マインドフルネスやってみた

瞑想で人生のレシピ作り

思考の罠 〜思考は自分を守ろうとする〜

まとめ

  • 思考は何層にも分かれて、メタ的に働く
  • 思考は自分を守ろうとする
  • 思考というフィクションは、物語の主役にすり替わろうとする

質問

たとえば、さっきまでとても幸福だったのに、何かのニュースを見た瞬間、まるで世界が変わってしまったように感じたことはないだろうか。

たとえば、頭の隅では「現実ではない」と分かっているのに、何かが現実のように感じられて、頭にこびりついてしまった経験がないだろうか。

たとえば、不安に思っても仕方がないと理解していながら、どうしてもその不安が拭えなかった経験はないだろうか。

思考の罠は張り巡らされる

これは全て、思考の罠だ。

この罠は、何層にもあざとく張り巡らされている。
そして常に僕らの存在を取り込もうとする。

罠は、あざとい。

自分で生み出したものなのに関わらず、いや、だからこそ、自分自身を一番よく騙すように出来ている

この罠には、はまりこみやすくて当然だ。
なぜなら、とてもはまりやすいからこそ、罠なのだから。

張り巡らされる説得

思考は現実ではない。 だが時に僕らには、まるで現実のように感じられる。

いったん過ぎ去ってしまえば冷静になれるが、いざ自分がはまり込んでいるときにはどうしようもない。

これは思考が、思考自身を守ろうとする働きを持っているからだ。

  • 1.「思考する」こと
  • 2.「思考したことが現実だ」と「思考する」こと
  • 3.「思考が現実である正当性」について「思考する」こと

「思考」はあなたに消されたくない。物語の主人公でいたい。 だからその物語を一刻でも長く続けようと、あらゆる手段を尽くして、あなたに働きかけるのだ。

このようなメタ的な働きによって、思考は現実の位置を横取りしようとする。

幸福な日の最後に

あなたが1日を幸福に過ごした、その最後。
何か将来に関する不安を感じるような、経済ニュースを読んだとする。

すると、まるでその日の幸福が全てウソだったかのように感じられる。

なぜなら、もし将来に絶望しか待っていないならば、どうして今日1日を浮かれて過ごすことに意味などあるだろうか。

あなたは頭の片隅では、これが「単なる思考のはずだ」と理解している。
だが、どうしても不安を拭うことが出来ない。

これが、思考が物語の主役に躍り出た瞬間だ。

トーリー

あなたはこのようなことを考えるかもしれない。

  • 将来がとても不安に思える (思考)
  • なぜなら経済ニュースによると、Aという事実が判明したから (思考)
  • Aが事実であれば、僕らはいずれ必ず不幸にならざるを得ない (思考)
  • 僕が幸福なのは、今たった一瞬のことだ (思考)
  • Aという事実は現実だ、これは動かしようがない (思考)
  • Aを忘れたいけれど、忘れるのは現実から逃げることだ (思考)
  • Aを忘れようとすることは、事実から目をそらすことだ (思考)
  • Aが事実なら、瞑想やマインドフルネスなんてまるで意味がない (思考)
  • Aを忘れて幸福になんかなれない、だってAは事実なのだから (思考)
  • 思考にうまく対処しても、どうせ現実は変わらない (思考)

これらは全て、思考である。

「思考など関係ない、これは現実だ」と思った瞬間、それがまさに思考のプロセスなのだ。
「これが思考のプロセスだって? いや騙されない、やはり現実じゃないか」と考えるならば、それがまさに思考だ。

このとおり、思考は「何層にも張り巡らされて」おり「思考自身を守ろうと」している。

思考は優れたフィクション

思考の最大の罠とは「それが思考であると忘れさせる」働きにある。

たとえば、全てのフィクションの醍醐味は「それがフィクションだと忘れさせるところ」にあるだろう。
フィクションがよく出来ていればいるほど、それは現実味を持つし、現実化のように思えるフィクションほど優れている。

