まだポジティブシンキングで消耗してるの? ( 呼吸の盾を持つ話 )
僕らはよくマイナス思考をしてしまう。
そして心が苦しさを感じる。
現実が歪んだような感覚がする。
その時、まっさきに取るべき対策は「呼吸をコントロールすること」だ。
「思考を変えようとすること」じゃない。
「ポジティブシンキング」じゃない。
実は、そうなのだ。
たとえば「緊張を感じた瞬間に、大きめに呼吸をして、息を整える習慣」を持つだけで、心の被害を最小限に抑えられる。
マイナス思考に害はない
一般的に考えられているのとは違って、実は、マイナス思考自体には、害がない。
実は、そうなのだ。
(信じられるだろうか?)
実は、害があるのは「マイナス思考」ではなくて、
「マイナス思考」に連続して起こる「肉体的な変化」だ。
(ちなみに「プラス思考」にだって、連続して「マイナスの肉体的変化」が起こったりする)
そして「肉体的変化」は、だいたい「呼吸の変化」によって生じる。
肉体の状態と呼吸は、密接に関係し合っている。
そして肉体的状態と心は、密接に関係し合っている。
つまり逆説的に、呼吸をコントロール出来るということは、心もコントロールできるという話になる。
ちなみに「肉体的反応を、直接コントロールしようとする」のも、難易度が高い。
なぜなら呼吸という操縦桿がない状態で、飛行機を飛ばすようなものだから。
呼吸を”絶妙”にコントロールする方法
ちなみに僕はいちど、呼吸と一緒に気持ちをコントロールしようとして、失敗したことがある。
呼吸をした瞬間は、ものすごく心地よくなった感覚がするのだけど、すぐに元に戻ってしまう
だから「呼吸を整えるなんて、何の役にも立たない」と思ったこともあった。
だけどそれは「うまくやるか、やらないか」の違いだ。
別に言い方をすれば、呼吸が「訓練されているか、されていないか」の違いだ。
ただ単に、大きく呼吸するのではなく、ただ小さく呼吸するのもでなく、「絶妙な呼吸をする」ことで、心のバランスをコントロールすることが出来る。
呼吸の深さや、スピードが、絶妙なバランスで安定した状態。
「深い穏やかさ」をイメージして呼吸をしてみると良いだろう。
(何回か訓練は必要だけど、きっとうまく出来るはずだ)
呼吸は盾
マインドフルネスの世界では「物事をあるがままに受け入れることが大事」だと言われるが、呼吸だって役に立つ。
盾を持って、使いこなして、防御力を高めるイメージだ。
まとめ
- ❌ 思考をコントロールしようとする ( だいたい負ける )
- 🔺 肉体的状態をコントロールしようとする ( 呼吸という操縦桿がないので難しい )
- ⭕ 呼吸をコントロールする ( 肉体的反応をコントロールし、結果的に心もコントロールできる )
マインドフルネスって何? ( マインドフルネスが分からない )
たとえば。
- 生まれて初めてディズニーランドに行って、全ての時間、すべての瞬間を楽しんでいる時の気持ち
- 旅行に行った時、素晴らしい景色を眺めて、心を奪われている時の感覚
- 引っ越しをしたばかりで、街のすべてが特別に見えている時の気持ち
- 自然の中を歩いて、木の香りをかぎながら、空気を吸い込んでいる時の感覚
こんな状態をマインドフルネスと呼んだりする。
マインドフルネスの特徴
- マインドフルネスは…誰もが経験したことのある感覚だ。
- マインドフルネスは…子供の頃には多くの人が持っていた感覚だ。
- マインドフルネスは…何かをはじめて体験した時に起こりやすい感覚だ。
