感覚の変化を観察する訓練
変化を観察するというのは、強力な訓練だ。
- 体に感覚が生じる。
- 生まれた感覚は、ややゆっくりとした時間をかけて大きくなる。
- ピークを迎えると、時間とともに小さくなってゆく。
- ひとつの感覚が小さくなってゆく間に、また別の感覚が生まれる。
これは僕が自分の体で感じるサイクルだ。 もしかしたら、あなたが違うサイクルを感じるかもしれない。
だけれど、体の感覚は常に変化を繰り返しているということは間違いない。
たとえ、それがどんなに分かりにくい変化であっても、常に微妙な変化は繰り返している。
ずっと同じ状態を保ち続けるということはない。
この変化をゆっくりと観察してみよう。
安全なエリアを広げる
これは「安全なエリア」を広げてゆく訓練だ。
たとえ体にどんな感覚が起こったとしても、ピークを迎えれば小さくなってゆく。
どんな感覚であろうと次々と変化していき、生まれては消えてゆく。
これを理解すれば、僕らは大抵の感覚には、圧倒されずに過ごすことが出来る。
というよりも「圧倒されるべき感覚は存在しない」ということに気付いてゆく。
感覚が僕らを圧倒しようとするのは、
- 今生まれた感覚が、永遠に続くような気がするから。
- つらい感覚が、どんどん増大していって、手に負えなくなるような気がするから。
という錯覚のせいじゃないだろうか。
思考のスピード > 感覚のスピード
ここでひとつ注意したいのは、感覚のスピードよりも、思考のスピードのほうがはるかに速いということだ。
たとえば瞑想中、こんなことを考える。
- この瞑想はいつまで続ければ良いんだろう。
- なんだか疲れてきた気がする。
- 疲れを感じる時は、無理をして瞑想しないほうが良いのかもしれない。
- あと5分は瞑想を続けられるだろうか。
- よし、リラックスするために呼吸をやわらかくしてみよう。
- なんだか気分がリラックスしてきたな。
- だけど明日のことを考えたら、やっぱり胸が苦しくなってきた。
僕らは感覚の周りを、こうやって、思考でウロウロする。 何か手を出そうとしてああふたする。
だがその間に、感覚はまったく知らない顔をして変化を繰り返してゆく。
そして僕らはまた、変化する感覚の上辺で思考を繰り返す。
感覚と思考の関係
だけど例えば、こう想像してみてほしい。
- 僕らはひとつの感覚に対して、すごいスピードで判断を繰り返している。
- 僕らが考えても考えなくても、感覚はも勝手に変化するし、生まれては消えてゆく。
- 僕らは「思考が感覚に変化を与えた」と思って、よく思考で対処しようとする。
- だけど実は逆に、感覚が変化した時に、ちょうど思考していただけなのかもしれない。
感覚には実は、僕らが特別な対処をする必要はないのだ。
訓練
- 自分の体に生じる感覚を観察してみる。
- ひとつの感覚が強まったり、弱まったりする一連のプロセスを見守ってみる。
- たとえば胸のあたりの圧力が増して、ピークを迎えて、収まっていく様子などを、最初から最後まで把握してみる。
- 感覚の変化は思考のスピードよりもずっと遅い。なので慌てず、なるべくゆっくりと観察する。
瞑想1年の効果 > ストレスが減り 息をするように仕事が出来るようになった
瞑想を初めて1年近くが経過した。
最近、まるで息をするように仕事を出来るようになった。 PCと遊びながら息をしていると、いつの間にか1日が終わっているという感覚だ。
これはもちろん比喩だ。
実際にはPCのディスプレイに向かって作業をしたり、社内チャットで必要な連絡をしたり、ミーティングに出たり、1日のスケジュールを立てたりということをしている。
だけどこの全てが「息をしている感覚」に近くなってきた。 辛い、しんどいということが、ほぼない。
これは明らかに瞑想の効果だと思っている。
人間が仕事で疲れる理由
いま振り返ってみると、人間が仕事で疲れるというのは、
- 焦りやプレッシャーを感じて、筋肉に緊張が走る
- コンディションを考えずに、仕事をやりすぎる
- 頭の中で何百回も余計なことを考える
ということが、深く関わっているのだなと感じた。
ものすごく楽しくてリラックスできる仕事は、いつまででも続けられる。疲れない。というのは本当なのだ。
1 x 100
自分では意識していない部分。 「そんなことで疲れるはずはない」と思う要素にこそ、消耗の種は隠れている。
たとえば無意識に、1の緊張を100回繰り返せば、消耗度は100だ。 これは10の緊張を1回だけ感じるよりも、ずっと大きな破壊力がある。
無意識だからこそ気付きにくい。 無意識だからこそ、自分が消耗している原因が分からない。
だけど瞑想を続けることで、この1x100の消耗に早く気付いて、それを防ぎやすくなる。
仕事を楽しもうとする戦略は?