あなただって例えば、フィクションの中の悪役を本当に憎いと思ったことが、一瞬ぐらいはあるだろう。
これはフィクションに「現実に替わろうとする働き」があるからだ。

だがフィクションはフィクションだ。 どんなに現実味があろうとも、どんなにのめりこもうとも現実ではない。

同じように思考も、どんなに現実味を持って、決して現実ではない。

知恵の輪を解くように

罠というのは巧妙にできている。
なので、賢く抜け出さなければいけない。

だがいちど抜け出す手順さえ覚えてしまえば、次からは、その同じ手順を取るだけで良い。

知恵の輪だっていちど解いてしまえば、次からは同じ手順を取るだけで解くことが出来る。

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瞑想と麻薬中毒者

僕たちは麻薬中毒者だ

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たとえば「キニヤム」

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たとえば「ヒョウカヲクダス」

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たとえば「コウカイトフクシュウ」

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色々な注射を打ってる

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これがなくては生きていけない

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体に悪いドリンクも飲んでる

「ヒサンナニュース」とか

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「ロウゴノフアン」とか

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「ショウニンヨッキュウ」とか

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次々と商品は発売される

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麻薬病患者は

「注射が必要だ」と思い込んでいる。

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だけど注射するほど、注射がもっと欲しくなる。

瞑想は

この中毒を直していく治療行為だ。

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新しい注射を打つんじゃない

ただ、やめてゆくだけで良い。

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今日は良い日だったか? と悩むのはやめよう。

今日は良い日だったか

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悪い日だったか

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どっちだろう?

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判断するたびに評価は変わる

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だけど実は

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評価している自分がいるだけだ

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「今日」は評価するたびに現れる

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だけど本当は「評価している自分」が

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反射しているだけだ

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それでも評価したい?

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でも評価なんて

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実はなくても生きられる

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解説

  • 対象A」の評価を、僕らは決めようとする。
    • たとえば「今日が良い日だったか」「自分の人生は良いものだろうか」というようなことを決めようとする。
    • 今日が良い日だったなら幸福だし、そうでなければ幸福ではないと思い込んでいる。
  • だがAの評価には最終結論が出ない。
    • 評価するたびに結論が変わる。
    • 考えれば考えるほど分からなくなる。
    • 僕らがいくら賢くなっても、真実は分からない。
  • Aを評価する時に変化しているのは、Aではなく、今の瞬間の僕らだ。
    • そして、物事を評価している瞬間は不幸になりがちだ。
    • たとえば今日がどれだけ幸福でも、評価によって幸福を得ることは出来ない。

心のオセロ

つい1秒前までは、幸福だったのに。

その1秒後の自分は、もう幸福じゃない。

そんな時がある。

ついさっきまでの幸福さえも、嘘だったみたいだ。 まるでオセロのように、白が黒に裏返ってしまう。

ゲームに勝っていたというのは思い込みで、 今の盤面は黒一色だ。
なぜ、幸福と不幸は、こんなに簡単に裏返ってしまうのか。

だけどそれは錯覚だ。

本当は

  • 今には今の幸福がある。
  • 今には今の不幸がある。

ただ、それだけだ。

1秒前の幸福もアテにはならないし、1秒前の不幸も嘆かなくて良い。

常に今の瞬間だけが存在する。

一番の問題は

1秒前はもう過去なのに、頭がそれに引きずられていることだ。

  • 1秒前が幸福だったんだから、今が幸福でも良いはずだ。
  • 1秒前が幸福だったんだから、今も幸福でないとおかしい。

だけどそんなことを考えても、幸福感は戻ってこない。

心のバランスは、常に「今の瞬間」に保たなければいけない。

大事なのは心がバランスを崩した時に、それに気付いて、バランスを取り戻すという、具体的なアクションだ。

自転車の練習

たとえば、自転車の練習をしている人がいるとする。

その人が転んだ。

そしてこんなことを考えた。

  • 1秒前までは乗れていたのに、今は転んでいる。
  • 1秒前までは乗れていたのだから、今も乗れていないとおかしい。
  • 1秒前まではバランスを取れていたのだから、今もバランスが取れていて良いはずだ。