そして、これを「取り戻す」「再現できるようにする」のが、マインドフルネスの訓練だ。
マインドフルネスは思考じゃない
マインドフルネスの訓練は「考え方を変えること」…じゃ、ない。
むしろ、その反対の道をゆくのがマインドフルネスだ。
マインドフルネスでは「思考では自分を変えられない」と理解する。
たとえば、いくら「子供の頃の感覚を取り戻そう」と「頭で考えた」としても、実は、ほとんど効果はない。
いくら「目の前の景色」を「素晴らしいと考えよう」としても、実は、ほとんど効果はない、と。
そうではなくて、具体的な心のトレーニングをおこなうのが、マインドフルネスの基礎だ。そして、すべてでもある。
この「具体的な訓練をする」というのが「自己啓発」とは全く違うところだ。
(たとえば、本を読んで考えてばかりで、具体的な訓練をしないスポーツ選手って、うまくなれるだろうか? それと同じで、心の世界でもトレーニングにこそ効果がある)
たとえば、たまには
空を見上げてみよう。
綺麗だと思うだろうか。思わないだろうか。
たとえ頭では綺麗だと思っても、
「はいはい、いい景色だね、分かった分かった」なんて、1秒で下を向いて歩き始めるなら、思考の世界のやり方だ。
それは、経験しているようで、まったく経験していない。
頭が「経験した」と思い込んでいるだけだ。
たとえば30秒ぐらい、空を見ながらぼーっと出来るかどうか、試してみよう。
最初は「ぼーっとする」のはすごく難しいかもしれないけど、
これがマインドフルネスの訓練になる。
すごく簡単なトレーニング
マインドフルネストレーニングは、何も堅苦しいことをする必要はなくて、
まず最初は「自分が心地よく感じること」を「さらに心地よく感じようとしてみる」のが始めやすいだろう。
たとえばシャワーをあびるのが好きなら、シャワーを浴びながら、肌の感覚に注意を向けた見たり。
たとえば読書が好きなら、読書をしながら、その場にいることを、もっと楽しんでみたり。
マイナスをプラスにするのは大変だ。
だけどプラスを、もうちょっとプラスにするのは、やりやすいだろう。
オレオの「クッキー」と「クリーム」を区別できない話 ( あるいは妄想に溺れるドン・キホーテの話 )
森永のオレオは「クッキー」と「クリーム」に分かれている。
だけど実は僕らは、それが区別できていない。
ぐちゃっと、あいまいもこに判別している。
これはお菓子の世界じゃなく、心の世界の話だ。
ちなみにクッキーが「情報」で、クリームが「経験」だ。
(別に、どちらがどちらでも良いんだけど)
僕らは全員ドン・キホーテ
ところで、情報は情報にすぎない。
だが僕らは情報を、まるで本物のように扱う習慣がある。
そして、もはや「情報こそが本物だ」という感覚さえ持ってると思う。
まるで、この世界には情報しか存在しないかのように。
「情報ではないもの」を見つけることさえ難しくなっていると思う。
かつて布袋寅泰が「コンピューターとギターがあるだけでいい」と歌ったように、情報空間だけに住むのも、もしかしたら素敵なことなのかもしれない。
だけど大きな問題は、僕らが「情報=経験」「情報=本物」だと、1日に1万回も取り違えているということだ。(本当に、1日に1万回以上だ)
だけどマインドフルネスの世界では、情報と本物を区別できることが重要だ。
なぜなら情報というのは、あっという間に心を妄想でいっぱいにして、オーバーフローしてしまうから。
訓練されていない心の世界では、誰しもドン・キホーテだ。
だけど僕らは、僕らがドン・キホーテであるということにさえ気付いていない。
本物の経験って何?