だからといって、意識して仕事を楽しもう、リラックスしようとしても無駄だ。 よほど心の扱い方がうまくないと、楽しもうとすることが逆に緊張を引き起こす。
そして「楽しもうとする戦略」「リラックスしようとする戦略」の無力さを思いすることになる。
うまくいく確率なんて1/100以下なんじゃないだろうか。
少なくとも僕にはそう感じられる。 なぜなら人生の中で、意識的に楽しもうという試みは、ほぼ全てが失敗に終わってきたからだ。
これは効果的な戦略ではない。
瞑想のメリット
それよりも効果的なのは、
- 力が入っている時に、それに気付いて、力を抜くことが出来る
- 自分の心のペースを、絶妙な感覚で保ち続ける
ということだ。 1日の間中、絶妙な感覚で「軽さ」を保ちながら、その感覚をリレーしていく。
二本立ての効果
瞑想だって完璧ではない。 人間ならば疲れだって感じことだってある。
だけど自分の状態に注意深くなることで、
- そもそも、疲れにくくなる
- 疲れを感じ始めた時に、早めに気付いて、体制を立て直すことが出来る
- 例えば、疲れのピークに達する前に、ひと休憩するというアクションを起こすことが出来る
という二本立ての効果がある。こいつは強力だ。
この二つの効果によって、仕事疲れをかなりの度合いで軽減することが出来る、というのが僕の実感だ。
具体的な訓練
- フォーマルな瞑想で、自分の体や、心の感覚を観察してみよう
- 基本的な観察能力、バランス感覚を伸ばしていこう。
- 仕事中に、集中力が逸れたり、体に余計な緊張が走る瞬間を観察してみよう。
- 集中力が逸れたら、仕事に注意を戻してみよう。
- 体に緊張が走っているのが分かったら、ふわっと「中心」にバランスを戻してみよう。緊張が走るのは、バランス感覚が上下左右、奥手前のどこかにズレているのが原因であることが多いから。
おすすめの本
Kindleのサンプル版に「瞑想の基本」の全てが書いてある。
なぜなら瞑想の基本は、たった1ページだけで解説できるようなものだからだ。ぜひ読んでみてほしい。
瞑想と「トルネコの大冒険 不思議なダンジョン」の共通点
君は「トルネコの大冒険 不思議なダンジョン」シリーズを知っているだろうか。
このゲームではダンジョンに挑む。 だが、毎回ダンジョンの形は変わる。
敵の出現場所も変わるし、落ちているアイテムも変わる。 それを知恵で乗り切るのがこのゲームの特徴だ。
瞑想はダンジョンだ
瞑想はこのゲームに似ている。 なぜなら毎回遊ぶたびに、ダンジョンの形は変わっている。
だから「前と同じやり方で遊ぼう」と決めてしまっても、実は役に立たない。
前と同じアイテムは落ちていないだろうし、前と同じ敵が出てくるとは限らない。 空腹度だって前とは違うだろう。
具体的な話
- ある日は、ふわっとした軽さを求めて、心のバランスを保とうとしてみる。
- 集中力がみなぎっている日は、呼吸に深く集中したり、言葉のない世界を探してみる。
- 特別な問題を感じる日は、その問題のことをじっくり考えてみる。
- 集中力が落ちている日は、何も頑張らずに、ただ楽に座ってみる。
まとめ
- 昨日には昨日の冒険がある。
- 今日は今日の冒険がある。
- 明日には明日の冒険がある。
瞑想はダンジョンだ。毎回、形が違うから面白い。
今日はまた別の冒険をしよう。
決定疲れを防ぐ戦略 2 〜もう二度と迷わない方法〜
決定を焦らない
別の記事で紹介した「瞬時に決める」という方法とは相反するようだが、じっくりと、焦らずにに考えることも有効だ。
決定疲れが起こるのは、心の迷いによって僕らが無意識に頑張ったり、焦ったりしてしまうからだと、僕は考えている。