だが、頭でそんなことを考えても、バランスが戻ることはない。

またバランスを取り戻すには、当たり前だが「自転車に乗って、進む」という、具体的なアクションが必要だ。

考えることと、自転車に乗ることは、根本的に違う。

心の世で起きることは

この自転車の例のように、分かりやすくはない。
だけど確実に、同じ問題が起こっている。

そして僕らは、

  • 頭で考えること
  • 心のバランスを摂ること

をよく混同している。

レッスン

フォーマルな瞑想を続け、日常の瞑想を続けてみよう。

「これがバランスが取れている状態だ」という瞬間に気付くかもしれない。

自分が穏やかさや、幸福を感じた時は、それがバランシング出来ている状態だ。

あとはその感覚を覚えていて、それが「真ん中」だとイメージしてみよう。

心に「棒」が存在するような感覚だ。

  • 右に倒れていれば、左に戻す。
  • 左に倒れていれば、右に戻す。

頭で考えてしまうと、うまくいかないかもしれない。 だけど感覚の世界に敏感になれば、だんだんとバランシングがうまくなってゆくだろう。

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まとめ

幸福が過ぎ去ってしまった時。

いくら考えても、頭で後悔しても、バランスは取り戻せない。

僕らに必要なのは、考えることじゃない。
心のバランスを取り戻すアクションを起こすことだ。

カレンダーを消して生きる方法

あなたは

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カレンダーの中にいるだろうか?

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それともカレンダーが、あなたの思考だろうか?

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ある時、僕は気付いた。

僕が時間というものを気にする時はいつも、カレンダーのイメージを、心に描いていることに。

完全に無意識におこなわれていた。

僕は時間というものの正体が、イメージだと気付いていなかった。
時間が明確に、この世界に存在すると思っていた。

そして、その時間の中に、僕というものがあると思っていた。

だけど、違った。

時間はイメージだった。

僕が思考に描いている、時間というイメージ。

これは生まれた時から繰り返し、条件付けによって強化されてきたものだと理解した。

だけど本当は

心のプロセスを詳しく観察すると、僕の思考が、時間を生み出している。

  • 時間のイメージを、ほぼ無意識に思い浮かべる
  • 時間という概念が出現する
  • 自分が時間の「中」に存在ような感覚がする

全ては心の中で起こっていることで、イメージがなければ、時間も存在しない。

時間のない世界

時間を架空のものだと理解しながら、生きる世界。

こうしてまたひとつ、概念の呪いは解けてゆく。

名前・年齢・職業というラベルを剥がして生きる方法

  • 名前
  • 年齢
  • 職業

というものは、強化されている。

常に強化され続けている。

僕たちが子供の頃から、何十万回も、何百万回もこの「考え方」は強化されてきた。

たとえばニュースに誰かのことを話す時は、必ず「名前」「年齢」「職業」が 紹介されるだろう。
それぐらい、これらの要素は社会的に刷り込まれているものだ。

名前・年齢・職業を気にする

  • 名前にまつわるものを気にする
    • 自分の名前に集約された、人の評判を気にする
    • 人の名前に集約された、人の評判を気にする
    • 簡単に言えば「人と比べる」という行為が、名前という要素に集約されている
  • 年齢を気にする
    • 自分の年齢を気にする
    • 人の年齢を気にする
    • 年齢を軸にした判断を下す
  • 職業を気にする
    • 自分の幸福度を職業で判断しようとする
    • 人間の貴賓を職業で判断しようとする

こういったことは、僕らの人生にプラスになっているだろうか?

なっているならば良い。

だけど僕の場合、こうした要素に振り回される自分の心が、どうしても辛いと感じていた。

存在しない要素

実は、名前や年齢や職業は、実体ではない。

これは「考え方」だ。

「強化された考え方」だ。

僕らの頭の中に生まれて、はじめて存在するもの。
もう「存在しない」なんて想像するのが難しいかもしれないが、僕たちが考えなければ存在しないものだ。

僕たちが「考えるたび」に発生する。
そして僕らは意識的に、無意識的に、これらのことについて頻繁に考え続けている。

強化のロジック

なぜ存在しないものが存在するかのようにふるまっているのか。

それは「対象について考える」という行為自体に「対象を強化する」というロジックがあるからだ。

  • たとえば僕らが自分の名前について考える時、名前は確かに存在する。(そして概念は強化される)
  • たとえば僕らが自分の年齢について考える時、年齢は確かに存在する。(そして概念は強化される)
  • たとえば僕らが自分の職業について考える時、職業は確かに存在する。(そして概念は強化される)