本物というのは、僕らがしている「経験」のことだ。
たとえば雑誌で、老後の不安を煽るような記事を読んで、不安になったとする。
だけど「老後」というのは、現時点では情報に過ぎない。
だけどまるで「本物の経験」であるかのように、僕らには感じられる。
だけど、こうやって僕らが「情報」に対してあくせくして、反応している間に、
「経験」は、惜しくも次々に流れてゆくのだ。
ディズニーランドに行って、ひたすら待ち時間のことだけを気にしながら、1日を過ごすようなものだ。
ミッキーマウスも涙する話。
情報と経験をはっきりと区別できることは、脳の高次な働きだと思う。
そうすると、だんだんと素晴らしい世界が見えてくる。
世界がこんなに甘美なものだったんだな、ということに気付き始める。
そしてその習慣は、訓練次第で身につけられる。
区別すればするほど、区別するのがうまくなるし、
経験だと錯覚していたものが、実は情報だった、ということにも気付きやすくなる。
本物の経験を見つけるトレーニング
たとえば今、僕はカフェで読書をしている。
そこで、情報と経験を区別する訓練をしてみる。
情報
- 本を読みながら、頭の中に浮かんでくる思考
- 読書に何時間を費やしたかという事実 ( 時間は情報だ )
- 「いま、何の本を読んでいるのか」という種類
- 「いま、この本を読んでいるけれど、別の本を読んだほうが有益なんじゃないだろうか」という思考
- スマートフォンが気になり、次に、LINEの返信が気になること
- この後に会う人との、待ち合わせ時間について考えること
このようなものが情報(あるいは思考)に分類される。
経験
- 本のページをめくるときの触感や、紙に映る影
- 自分の呼吸の感覚や、スピードや、深さ
- 読書をしながらも、次々に、微妙に移り変わる体の感覚
- 他の人が席を立ったり、動いたり、話していたりすること
- 本を読んでいる自分を、一段階ズームアウトした視点から、眺めている、その視点
- 「カフェで本を読んでいる」という経験そのものの、統合的な質感 (クオリア)
もちろん、常にこの全てをいちどに認識するわけじゃない。
だけど訓練を続けていると、本を読み、なおかつ自分の思考や感覚を観察しながら、なおかつ周りの環境も意識するという、統合的な状態に近づくことが出来る。
(言葉で書くと難しそうに思えるが、これら全てを含めた、ひとつの統合的な「経験」をしている状態だと言える)
羽生善治が休日にするのは「ぼーっとすること」
日本で指折りに集中力がある人であろう、羽生善治をして、
休日にするのが「ぼーっとする」ことだという。
こいつは、すごい事実だ。
何度でも反芻したい。
って僕は思うんだけど、あなたはどうだろうか。
棋士の集中力
棋士というのは、常人とはかけ離れた集中力、思考力を発揮する必要がある仕事らしい。
茂木健一郎いわく、羽生善治はふだん恐るべき集中力を発揮している分、休日はぼーっとして、脳のデフォルトモードネットワークを働かせているんだろう、ということだ。
現代人というものはだいたい、社会的緊張を強いられた生活をしているから、ぼーっとできることは、実は難しい。
訓練が必要だ。
間違った常識、科学的な常識
ぼーっとすることは「世界で一番悪くて、生産性の低いこと」だという固定観念がある。
だけど実は「世界で一番良くて、創造性を高めること」なのかもしれない。
「世界で一番無駄なこと」は、
「世界で一番有用なこと」だったのかもしれない。
僕たちは数多くの、間違った常識の中で生きていた。
だけど科学が、少しずつ真実のベールを脱がし始めている。
「ぼーっとする」の逆襲
- 1. ぼーっとするのは、時間の無駄だ
- 2. ぼーっとしたいけど、出来ないし、出来たとしても意味はない
- 3. ぼーっとすることは有意義で、訓練が必要だ
- 4. トップレベルの棋士でさえ、ぼーっとして創造性、思考力を高めている
この四個を並べてみると「ぼーっとすること」の価値観が、全く違わないだろうか。
参考
「脳を鍛える茂木式マインドフルネス」 p62 より。
「10進法は偶然の産物にすぎない」 ( 「脳を鍛える茂木式マインドフルネス」より )
僕らは「20代」とか「30代」とか、よく年齢を階層で区切る。
これがごく当たり前の考え方になっている。
「まだ20代だし、 ○○だよね」
「もう30代だから、○○しなければいけない」
なんてことを喋ったりする。
だけど、そもそもの起源をたどれば、20や30という区切りがあるのは、人間の指が10本だからだろう。
もし仮に、人間の指が8本だったなら、8進法で数を数えていたかもしれない。
こうやって偶然の産物にさえ、意味を与えて、区切るのが、最近の人間の文化だ。
だけどマインドフルネスの世界には、年齢には何の意味もない。
ただの数字に、本気で意味を与えたりはしない。
「でも、やっぱり年齢が…」と考えた時点で、それは思考の罠だ。
年齢というものは、僕らが考えるたびに、存在する。
考えなければ存在しない、実体のないものだ。
世界中で戦争が起きてるのにマインドフルネスなんかに意味があるの?
っていう声が、たまに頭の中に聞こえる。
でも、逆に理解してみる。
もし、世界中の人がマインドフルネスを実践すれば、世界から戦争は無くなるんじゃないだろうか。
ということは、自分がマインドフルネスを実践するということで、世界の平和にほんの少しだけ寄与していることになる。
争いへの怒りよりも、平和への愛を。
ところで今日は、茂木健一郎の本を読む。