つまり、落ち着いた心で、穏やかに考え続けることでも、決定疲れを避けることが出来る。 特に重要な事柄に関しては「じっくり、ゆっくりと考える」「決定を焦らない」ということが有効だ。
- どれだけ時間をかけて考えても良い
- 長く考えた結果、答えが出てこなくても問題ない
こういう心構えで考えるならば、それは迷いではなくなり、心の消耗を防ぐことが出来る。
もし、ものすごく重要な決断をしなければいけない場合は、瞑想をしながら考えることをオススメする。
保留にする
保留にするというのは、決定のひとつの形だ。
保留にする狙いは「しばらくの間迷ったり、決定しなくて良い状態」を作ることだ。 なので些細なことの決定は、とりあえず保留にしてしまう手がある。
心が迷い始めた瞬間に「保留にしよう」「あとで考えよう」と、その迷いを棚上げしてしまう
そうするといつの間にか、決定すること自体を忘れてしまったり、問題が問題でなくなったりしているかもしれない。 (そういうことは人生で多々あるだろう)
だけど保留にすることで、
- 本当に保留にして良いのだろうか
- 一体、いつまで保留にするのだろうか
- 保留の期限は決めたけれど、この期限は適切なのだろうか
と心が迷い始めるとしたら、これは戦略が失敗していることにする。
あくまでも「迷い」や「決定疲れ」を防ぐための保留であることを理解した上で、この戦略を取ってみよう。
決定のルールを決定する
たとえば「飲食店でメニューに迷った場合は、一番最初に頭に浮かんだ方に決める」とか。 そういうルールを作ってしまう。
僕たちが決定にあたって迷うのは、
- 決定が適切かどうか分からないこと
- 決定をする方法が適切かどうか分からないこと
の二つよる。
この世の中の多くのロジックと同じように、 「決定」もまた、メタ的に機能しているのだ。
決定のルールを決めることで、決定に関する決定を避けることが出来る。 ルールがあれば迷うことはない。
ちなみにこれは、決定に関するルール作りや、決定方法自体の見直しをやめるという話ではない。 決定に関する決定が重要だからこそ、無意識の間にこの心のプロセスを発生させず、必要なら時間をとって、意識して取り組むことが重要なのだ。
ゆるい計画を立てる
たとえば休日にすることが決まっていなくて「今日は何をしよう」「次に何をしよう」と考え続けていると、決定疲れを起こす。
なのでゆるい計画を立ててみる。
- 8時からはブログを書いたり、瞑想をしたりする
- 14時ぐらいから街に出てカフェで過ごす
- 18時からはミニシアターで映画を観る
こんな風に。
なぜゆるい計画にするかというと、これはあくまで、決定疲れを防ぐためのものだから。 ガチガチに計画を固めてしまうと、逆に計画すること自体にコストを費やし、計画変更にもコストがかかるからという理由だ。
「計画のための計画」にならないように注意だ。
あくまでも目的は、休日の行動を迷わないようにするため。 計画によって逆に心が迷い始めるようであれば、本末転倒だ。
これは、あなたの心の感じ方に合わせてほしい。 あなた自身の心が、一番迷わないやり方を見つけると良いだろう。
心の感じ方は人それぞれだ。
自動操縦に任せる
自動操縦の行動に任せる 〜無意識に服を着替える方法〜 を参照してほしい。
自動操縦の行動に任せる 〜無意識に服を着替える方法〜
この記事では、ひとつ面白い遊びを紹介しよう。 それは「何も考えずに、服を着替えられるか?」という実験だ。
意識と無意識
僕たちは体を自分でコントロールしていると思いこんでいるが、実はそうではない。体は無意識レベルで動いている。
理論的には誰もが知っているかもしれないが、それを日常の中で見つけられているかというと、別問題だろう。 (だって、そもそも意識できないのが無意識じゃないか?)