対象について考えるのをやめると、対象は存在をやめてしまう。

だけど彼らが存在をやめた時には、そもそも僕らは考えるのをやめている。
なので「彼らが存在をやめた瞬間」を見つけることが出来ないのだ。

自分が眠りにつく瞬間を、意識ではとられられないのと同じだ。

そして、また考え始めた時には、彼らは存在を始めることになる。

思考で思考を消すことは出来ない

だが、こういった概念を思考によって排除しようとしても、うまくいかない。

なぜなら「考える」ということ自体がもう、それを「強化すること」だからだ。

  • たとえば、火に油を注ぎながら消すことは出来ない。
  • たとえば、パチンコ屋に通い続けながら、ギャンブルをやめることは出来ない。
  • たとえば、間食をし続けながら痩せることは出来ない。

自由になる方法

これらの社会的概念から自由になる方法。
もしくは、少しでも自由度のレベルを上げ、少しでも束縛度のレベルを下げる方法。

それは「思考」と「概念」のプロセスに注意深く気付くことだ。

主に観察の瞑想が役に立つだろう。

レッスン

瞑想をしてみよう。

  • 年齢や職業や評判など、なにか「本当は存在しないはずのもの」の中で、自分がすごく気に病んでいるものはなんだろう。
  • その対象について考えて、嫌な気分になるかどうかを確かめてみる。
  • 嫌な気持ちのレベルが、時間に応じて強まったり、弱まったりするのを感じてみる。
    • 自分の「思考」と連動しているかどうかも確かめてみる。
  • 自分が対象について考えている時に、対象が存在を始める瞬間を見つけてみる。
  • 「嫌な気分」になった時の原因は、自分の「思考」によって概念が現れた瞬間ではないか、と逆算してみる。

この手順通りじゃなくても良い。
要点は「思考が概念を発生させているプロセスに気付くこと」だ。

そして概念に圧倒されずに、自分の思考として処理できるようになること。

補足

考えても考えなくても、年齢は加算されていくのではないか。そう思ったかもしれない。

だが僕たちが思い浮かべる年齢は、主に生物学的なものではない。
社会的な位置づけとしての「年齢」という概念である。

たとえばひとりの人間はまったく変わらないのに、年齢を聞いて1%でも印象や考えが変わった経験があるなら、それは概念的な働きのせいだ

集中する瞑想と、観察する瞑想、結局どっちが良いの? ( 分かりにくい瞑想用語 )

瞑想は大きく二種類に分けることが出来る。

  • 集中系の瞑想 ( 呼吸の瞑想、サマタ瞑想 )
  • 観察系の瞑想 ( マインドフルネス瞑想、ヴィパッサナー瞑想 )

いろいろな本が色々な紹介をしているので、 本を読めば読むほど、混乱するかもしれない。

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一体どっち?

  • 「瞑想で雑念をなくそう」
  • 「瞑想では雑念をなくさず、受け入れよう」

と語る本がそれぞれに存在する。 「一体どっちなんだよ」と思わないだろうか。

まだまだ、きっちりジャンル分けされた記述がされていないのが、瞑想の出版業界だ。
それぞれの本がぞれぞれに「これが瞑想だ」「これは瞑想じゃない」と語っていたりする。

本当に分かりにくい!

と思うとしたら、あなたの気持ちは間違っていない。(僕も最初の頃は本当に混乱した)

非常に誤解を招きやすいジャンルだと思う。 全ては心の中で起こることなので、仕方ないといえば仕方ないかもしれないが。

どっちもやればいいじゃん

僕のオススメは、両者の区別を理解しつつ、どっちもやるということだ。

たとえば運動をするときのことを考えてみよう。

この二つのどちらが優れているだろうか?
どちらをやるべきだろうか?

答えは「必要な方をやれば良い」だ。

持久力を付けたいならマラソンをすれば良い。
筋力を付けたいなら筋力トレーニングをすれば良い。

瞑想もそれと同じで、伸ばしたい能力に応じて、やりたいタイプの瞑想をすれば良い。

ただそれだけの話だ。

心の「落とし穴」で例えると

  • 集中系の瞑想
    • 落とし穴に落ちづらくなる
  • 観察系の瞑想
    • 落とし穴に落ちても平気になる

RPGのパラメータで例えると

  • 集中系の瞑想
    • 「ちから」のパラメータを上げる (集中力が増す)
  • 観察系の瞑想
    • 「すばやさ」のパラメータを上げる (敵の攻撃を避けやすくなる)

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( ドラクエ3 風 ステータス ジェネレーター より )

これは別に、どんな例えでも良い

それぞれ、心の別の領域を伸ばしてくれると理解すれば良い。