、自分の体に聞いてみるのが良いだろう。

 

「ゆらぎ」を作り出すのも、最初は下手で、だんだんうまくなっていく技術だと思う。

 

ちなみに僕の場合は、マインドフルネスという訓練を1年続けていて、自分の体や、感情を観察する基礎が出来ていた。
だからこの「ゆらぎ」という考え方も、すっと取り入れることが出来たように思う。

 
直線的なモデルから、ゆらぎのモデルへ。
これは人間の幸福により近い世界図だと、僕は理解している。