でも日常の中で、無意識の働きは簡単に見つけることが出来る。
考えずに服を着替える
たとえば、服を着替えるときのことを考えてみよう。 服を着替えるのは、意識のプロセスだろうか? 無意識のプロセスだろうか?
小さい子どもにとっては意識的なプロセスだろう。 なぜならまだ、服の着替え方に慣れていないからだ。
だけどほとんどの大人にとっては、ほぼ無意識のプロセスになっているはずだ。 なぜなら、人生で何千回も服を着替えてきたから。
僕たちが 何も考えなくても 体が自動的に動いて、ボタンを留めたり、ジャケットを羽織ったりしていることに、気付いているだろうか?
いちど、何も考えずに服を着替えられるかどうか、試してみてほしい。 (何も起こらなかったら、ごめん。僕の場合は成功した)
発見
僕は最近、自分が何も考えなくても、自動的に服を着替えられることに気付いた。
このとき「おお、何も考えなくても、体が自動的に動いている!」というのを目の当たりにして、本当に驚いた。 大げさに言うのならば、意識というものの神秘を垣間見たような気がした。(いや、大げさじゃないかもしれない)
僕が今まで「自分で考えて、服を着替えている」と思っていたのは、ただの思いこみだったのだ。 服を着替えるというプロセスが、一番最初は意識的なものだったせいで、その名残が残っているだけなのだと理解した。
つまり、それから僕は「服を着替えている自分」の邪魔をしない。ただ、それだけで良くなった。
こうして意志力の消耗を抑えることに成功した。
脳のプロセス
これは人間の脳のプロセスからいうと、本当のことらしい。
たとえば今僕はブログを書いているが、キーボードの配列を全て記憶して、意識して指を動かしているわけではない。 意識の上位のレベルにおいては「何を書こうか」ということさえ、意識的にはおこなっていない。
ほとんどのことは自動操縦で進んでいき、僕の意識はそれを見守っているだけという感覚だ。
(瞑想を続けていると、無意識的な行動に対する観察もうまくなる)
飛行機は自動操縦
もうひとつ例えを出そう。 たとえば現代の飛行機は、ほとんどが自動操縦で飛んでいるという。
自動操縦で飛んでいるにも関わらず、余計に操縦桿を握れば、飛行機は逆にバランスを崩してしまうだろう。
人間の行動というのもこれに似ている。 生活のほとんどは、実は自動操縦で動いている。
僕たちが操縦桿を握るのは、手動でコントロールする必要が出たときだけだ。 イレギュラーな対応が必要になった場合だけで良い。
日常の実践
たとえば、忙しい時は自動操縦に任せる。
朝忙しい時に「あれをして、次にこれをして」と頭で考えて、それを実行するのはエネルギーを使うだろう。 なので意志を介在させずに、体が動くままに任せてみたりする。
すると案外、体はうまく事を運んでくれたりするのだ。 自分の意識は、ただそれを見守るだけで良い。
メリット
「自動操縦に任せるメソッド」の良いところは、とにかく、楽になるところだ。 マニュアルの操縦を最低限に減らすことで、エネルギーの消費も最小限にすることが出来る。
最初はちょっとコツが必要かもしれない。 だけど本当に楽になるので、ぜひ試してみてほしい。
もちろん、そもそもまだオートメーションのレベルにない行動に関しては、最初に着替え方を覚える子どものように、意識的に覚えなければいけないだろう。
けれど既にオートメーションされている行動に対して、マニュアル操作はしなくて良い。
それよりも、もっと重要なことに意志力を使おう。 日々の重要な決定や、そして行動のために、些細なことに消耗せず、意志力を潤沢に残しておこう。
具体的な訓練
たとえば、
- 着替えの時
- 食事をする時
- (車の通らない安全な)道を歩く時
など、日常の行動で、自動操縦が働いているかどうかを観察してみる。
そこにマニュアルの意識が入り込もうとするたびに、それをやめて、オートな働きにまかせてみる。
決定疲れを防ぐ戦略 〜もう二度と迷わない方法〜
「迷うことは、どちらでも良い」と理解する
僕らは、重要ではない事柄に関しても、重要であるかのように思い込む癖がある。 たとえば僕の場合、街を歩いていて「どの道を曲がるか」ということにさえ、迷いを感じている自分に気付く。(どちらの道のほうがマインドフルになれるだろうか? なんて)
その昔、TV番組である芸能人が言っていた。 「迷うということは、どちらでも良いってことだ」って。
この話を、僕はずっと時間が経った今でも覚えている。
重要な事柄に関しては、よく考えるべきだ。 だけど些細な事柄に関しては、迷う価値がないということがほとんどだ。
たとえば道Aを行っても、道Bを行っても、自分がどんな気持ちになるかは分からない。 どうせ人間の決定は、思うほど結果をコントロールできない。
それならば、些細な事に関しては「どちらでも良い」と理解して、決定の重要度を下げてしまうこと。 自分が些細な事に迷いを感じているのに気付いたら、「どちらでも大して変わらない」と、迷いを手放してみることだ。
瞬時に決定する
決める時間が短ければ短いほど、意志力を消耗せずに済む。 なぜなら、心の中で何回も、迷いと決定を繰り返さなくて良いからだ。
- Aが良いだろうか。
- それともBが良いだろうか。
- よしAに決めよう。
- でもやっぱりBの方が良いかもしれない。
- そういえばCという選択肢もあるな。
- Aの後にBをするという手もある。
- 仮にAに決めるとしたら、 A-1 A-2 A-3 というバリエーションがある。
- 仮にBに決めるとしたら、 B-1 B-2 というバリエーションがある。
- A-1 と B-2 ではどちらが優れているだろうか?
と考え続けていれば、それは決定疲れを起しても仕方がない。
迷いの時間は、短ければ短いほど良い。 なので、瞬時に決められることは、瞬時に決めてしまった方が良い。
特に些細な事柄に対しては。
コストパフォーマンスを考える
僕らはだいたい「良い選択さえすれば、良い結果が出るはずだ」と考えている。 まさにそのとおりなのだけれど、あまりコストパフォーマンスは意識していないはずだ。
「意志力の消耗」というバロメータを持っていないのだ。
だがたとえば +10ポイントの結果の向上のために、意志力を100ポイント使ってしまうのは、非常にもったいない。 意志力を100ポイント消費したとしても、結果が向上するという保証もない。
たとえばコンビニで「コカ・コーラを飲むか、ペプシコーラを飲むか」ということでずっと悩み続けるとしたら、心のパワーがもったいないだろう。(それを楽しんでいるならば、ともかくとして)
些細なことに意志力を使わないようにしよう。
「迷っても結果はコントロールできない」と理解する
正確に言うと、それほどはコントロールできない。僕らが思うほどには。
たとえば飲食店のメニューを見ながら「メニューAとメニューBを頼んで、どちらが少しでも幸福感を得られるだろうか」とイメージし続けても、結果の良し悪しは、どうせそれほどコントロールできない。
なぜなら自分の舌がどう感じるかは、ある部分、予想不可能な領域だからだ。
- その店で頼んだことのないメニューであれば、そもそも正確な予想は不可能だ。
- 自分の体調、空腹感、シェフの腕、味付けなど、全ての要素を分析して、総合的に幸福度を予測するのはこんなんだ
僕らには「コントロールしようとする癖」がついている。 その結果、ただ意志力を消耗させている。
これは「株式の上下は予測できないにも関わらず、予測できると思い込む」のと似ている。 「競馬の結果は予測できないけれど、予測できると思い込む」のにも似ている。
僕らは、予測の結果が当たれば喜び、外れれば残念がる。 当たれば自分の賢さを祝うし、外れれば自分の愚かさを乗ろう。 そして人生の中で、この予想の精度をより正確にしていこうと考える。
だけどそこにあるのは「コントロールできた」という錯覚と、「もっとコントロールできるはず」という幻想だけだ。
飲食店でメニューAを選んでも、メニューBを選んでも、どちらにしても、人生の幸福度はそれほど変わったりしない。 それよりも大事なのは、出されたメニューをよく味わって食べることだ。
もし「食事の選択」が自分にとって重要な事柄なのであれば、あとで時間をとってゆっくり考えてみれば良い。 (その時は、瞑想しながら、ゆっくり考えてみることをオススメする)
重要なことは、瞑想しながら考えてみる
人生で何度も心に訪れる「迷い」であれば、それは自分にとって重要なものかもしれない。 その時は、瞑想をしながら考えてみることをオススメする。
では、瞑想をしながら考えるのと、普段から考えるのとでは、何が違うのだろうか? それは考えのクオリティ、そして決定のクオリティがまるで違ってくるということだ。
人間は、何度も迷ったからと言って、良い決断が出来るとは限らない。 思考のクオリティが低ければ、決定のクオリティも低くなる。もしくは、決定できずに永遠に迷いを繰り返すことになる。
重要なのは、より良いクオリティで考え、そして決定をおこなうということだ。
瞑想をしながら、落ち着いた環境で、じっくりとひとつの事柄について考えてみることで、意志力の消耗を抑えつつ、思考することが出来る。
具体的な方法としては、目を閉じながら、ひとつのテーマについて考えて、自分の反応を観察してみるだけで良い。
- どんな思考が頭の中をめぐるか
- 思考に対して感覚はどんな風に反応するか
- その感覚はどこから来ているか
をよく観察してみよう。
今までに見えなかった問題点や、新しい視点、そして答えが見えてくるかもしれない。
注意
何が重要な選択で、何が些細な選択か。 これは個人によって違うものだ。
だが、まずは「本当に些細な選択」に対して実践することをオススメする。
勢い余って「家族・友人への連絡」や「仕事での決断」など、他の人が関わる事柄に対して実践するのはオススメしない。 それはおそらく「むしろ、意志力を使うべきもの」かもしれないからだ。
僕らが意志力を温存する理由は、より重要な事柄を決定しやすくするためだ。これは手段であって目的ではない。
意志力を消耗しないための戦略 〜心の迷いを見つける〜
前の記事で、意志力の消耗について書いた。 ( 意志力の消耗を防ぐ 〜ジョブズが黒いタートルネックしか着なかった理由〜 )
ここでは自分のケースを例に、具体的な戦略についてお伝えしようと思う。
戦略
事実は仮定に勝る。
重要なのは戦略よりも、まずは観察だ。 たとえば全く同じ戦略をとっても、人によっては効果が現れたり、現れなかったり、逆効果になるということがあるだろう。
それは人の心の動き方が様々で、見かけは同じように見えても、中身では全く別のプロセスが働く場合があるからだ。
なので「戦略Aを取れば、迷いを減らすことが出来る」と思い込むのではなく、 「戦略Aを取った結果、自分の心の迷いが増したか、減じたか」を実際に観察してみよう。
たとえば休日の過ごし方の話
いきなりだが、1日の過ごし方の話をする。 (僕にとっても、人類にとっても重要なテーマのはずだ)
たとえば僕の場合は、平日よりも休日の方が、過ごし方が難しいと感じていた。
仕事の日は、過ごし方が決まっている。仕事をするだけでいい。(なんて簡単なんだろう) だが休日の行動は、自分で決めなければいけない。
そのせいか、休日の夕方には何故か、エネルギーが枯渇し、憂鬱な気分になっていることが多いと感じていた。 心のバランスも、朝や昼ほどはうまく取れなくなってくる。
だがまさに今日、これはもしかして「決定疲れのせいではないか」と思い浮かんだ。
迷いに気付く
そのように理解してみると、自分が休日の間中、ずっと
- 「今日は何をしようか」
- 「次には何をしようか」
- 「何が一番良い過ごし方なんだろう」
と頭で考え続けていることに気付いたのだ。
僕は1日の間、おそらく100回も200回も、迷いと決定のループを繰り返していた。 (もしかしたら1000回や2000回だったかもしれない)
これでは決定疲れを起こしても仕方がない。
最初の戦略 - 計画を立てる
そこで僕がとった戦略は、休日の計画を立ててみて、もう決定しなくて済むようにするということだった。
- 朝 8時からはブログを書いたり、瞑想をしたりする
- 昼 12時ぐらいには街へ出て、買い物をする
- 夕方 16時からは友人と会う
これで「今日は何をしようか」という決定疲れからは、解放されるはずだ。 だけど、これで本当に問題は解決するのだろうか?
ご名答。ここにも落とし穴はあった。
計画を立てても決定疲れが起こる理由
たとえいったん計画を立てても、自分がその計画自体に懐疑的であれば、やはり心は迷いを繰り返すことになる。
- この計画で本当に良いのだろうか?
- もっと良い計画があるのではないだろうか?
- 計画を変更すべきではないだろうか?
- この計画通りに行動できるのだろうか?
ということを、100回も200回も繰り返し考えていれば、やはり心は、迷いと決定(あるいは非決定)を続けることになる。 (もしかしたら1000回や2000回かもしれない)
「重要なのは戦略そのものではない」というのは、こういう話だ。 ひとつの戦略をとっても、実質的に心が迷っているようならば、必然的に効果はない。
あくまでも戦略は、心の働きをうまく変えるためのフックに過ぎない。 ひとつの戦略がうまく機能しないのであれば、戦略を変えるか、もしくは心のプロセスそのものを変える必要がある。
次の戦略
僕が次にとった対応は 「計画を立てて、なおかつ、計画について迷わない」ということだった。
- 重要なのは、計画を立てること自体ではない
- その計画通りに行動することでもない
- 迷わないように計画を立てたのだから、計画に関して迷うのは本末転倒だ
ということを理解して、なおかつ、心が迷い始めるたびに
- 今日は計画があるから、行動を迷わなくていい
- 計画自体に関しても、迷わなくていい
ということを思い出して、今の瞬間に集中するようにした。
すると、今までのどんな休日よりも「意志力のリソースが残っていること」を感じることが出来た気がする。 夕方を過ぎてもう夜。だがまるで朝昼のようなエネルギーの蓄えを感じた。
これが真実なのか。科学的に正解なのかは、1個人には知る由もない。 だが少なくとも、今日は「心が迷う回数」が、どんなよりも少なかったと実感している。
まとめ
- 効果的な戦略で、決定疲れを防ごう
- 「迷わないこと」が最大の目的だと理解しよう
- 戦略を取っている間の、実際の心のプロセスを観察しよう
参考
意志力の消耗に関しては、軽くだが次の本で紹介されているので、読んでみて欲しい。